損失は 見積もれない。

持っていたものを失うことは、人生において、多々ある。

その喪失感をどうこうしろ、っていわれても、どうしようもならない。

大抵は、ひたすら時間の経過に任すしかないが、かと言って、時間が癒してくれる保証などないのが辛いところ。

どこかの映画のセリフに、
― 時が癒す?、でも、時が病んでいたらどうするの、なんてのがあったな。

でも、もっとマズイことを、人は往々にしてやっている。

おそらくは、現在の自分を幸運な者として考えたいために。

それは、

もしも自分がこれこれを知らずに、これを身につけずに生きてきたら、どんなにか不幸だったろうか?、と想像すること。

知らないでいれば必ず、その損失も感じないで生きているに違いない。

残念に思う自分など、決してどこにもいない。

だから、仮定さえ成り立たない話だけれど、人間は、わざわざ喪失感の裏返しまでやることで、現在の境遇を慰めたいらしい。

これを自分についてやっているうちはいいが、他人の身の上についてそれを行なうようになると、かなり悲惨な人格が出来上がる。

一見、他の者を肯定的にみているようだが、実は、けっこう厳しく裁いているのに気づかない。

他人を裁くのは、人の仕事ではないのに、とつくづく思う。

では。

みづから不正直を認める者。

或る時、司書のおひとりと、会話していた。

― 〇〇さん、もしもですよ、今日、僕がこちらにうかがって、この書物の 50%の複写をお願いする。
で、だいぶ経ってから、再び参上すると、今度は、同じ図書の 残り半分のコピーをお願いする。
できれば、違うご担当者に受け付けてもらって。

これについては、貴方の見解はどうです?
ま、おそらくはお答えにならないでしょうけど。

案の定、ノーコメント、なんでありました。

著作権の縛り(詳しくは知らん)で、図書館所蔵物の複写は、50%までが限度なんです。

たとえば、住宅地図だったら、見開きの半分だったっけ?

さらに、アンソロジー形式の書籍の場合は、その中の作品一篇が、ひとつの項目とみなされてるので、その半分までしかコピーが許されない。
なんとまぁ、やり切れないわけ。
コピーを依頼されるほうも、大変だ。

― そんなルールよりも、僕がこの書物の複写を入手して使うことのほうが、ずっと価値がありますよ、どう考えても。
今、日本で、この書物を追っかける者など他にいない稀少なことです。

……の言葉を、グッと飲み込んだ。

もちろん、どんな手を使っても、全部のコピーは入手するつもり。

こういう人間だから、僕は、他人の不正直を責めることなどは一切しない。

でもね。

いままで関知してもフツーのこととして知らんぷりしていながら、世間に関心が湧き起きると、さも正義の味方みたいに、さっそうと某教会と政治リーダーとの蜜月を暴き立てるようなのは、偽善として軽蔑します。

しかも、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、といった下劣な大衆心理に訴えるやり方で個人攻撃と来たもんだ。

告発された政治リーダーが言うべきことは、決まっている。

― 宗教団体の政治活動は認められていますしね。
選挙の票は欲しいので、関係を持ちました。
これが、国法に照らして違法な行為であるならば、今後は再考します。

こんなのが、いちばん正直な姿だと思う。

(軽々な謝罪は、その人間の底が見え透くだけ、そういうのもいるようだが)

事の是非については、その発言を聴いたこっちが、次の投票機会で判断することなんだから、それで十分ではありませんか?

では。

すべては 過ぎ去る〈All Things Must Pass〉

……、と言いながらも、次の世が在る、と思っている人がかなりの割合を占めるのが世界の民族のおおかた。

だから、彼等は、現世でおしまい、を信奉する極東アジアの某民族ほどには、この世の命に汲々としない、ように見える。

いや、もっぱら生物的な命に執着しているようなこのお国であっても、実際のところ……、

いまだ、検査によって判明した! 感染者数、死者数を、ルーチンでマジメに報道はしているが、保健所等のマンパワーも追いつかなくなっているらしくて、接触者の追究の範囲は、同居の家族まで、となっているらしい。

クラスター?、だから、どうしたの?、って話。

要は、言ってることは、仰々しく立派に見えて、その実、やってることは、いままでのインフルエンザと大して変わりないように、対応がだんだんと骨抜きになる。

なに、僕はそれを責めているのでは決してなくて、そうであって当たり前、いや、むしろ、どんどんそうすべき、と思っている派。

政治リーダーにしても、立場があるから深刻ぶって語っているだけで、およそ迫力もあったもんじゃあない。

処置できる医療機関を限定したままで、高波が来るたんびに、現場は大変だ、疲弊している、をいつまで繰り返すんだろう?

職場の同僚がふたり感染した、と聞いた。(で、ここ数日は離職)

発熱以外の詳細な症状は不明だが、結局は自宅療養であるならば、風邪や季節性インフルエンザと、対応のどこが違うんだろう?

あと何年後、生き残ったら、こっちを振り返って僕たちは、この3年越しの騒ぎを、どのように語っているんだろうか?

