【現地心象論】松本へ帰ろう,前を向いて(VFK戦レビュウ)

結果は、0 – 1 の敗戦。

甲府による得点は、オフサイドからの抜け出しによるもの。

直後、松本ベンチからは強く抗議があったように見えた。

が、ジャッジがそれを採ってくれなければ、残念だが、ゴールはゴール。

(少なくとも、あとひとつ戻りオフサイドを見逃していて、ま、望ましい技量にない線審でした)

さて。

ゲーム後半の山雅。

対策(修正)が効いたりして、その盛り返しがミゴト。

相手を凌駕する落ちない運動量、ボールへの執拗なアプローチ、前進する姿勢で魅せてもらった。

甲府は、サイドへボールを運んで侵してくるだけの力を持つチーム、だとは思うが、

あれで平常運転なのか、目一杯なのかどうか?、バックスタンドで、横に座るヴァンフォーレサポーターに訊いてみたくはなった。

というのは、

それだけ、自分のサッカーの描出において、山雅のほうが明確、かつ、優っていて、

極端な話、どっちが2部で、どっちが3部のチームかが、わからない、そんな趣き。

この調子だと、来年の秋には、対戦してるかも。

かように、後半はこっちが獲ったゲームだったから、

残念なのは、

攻撃のつくりにおいて、もうひとつアイデアと精確さを欠いたことだった。

ゆえに、危なげのない守備のところは良しとして、やはり、攻撃に課題を残す現状、と戒めておきましょう。

やっていることに迷いが感じられず、研ぎ出したいサッカーが観てとれる、こういう信頼感が、実に、良い。

爽快です。

萬年、今季初の現地観戦でしたが、小瀬で、いいものをみせてもらいました。

……このアウェイ4連戦。

筆者的な胸算用は、勝ち点4かなぁ、だったので、1点足らないが、まぁまぁ。

事故みたいな失点だった対藤枝戦をのぞけば、あとの負けふたつは、同点と逆転の可能性があったし。

ともかく、これで、やっとこさ帰松。

ホームで、新しいチームを、全ファン&サポーターにお披露目できますね。

では。

自治だよ,自治なんだよ,試されているのは。

外国人をとっ捕まえてきて、彼らの口から、

日本(とその文化)がどんなに〈凄い〉かを言わせる仕立ての、

TV番組や、ほとんどプロ制作の(趣味とは思われない) 動画が、横行する。

どうして、そんな手の込んだことがおこなわれるのか?

