いままで経験したことのないような。

(画像提供☞ジョーワールド)

最近、よく耳にするフレーズ。

気象庁の中の、どなたかの考案なんだろうが、

未曾有とか、前代未聞とかの、紋切り型表現を、

あえて避けている姿勢には、好感が持てる。

日本人は、昔から、年に二度ある雨季を、梅雨、秋雨と呼んできたのだから、

長い目でみれば、その激烈度は、そうそう変わらないのではあるまいか。

……などと考えるているのは、

そうなのだ、僕が、暇人だから。

生活が、ルーチンとお気に入りで埋められて、かつ、

それを。居心地よく感じるようになれば、

これは、かなり危険な、行き詰り、に違いない。

やはり。

瞬間瞬間が、そのとき一回限りの、スリリングな、(知的、行動的な)冒険に満ちていてこそ、がよい。

70年前に演奏された、この曲のように。

では。

120年経っても変わらないもの。

それは、人間の中に住まう、陰湿な、底意地の悪さ。

過日の愛媛戦で。

同点弾を放った #17 田口 裕也に対して、

2か月前までは、自分の応援するチームに所属していたプレイヤーであったにもかかわらず、

いや、プレイヤーであったからこそなのだろうが、

得点して魅せた田口の活躍を、貶める発信をする者があるらしい。

人間が行き詰ってくると、

他人の成功が、いちばん自分にとって喜べない事がらになるものだが、

今回の件は、その最たる見本だろう。

しかも。

田口を悪く言うために、わざわざ引っ張りだされるのだから、

田村 翔太(愛媛FW #11) にしてみたら、とんだ迷惑に違いない。

ただし。

これを、あのチームの取り巻き一般へと拡大するつもりもなくて、

どこにでも、

たとえば、この松本にも、松山にも、ころがっている個性と考える。

ちょうど、今から120年前。

小説『坊ちゃん』は世に出た。

この小説は、作者の

漱石自身が、英語教師として松山の中学校(旧制) に赴任した経験が活かされていて、

そこに登場する〈赤シャツ〉なる教頭とかの、狡猾ないじめが、今回の出来事で想起された。

かつて、漱石先生が、辟易としたであろう、卑しい人性は、いまだに変わらなくて、克服されないわけか……。

では。

残虐性を認めつつ。

ひと頃の渇水が、最近の降水で、一段落。

朝晩の気温低下傾向もあってか、植物も、息を吹き返したような有り様。

桔梗や、萩は、ふたたび花をつけはじめ、

無花果(いちじく)は、第二波の、熟成期に入ろうとしている。

昨日。

熟したやつを樹からもいで、そのままフレッシュでいただいたが、

中身は、透明になるほどに熟れていて、おそらくは、かなりの糖度。

こういうのを、贅沢というんですかね。

ついでに。

収穫を終えた南瓜のつるを、まだ枯れてはいないけれど、すべて抜き払った。

で、空いた場所には、鍬を入れて、ひとまづは平坦にする。

……さて、ここからが、本旨でもって、

畑を、縦横無尽に掘っては荒すモグラをば、

息子からもらった、捕獲器で亡き者にしよう、という魂胆。

ワナのつくりは、いたって簡単。

かなり強いスプリングを、ストッパーで押し拡げて止め、モグラを挟むワッカが開いた形にセットする。

それを、モグラが通ると思われるトンネルの中に、坑道に沿って挿し込むように置く。

モグラがそこを通過する際に、体が留め金に触れて、そのストッパーが外れると、

瞬時、強力なスプリングの反発力で、ワッカが、両側から勢いよく、バチンと締まる!!

