残酷で,素晴らしきゲーム (とりあえず★いわき戦レビュウ)

2 – 2 で、90分を締めて、PK戦となるも、そこで負け。

アディショナルタイムで、一時は逆転したりと、

あれだけやった感があっただけに結末は、、ずいぶん残酷なものとなりました。

レギュラータイム終了の笛が吹かれると、

僕の居た後方からは、

― 富山戦で学んだことを忘れたのかよ!、という声が聞えてきたが、

そこまでさかのぼって、このチームを責めるのは、〈酷〉というもの。

たとえ、数分間でも、

感極まるような歓喜をもらっておいて、

逆転のまま終えられなかったチームに文句をたれるのを、忘恩というのだ。

そもそもが。

共闘する者して

10,000人を突破できない(7,900人) ことの責務について、どう考えるのか?

……ここでは、とりあえず、次の4点。

❶金子のゴールは、澤崎のアシストになるのかどうか、

もしそうならば、勝ち点を 15まで積めたこととあわせて、

プレビュウにおいて、僕が求めた結果は、手に入れたこととなった。

❷前半で、いわきサッカーが実感され、そこにはかなり手こずったけれど、

後半、それを修正し、かつ、流れをこっちに持ってきた指揮官の手腕と、

それに応えたプレイヤーは、称賛に値いする。

いわきとは、来月には再戦があり、

見劣りしなかった今度の経験知からして、かなりな勝算が見込めるはず。

❸ここまで、9ゲームを消化して、クリーンシートが 2度(のみ)をどう評価するか?
と、同時に、無得点試合が 2回(のみ)で、勝ったゲームは、すべて複数得点。

堅守というには、まだ不足があったりして、

守備の憂いを消し込んでおいて、走り倒して、攻撃で粉砕するチーム。

この容貌を、もっと着実に、今の山雅には、刻み込みたいですね。

❹藤枝 康佑、言い方は悪いが、ただのネズミじゃあないわ。

〈神の手〉で翻弄するとは、フォワードの資質に際立っており、

金子 洸太を含めて、これら若手には、瞠目すべき才がある。

こうなると。

田中 想来も、琢磨して、これらに割って入れ。

では。

拮抗を覚悟しつつも (いわき戦プレビュウ❷)

たとえば、

福島、甲府、岐阜、長野。

これらのチームと、山雅、いわき、それぞれの対戦〈内容〉(勝敗は別)をみると、

圧倒(=優位)度や、互角度のあり方が、かなり似ている。

ゆえに、(乱暴ですが)

両者の力関係は、ほぼ拮抗しているだろう、と診ます。(その優劣は不明)

いわきとは、直近3シーズン、対戦がないので感触はほとんどないが、

遠く、2022季の記憶では、縦に速く、力強く……だったか。

今季。

山雅よりも、得点、失点ともに少なく、かつ、大負けもないから、

堅実なサッカー、と勝手に判断。(山雅が点を獲り過ぎなのだが)

だから、やることとは、真っ向から闘うこと、これに尽きる。

互いに、策を弄するよう場面も、あまりないだろうから、

〈剛直な引き締まった〉ゲームになりそう。

その中で、注文することは……、

たとえば、福島戦の、小田のゴールを演出したコーナーキック。

あの発端は、

安永が、福島の安在(ボールホルダー)をゴールラインまで追い詰めることで、ラインを割ってしまうミスを誘発したこと。(これが、今季の安永の変わりよう)

ガツンガツンのぶつかりにばかり目がいきそうですが、

こういった執念深い、一見、地道なプレイにまで心配りができるかどうか。

観ていて、集中と緊張を求められるゲームでしょうが、それも、また、一興。

個人的には、

あれだけシュートを放つ澤﨑に、ゴールとアシスト(セットプレイ) が生まれ、

チームとして、

前半戦を終えた時点で、勝ち点が15以上になればうれしいです。

では。

前節の問題点から始めよう(いわき戦プレビュウ❶)

なかなかに良いスコア(3 – 1)で勝利できた福島ユナイテッド戦。

けれども。

このゲームでは、60分以降のラスト30分間、山雅のシュートは 0 本だった。

後半ずっと、福島のボール保持率 が、ほぼ60%と変わらない中で。

これ、けっこうな問題点ではないか?