外つ国(とつくに)の住人から、君らは大したもんだ、と評価されてはじめて自信が持てる、といった精神構造が、

僕ら日本人に抜きがたく、しかも、それが、奇怪/悲哀であることも感じてないからだ。

ある人は、170数年前むりやり鎖国を解かれたのが、その起源では?、と書いているが、そうかも知れない。

たとえば。

やれ、GDPが世界第何位とか、今度のオリンピックではメダルを何個獲った、という話が、

それを聞いた者はかならず、名誉に思い、かつ得意になるだろう、と思量されて発信される。

逆に、順位を落としたり、メダルが減ったりすると、なんだ!! と大騒ぎになる。

いつ何どき、空から爆弾が落ちてくるかもしれぬ日常でもなく、

子のスポーツ生活(=留学など)にお金をかけられる経済が在ること。

そういうありがたい世界 (全地球がそうではない) に住めば、なし得る可能性がt当然なのに、メダルメダル、と騒がしい。

他方。

なにごとにも自信がないことの表裏一体が、

あたかもお墨付きをいただいたような論調で、〇〇は、そうあるべき、と憲法第9条は不可侵、のように主張する精神構造。

こういうのは、アタマの浅薄ゆえの単純化、それプラス、知ったかぶりの話が多く、

根拠を求めれば、あそこでは、そうなんだ、くらいの答えしか返って来まい。

たとえば。

ゴール裏とは、

チームを勝たせるために、降られる旗で視界が遮られても文句はいわず、座り込みはもってのほかで、発声とジャンプにいそしめ、とか。

クラブが、興行主の責任で発表した、ゴール裏における旗の振る舞いについて。

僕は、そのルールそのものはどうでもいいが、

気に食わないのは

南ゴール裏に集う人数の規模で、

中から挙がった不満や改善要求の声を、自分たちの輪の中で討議して、

それなりの妥協(としての一致)、評決、合意へと持っていけない、集団としての自治能力の低さだ。

こういうのが、烏合の衆。

問題を皆に呼びかけ、そこに関心を集めて、みづからのルール形成へと持っていくリーダーシップを有する人材に乏しいのだろう。

だから、文句は、学校の先生に言いつけるようにクラブへ発信、

クラブが動いて示したルールを、後手で、文句を言う。

ただし、

そうじゃあないだろう、これでは熱い応援ができない、と文句を垂れている多くは、あのゴール裏の常在者では、おそらくはなくて

この事案をつまみにして自分の、観念的なあるべき論を吹聴する輩だろうが。

もしも。

あのゴール裏を占める者で、今回のルール変更に不満ならば

ゴール裏住民を動かして、自分達なりのルールを作って、クラブに提案してみなさいな。

まづは、住人としての自治ができなくちゃあ。

話は、それから。

もめごとは、アルウィンのオリジナリティを高める良いチャンスでしょう?

もちろん、

ゴール裏に堪えられない者は、他に行け、との発言は、

地面にかってな輪を書いて、気に食わない者をその輪の外へと排除するいじめっ子と同じレベルの、

幼稚な差別主義であって、

これを、アルウィンでは見聞したくない。

では。

隙を見せるな,智恵を用いよ (ヴァンフォーレ戦プレビュウ❷)

……未練がましく、歴史から、教訓めいてひろうと、

塩尻峠の戦い(1548年)は、小笠原軍の大敗に終わり、武田による信濃支配に、おおいに弾みをつける結果となった。

武田軍の(作戦としての)遅延的な行軍に油断した小笠原方は、

武装を解いて寝込んでしまい、早朝6時頃の敵急襲によって、多数の死者を出して壊滅した。

要は、甲府による反転、あるいは、意表を衝いたライン裏への侵攻には、くれぐれも意を配り、スキを見せてはなりません。

さらに。

こっちがかけるハイプレスにしたって、そこを掻い潜られれば、即、事態は相手側に有利に展開するのだから、

万全の態勢と、バックアップを施すことで、手に掬った月を逃がさぬように要心、用心。

さらにさらに。

1582年2月初めから開始された、織田/徳川連合軍による甲州征伐が、わづか5週間で、勝頼自害により終結したそのわけは、

木曾谷から侵攻した敵主勢力に対し、徹底抗戦したのは、勝頼の異母弟である仁科 盛信が拠った高遠城ただひとり!!であり、(盛信は戦死)

残りの武田家臣のほとんどが、離反、寝返って、無抵抗だった。

これこそが、機に敏な、つまりは、

情勢を読んで機敏に動いて保身をはかる甲斐人気質であり、そこでは、〈報恩〉は、行動原理にはならないらしい。

ヴァンフォーレサッカーの狡智の、そのまた上をゆく〈巧さ〉で各局面をコントロールしよう。

……ところで。

調べてみたら、ヴァンフォーレとは、過去12戦していて、

山雅の戦績は、6勝 3分 3敗。

あれれ、意外や、勝率 50%も稼いでいるのかいな。

J参入以来、

山梨大学医学部のグランドでやったテストマッチなどは、

いつも、3 対 7 で押されまくっていた記憶しかないものですから。

チームは毎季更新されるのが、ならわし。

ですから、頭の中もご破算にして参戦すべきでしょうが、

小瀬にむかう足どり(気分)を、すこしでも軽くしておきましょうや。

では。

恩讐の此方で (ヴァンフォーレ戦プレビュウ❶)