この曲だって、ジョージ ハリソン (1943 ~ 2001) が発表してから、51年。

半世紀なんて、過ぎてみれば、束の間さ。

では。

恋の成就を 望むなら。

或る友人 (=女性) が、(おそらく今よりはずっと) 婚活に熱心だったころのお話。

その日、初めて会った男性。

彼の運転する乗用車に同乗して、どこか(地名は忘れた)へと出かけた。

狭い道に来た時、どうもすれ違いがスンナリいかなかったらしい。

その男が、行き交った車の運転者に、それはそれは聞くに堪えないような暴言を吐いたそうな。

― その瞬間ですね、あっ、これで(この人とは)おしまい、と思いました。

ねんごろになりたい相手には、羊の皮をかぶってでもそれなりに装ってみせても、デートの途中で、ほんの瞬間かかわる人々に対して、無礼で優しさに欠けた振る舞いをしてなんら恥じることもなければ。

(唖然!) はい、それまで。― という見事な事例でありましょう。

一緒に行動する際、利用したお店のスタッフに敬意を払う、ふと行き過ぎる人へ道を譲る……、といった配慮。

そういうことに、人となりは、もっとも露わになることを忘れてはいけません。

イエスキリストだって、言っている。
〈わが兄弟なるこれ等のいと小さき者の一人になしたるは、すなわち我(王)になしたるなり〉(マタイ伝25章40節)

もちろん、初回ならば、すばやく助手席にまわってドアを開けて差し上げる、ってこともよろしいかと存じますけれど、大方の日本人女性は、そういうことは期待していない。

そもそも、そういう社会で育っていませんしね。

他人と何気なく交わる、飾らないそのやりかた、それが試されているのです、案外。

もちろん、それでだけで恋が成就するわけでもないけれど、それができなきゃあ門前払いが相当か、と。

ま、今回もまた、じじいによる大きなお世話、ですけれどね。

では。

それでも 図書館は使える。

この前、某公共放送だったか、
熱中症対策として、涼しい図書館で過ごすのもひとつの手、とか言っていた。

そういう発想は、否定しない。

けれど、個人個人の都合を知らないでおいて、軽々に電波に乗せて、こういうアイデアを推奨するのは、マヅイでしょう。

僕が、個人的に友人に話すのとは、わけが違う。

誰もが、図書館の近くに住んでいたり、気軽に自動車などで移動できるわけでもないし。

炎暑の中、ライブラリーにたどり着くまでに体調に異変をきたしたりしたら、どうするの?

また、COVID-19感染防止のため、図書館によっては、滞館時間を、例えば 1時間程度に制限している場合もあるのだから、ダラダラと涼まれても困るだろう。

……ところで、このように他人の冷房の恩恵にあずかる場合は多く、開架図書、つまり、書棚に並んでいる書物を抜いて来て、どこかに座って見て時を過ごすことになろう。

けれど、僕のようにこの先短い年齢になると、ただ漫然と目についた本を手許に取って楽しむ、という時間が惜しい。

したがって、図書館には、あらかじめ読みたい書籍を確保するために出向くことがもっぱらだ。

だから、むしろ書庫に仕舞われてある本を調べ、それをオーダーすることが多い。

さらに、図書館の利便はもっと他にあります。

❶地元の図書館に所蔵していない書物であっても、それを所蔵する他の図書館から、〈現物〉を取り寄せてもらうことができる。

これを、図書館間貸し出し、という。

特に、郷土資料、特定地方の歴史を読みたい、なんてのには使える。

そのような書物は、館外貸出をしていないものが多いけれど、この制度を使えば、取り寄せてもらった図書館内での閲覧はできるし、(ルールに従った)複写が可能。

❷さらに、多くの(中央レベル)図書館は、国立国会図書館デジタルコレクションにへのアクセス権を持っているから、申請さえすれば、館内のパソコンに案内され、画面から簡単に、稀少な書物を閲覧、複写できるというわけ。(註:個人的にアクセス登録も可能)

上記❶❷については、相談窓口へ行って、その旨を尋ねてご覧なさい。

ほとんどの場合、親身になって対応してくれる(というのが僕の経験)。

これを、総じて、レファレンスサーヴィス、と呼ぶ。

以前、メールでもって、ある資料の所在有無などを尋ねたら、それに関し、丁寧な返事を手紙でもらった。

それくらい、少なくとも!!、長野県における司書の方々は、仕事熱心で礼深く、有能でいらっしゃる。

たとえ一時であってもですよ、職業的な専門家に、まるで、自分専用の秘書のごとくに働いていただく、ってのは、かなりの贅沢ではありませんか?

もちろん、そこには秘訣がありまして、当方も丁寧、かつ、平明に要件をご説明申し上げるのがコツ。

鐘は、叩き方次第で、美しい音も出すし、不快な音で鳴ることもある、ってことです。

……、しかしです。

マイルスデイビスのトランペットは、いつ何時聴いても、陶然となりますね。

これ、1952年あたりの録音。

いまから 70年前ですぞ。

だから、それがどうした?(So What ?)、でいいんですけどね、これも、図書館から借りているんです。

では。