山雅が、0 – 3のスコアのままに、ゲームを締めようとしていたはずはないので、

その理由が、

福島の繰り出すパスが長くなり、ロングフィードが織り込まれ、かつ、サイドから侵入するように展開した、というのならば、

山雅のほうに、攻撃エナジーの衰えが生じただけ、では済まされない話。

つまり。

ラスト30分の過ごし方、特に、攻撃の迫力を維持するための方法論を開発、研磨しなければならない。

しかも、その時のスコアによって、

かっきり守備陣形を作って構える相手と、ゴールをめざして前傾で来る相手、この2様相にわけて、それぞれに活路を、ということ。

粗くいうと、❶固めた相手守備を崩す手法、❷ロングカウンターの決まり事。

もちろん、このふたつは、90分間にわたり使えて、かつ、対戦相手のスタイルに関係なく有効であるわけなので、

いわき戦において、特に攻撃で是正がなされているか?が、

まずは、注目点でありましょう。

では。

生きる価値の源泉。

レオナルド ダ ヴィンチ(1452~1519年) 。

この名を知っている人は、ずいぶん多い。

けれど、あぁ、絵画モナリザの作者か、で済ませがち。

だが。

その生涯をざっとみると、画才のみか、その才能は、極めて多領域に発揮されていて、

もしも、モナリザ制作に精力を注ぐことなどせずに、

当時の、都市国家の君主いづれかにでも雇用されて、

国家における、設計建築、軍事/外交から民生にいたる統治(行政)、さらに、芸術文化のすべてを含んでのプロデューサーの職に就いていたら、

かなり面白い歴史的な遺産をみられたかも知れない、僕らは。

……つまらん夢想はこれくらい。

で、彼は、こんな言葉を残した。

自分が、如何に生く可きかを学んでいると思つてゐる間に、自分は、如何に死す可きかを学んでゐたのである。  (訳 芥川 龍之介)

大正初めの硬い翻訳文を、いまふうに言い変えれば、

自分では、どのように生きるべきかを究めようとしたつもりが

なんのことたあない、どのように死ねばよいのかを学んでいたのだ……、となろう。

誰にでも、(すくなくとも一度の)死が、いつかは、訪れるからこそ、

いま生きている人生(=瞬間、瞬間の堆積) に価値が生じること。

これに、ダ ヴィンチが気づいたのは、いつ頃だったんでしょうね。

それから200年後。

『葉隠』の著者(1716年頃成立、佐賀藩士山本 常朝の口述を筆録)もまた、

同様な真理に辿りついて、

〈武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり〉とする。

これを、ただただ、死を厭うな的の特攻精神と、誤ってとらえたのが、

国家、天皇陛下のためには命を棄てよ、とされた、あの当時のこと。

ところが、1945年8月を境に、今度は、

どんなことをしてもわが命を棄てるな、我が身が一等大事、と振り子が真反対に振り切ってしまってから、80余年。

結果。

今の日本人には、生物学的な生命第一主義の死生観しか存在しないから、

命を賭してでも事をおこなえ、などとやったり言ったりした者には、

頑迷な好戦主義の烙印が押されるばかりなり……。

では。

ものを言うこと。

半世紀前に、ひとりの文筆家が、こう記したー。

ものを言ふというのは本来は言ひたいことがあるから言つたのであり、

言つた以上はその責任を取るのが常識だった(by 吉田 健一)

どうやら当時、世の中が、すでに、そうなってはおらずに、

言いたいことよりも、言って得になることが重要視されたり、

言ったことに責任を取るなんてのは損だ、という風潮があったから、

こういう言葉が、吐かれた、と思う。

それから。

ずいぶんと時間が経ちまして、

一個人のつぶやきさえもが、これだけおおっぴらに、大勢の耳目に届く今日。

注目されたいだけのために発する言葉が、あまりにも、飛び交い過ぎている。

では。