〈恩 義〉
あの夜のゲーム(対宮崎戦) 内容は、天候とともに寒々しく、

かつ、観客が、1,500人チョイだった。

これじゃあ、チームに勝て、と求めることはファン&サポーターの身勝手だろう、との感慨しきりでしたが、

ともかく、

アルウィンが使えなかったホーム戦には、ホームスタジアムと会場運営のマンパワーをもお貸しいただいたこと。

まことに、感謝の念に堪えません。

〈復 讐〉
1542年から、武田 (勝頼) 一族が滅亡した1582年までの 40年間。

甲斐 武田氏は、信濃南半分ほぼ全域を支配下に置いた。

その勝頼自身とて、

兄の義信が、父(信玄)によって自害(廃嫡) に追い込まれなければ、

一族の領袖として引っ張り出されることもなく、

一生を、諏訪城主として終えたはずだから、いい迷惑だった。

とにかく。

武田氏の信濃侵略の過程では、

たとえば、塩尻峠(=勝弦峠)の戦い(1548年)において、小笠原長時(林城主) 側で参戦した村井氏は滅亡し、その後も、

穂高方面では婦女子(非戦闘員)を含む者が多く惨殺されて、その屍を野に晒したのだから、

現在、山雅ホームタウンに住まう、その末裔らは、500年昔の祖先の怨念を忘れてはならず、

そこにこそ、〈信甲ダービー〉と銘打つ、重い切実さがある。

それに比すれば、3/14のダービーなど、いわれが在って無いようなもので軽い。

さて。

物騒な前置きはともかく、

いま、ヴァンフォーレが、どうなっているのか?

佐藤 和弘は在籍していて……?、ただし、

ここ1、2年は、あまりパッとした戦績も聞こえてこないというのが筆者の感想。

いずれにしても、甲府戦が、キャンプ打ち上げの最終章であるからには、

いま到達している最上を出し切るサッカーをおこなって、

武田氏の侵攻経路をたどって、松本に凱旋しようではないか。

では。

『山雅らしさ』という雑音。

技量に不足する者が採用したサッカーを観続けていたら、それが好きになっちゃった、が真相だろうけれど、

誰かが、フト言い出したことが、いつしか、そうでなくてはならない、と固着してしまうのは、なんとも切ない思想統制のようなもの。

勝つと、山雅らしさが戻ったとか、負ければ、それを見失った、とか。

三文記事によるミスリードが跡を絶たないから、今一度、引導を渡しておきたい。

派生的にみれば、40番目のしんがりクラブが、

Jリーグにやって来た後発者として、時間との争いの中、

チームとプレイヤーの最低限な素養、技量に乏しいがゆえのボール奪取への執着、堅守速攻などを備える過程で、

それらが、あたかも、山雅に固有のもの、とみなされた。

だから、カウンター攻撃になったとたんに、観る側のアドレナリンがほとばしるように慣らされる。

ところが、

サッカーが、アソシエーション フットボール(ア式蹴球) である限り、

そこでは、連携のための決め事(規律)、連動するための走力、採るべき守功の方策は、アタリマエのことであるから、

山雅らしさと呼ぶほとんどは、そのまま、サッカーチームに根源たるべき資質であった。

で。

いまチームが取り組む〈再興〉の中身は、

心身ともに屈強な集団を母体にして、ゲームを安定/圧倒的に勝ち切るサッカーの実現、と診る。

それは決して、復古や、先祖がえり、ではない。

僕からすると、新しい指揮理念や、今季の編成、特に、新加入のメンツをみる限り、

かつての #10は、その献身によってたしかに僕らを魅了したが、そこに物足りなかったもの。

すなわち、スマートネスとタフネスをめざす。

フェアに、知力(=スマート) を尽くし、黙々と強靭であらんとする。

#8 深澤、#9 加藤。

名実ともにキャプテンシーを発揮する彼等のプレイスタイルは、それに適う。

ついでに。

〈泥臭い〉への称賛にしても、それは、下手さ拙さの容認につながるものであって、

プレイヤーはあくまで〈上手く〉なるために修練するはずだから、軽々に口にすべき言葉でもなかろう。

ここで。

スペイン1部、直近のゲーム(バルセロナvsレバンテ 2/22)ハイライトを引用。

かたや、25戦20勝の首位。他方は、4勝の19位と、その力量差は歴然としていて、

3 – 0 のスコアだけでは、現わせないバルセロナの〈~らしさ〉

いつまでも、山雅を弱者の立場に置きたいのならば、このまま、

〈山雅らしさ〉を喜んでいればいい。

が、めざすべきは、やはり、こういう王道の〈強さ〉だと思う。

では。