キジバトは,巣立った?

庭の金木犀(キンモクセイ)の、

僕の手を伸ばすと届く高さに、キジバトが、小枝を集めて巣を作った。

かれこれひと月も経った先週の15日に、

それまでずっと、巣を守っていたキジバトの姿が消えた。

卵を抱いていたはずだが、無事にヒナが巣立ちしたんだろうか?

僕の素人計算では、一週間くらいは早いように思われたので、

営巣を始めた時季をハッキリさせようと、

記憶をたどるため、その頃に訪問した親族に、日付けを確かめたりしたんだけれど。

記憶よりも記録だったか……、と後悔、先に立たず。

空っぽの巣を見あげては、新しい生命が旅立ちしたことを願っている。

では。

吟味を迫る時代に。

家人から、しばしば苦言されることがありまして。

僕が、なんでも(彼女の発言に対する) 批判から入る、という。

いったん、そうだよね、と受けとめておいて、

次に、おもむろに(しかも穏やかに)、でもね、こんな考え方、観方もあるよ、とやれば、きっとご機嫌を損ねることはないだろうが、

レストランの評価でもあるまいし、

あれもこれも、という生きかたに僕は疑問を持っているので、

今後も同じことをやって、家人のご不興を買うに違いない。

最近。

読みだしたばかりの、デカルト(1596~1650年) の『方法序説』の冒頭には、こうある。

良識(=理性)は、ひとに公平に分かち与えられたものであって、
だれでも十分にそれを備えていると思っているので、自分がいま持っている以上を望まない……

この説の真意がどこにあるのか?

それは、これから読み進めていかないと知れないことだろうが、

こういう書き出しは、かなり魅力的でいい。

というのは、

書かれてから 400年経っても、読む者を、有無を言わせず

〈理性〉といわれているものを吟味させるかのように、誘うからなんです。

もちろん、これは、今現在の、僕の問題意識に、ぴったり来た!、というに過ぎませんけれど。

では。

女王は孤独に死す。

過日、初夏の陽射しの中で。

玄関わきのヤマボウシにたまたま、スズメバチの巣を見つけたのである。(地上高 2.5mくらいのところ)

子どもの握りこぶし大の、薄褐色のフラスコを、逆さにしたような格好でぶるさがる。

筒状の突起が、巣の下側についていて、これが、蜂たちが出入りする入り口か。

この時季、巣では、女王蜂がひとりで、巣作りと産卵にいそしんでいる。

このまま放置すれば、

数百匹の働き蜂(すべてメス)と、交尾専門の、(全体の10%程度の)オス蜂が棲息する、立派な巣になるだろう。

しかし、

攻撃的なスズメバチと、これほど身近に生活するのは、とても勘弁。

蜂に刺されて死ぬのは、なんとも気が進まない。

そこで、いまのうちにと……、

脚立を隣家から拝借してくると、

巣のついている枝を切り取った。

異常に気付いたか、巣からそそくさと出て来た女王蜂ともども、袋をかぶせて捕獲する。

で、袋の口からジェット式の殺虫スプレーを噴霧して、一気に殺害した。

入り口から巣の中を照らして見ると、1ミリ程度の、小さな卵(白色)が3つ、仕切られた部屋に産みつけてある。

数日中にはふ化するだろうが、もうママからは栄養をもらえず、餓死するしかない。

……このようにして難を逃れた一部始終を、

やって来た小学二年生に、残された巣をみせながら話したら、

自分は、もうこれ以上、そのスズメバチの巣を見るに堪えない、と言う様子をみせる。

この出来事で、ふと、僕に、

〈死〉についての、幼少時の感覚がよみがえる。

この年代では、

死を、生命活動の停止といった現象ではなく、

もっと切実な、まるで世界の終わり、と感じていたということを。

だから、

― 太陽と死はじっと見つめることができない。
by ラ ロシュフコー (1613~1680年)

といったような言葉を、気の効いた言葉として喜ぶのは、

実は、大人になり切れない子どもに似た感性であることがわかる。

死を直視し、それに対処できなけりゃあ、いっちょ前の大人とは言えない。

もちろん、子どもの心で生きることをいやしめるつもりもありません。

では。

公理は、反証をゆるさない。

〈公理〉とは、簡単にいうと、

純粋数学(幾何学など)にあって、大、大、大前提となる決まり事のこと。

例えば、次のようなもの。

異なる 2点を結ぶ直線は、ひとつ(1本) しか存在しない。

これが、数学という学問の理論的な出発点(のひとつ)、なわけです。

……こう書いてくると、

昔、学校で、数学が苦痛だった方々、あるいは、いま苦しんでいる方々は、

これ以上、この投稿を読む気が失せるかも知れませんが、これからが、面白いところなので、どうかおつき合いを。

で、この〈公理〉が宣言され、成立する根拠とは、何か?

それは、経験的、直感的に、(ほとんどすべての人間に) それが真実、つまり、そうに違いない、と感得されるから

ですから、〈公理〉は、その性質上、決して反証をゆるさず、拒絶する。

エマニュエル カント(1724~1804年、独の哲学者)は、

こういう純粋直感、つまり、〈決めつけ〉を土台とする数学は、学問として、もっとも成功している、とまで言っておりますな。

さて、ここまで来て、僕が、ふと、思うには、

我が愛するクラブの周囲にも、公理のようなものが、見え隠れすることがある。

過去の経験による直感にもとづいて、

いまだ、5代前の、偉大なる指揮官(とそのサッカー) を待望してやまない未練、がそれ。

決めつけ、反証を拒絶する、なんてところは、まさに公理、と言えましょう。

……18世紀の哲学者を引用すると、ファン&サポーターの生態も、説得力がありますね。

では。

七年を要した陥落。

他人の企業経営を、外から眺めて、余暇を埋めてるに過ぎないんですけどね。

パ〇コ、イトー〇ーカドー(高宮)、と続いて、

ここへきて、老舗の 井〇百貨店(深志) が、それぞれ来年に撤退(閉業)……。

乱暴な言い方をすれば、

2017年秋、松本市中央に開業した、イ〇ンモールが、これら店舗に、最終的な引導を渡した、ということでしょう。

皆さん、大きな声では言いませんがね。

当時、イ〇ンモールの出店計画があらわになると、地元の商工会は、

あのあたりの交通渋滞を問題視するようなフリをして、その開業をストップせんとしていたのが、思い出されます。

渋滞はいまや日常茶飯事となり、

それがソックリ、他のお店には閑古鳥を呼び込んだ、ということか。

じわじわと、けれど、確実に七年かかって衰退は進み、

他方、市内 3つの地区で商売を制した、イ〇ンは、ひとり勝ち。

次は、そのドラッグストア部門である、ウエ〇シアが、その方面を押さえにかかる図式。

こんなのが、目に見えていますが、

生き残るためには、セブン&〇 ホールディングス傘下の、雑貨を扱うロ〇トが、

今度は、その商売仇の、イ〇ンモール内に開業するわけですから、

こういう節操のなさは、高度に資本集中化した社会では、ごく当たり前と思わないと。
(ロ〇トは、僕にとって、あそこにしかない品物があるから助かるんですが)

で、ますます寂れる市中。

狭隘な土地に、ギュウギュウな博物館を作っちゃったり、

かつ、

いまの場所に、市庁舎を更新しようとしているのは、一体、何なんだ?

ジャガー氏に言わせると、

― (国宝)松本城の近辺に在るのがステータス、と考えているのでは?

はてはて。

では。