たまたま、息子が捕獲した犠牲者を見せてもらったが、

モグラは、胴体をぺしゃんこに圧縮されていて、すでに息はなかった。

捕獲といっても、実際は、駆除であって、違法なことに違いない。

読者もお気づきのことであろうが、この捕獲オペレーションの許し難い点は、

モグラの地下活動が、畑の作物の収穫量を減じている、という証拠がまったくないにもかかわらず実行されること。

かしこに盛り上がる土塊が不快なり、それだけの理由に過ぎない。

けれど。

みづからの残虐心に痛みつつ、それでも仕掛けるモグラ屠殺器

これじゃあ、この先、いい死に方はしないだろうな。

では。

なぜ BOO を好かないのか。

日本語では、ブーイング、として定着してますな。

スポーツのゲームや演奏、興行、演説(スピーチ)にむかって、不満、不興を、

口をとんがらせて、ブーという罵声で、プレイヤーに浴びせるやつ。

日本では、1970年代はじめ、

ローラーゲームの実況をやってたミッキー 安川(1933~2010年)が、TV放映の中でやった、とどこかで読んだ。

青春時代をずっと米国で暮らした氏であるから、文化として知っていたんだろう。

チケット代に見合わない演じ物に対し、

不満を表明するのは、これはもう、カネを投じた者の当たり前の言い分だから、BOOをやるのを、ダメとは言わない。

が。

最近の山雅ホーム南ゴール裏が発声するBOOについては、

気持ちはわからなくもないが、好きになれない。

そのわけ、ひとつ。

端から、数をたのんでやっている点。

みんなでやるのがBOO、と言われると、それ以上、いいようもないが、

それでは、

8月15日に、受けを狙って、〈みんなで〉靖国に詣でる(姿をみせる)国会議員とおんなじレベル。

子どもじみていて、笑えない?

できれば孤立無援であって、群れるのが嫌な萬年は、

みんなでやれば怖くない、という態度は、ごめんだな。

ふたつ。

負けると、かならずBOO、という図式が、ほぼ定着してますが、

サッカーを観る眼として、あまりにも単純。

これも、

観戦ではなく、共闘するゴール裏であればこそ、ゆるされる、と思ってるんだろう。

が。

共闘する者が、戦う同志に対し、BOOをするのは、いかにも尊大ではないか。

いろいろ言ったところで、これからもやるんだろうから、これ以上は云々しない。

けれど、

口を突き出して、不満のブ~っ!!は、せいぜい2歳までに卒業したいのが、日本人の礼節だ。

では。

この時季だから,ではなくて。

僕は、8月15日を、それほど、絶対視していない。

つまり、この日を境に、日本が180°までは変わってはおらず、

滅びたのは、絶対天皇制くらいで(徹底的な武装解除政策は、その後、数年で変更される)、

2発の原子爆弾によって、万事休した日本政府が、ポツダム宣言受諾を宣した日に過ぎない。

もちろん。

米国が、投下の正当性として主張するとおり、本土決戦が敢行されていたら、もっと多数の日本人が殺害されたことは、間違いない。

ただし、米国には、原子爆弾を使用しない選択肢もあったわけだから、

投下について、知らんぷりや、正当を決め込んでもらっては困る。

(日本人のほとんど誰もが、いまだに、米国の投下責任を追及しないが、何故?)

そうしておいて、米国発の音楽、流行を受容する僕ら。

……前置きはここまで。

勤務先の食堂に置いてあった、某市民タイムス8月9日版を、山雅の話題でもあるかやぁ、とめくっていたら、ひとつのコラム記事。

佐藤 進氏 署名。

冒頭、ひとつの短歌を採りあげておいて、

その作者の石川 啄木が、最晩年(26歳で亡くなる)に、

社会主義思想に関心を深めていきました……と続ける。

啄木が、社会主義に〈好意的な〉関心を持ったのは、間違いない。

が、当時の、

かなり無理をした格好での、後発的の急激な、資本主義化が進む状況下では、

知識青年層の多くが、社会主義への憧憬を抱いたのであって、啄木が特別ではない。

もちろん、啄木を題材に採りあげることは構わない。

氏は、つづけて、

その目指した理想は、共同原理に基づく民主主義と平和主義、そして福祉主義の相互扶助の社会だった、と。(ここらは、岩手県立図書館による資料の抜粋)

これを引用するなら、なぜ、民主、平和、それと社会の3つの主義が、セットなのか?を、歴史の検証によって述べねばならないが、

それも、ここでは、我慢するとして、

問題視されるのは、段落が変わって最初の、

平和憲法が邪魔とばかりに戦争準備が着々と進む今を、啄木が見たらなんというでしょうか。(原文) ― の文言。

マジメに反論するのが、かなりしんどいのだが、

平和憲法が邪魔とばかりに進む戦争準備……か。

僕は、フト目にした記事だから、これがシリーズ化していて、この筆者による、他のキチンとした論証を見ていないせいかも知れんが、

しかし、こういう呈示のしかたは、ひとっ跳びの決めつけ論調で、かなり狡く粗い。

して、最後の締めはこうだ。

啄木が生き返ったら、今の日本をみて、

― 国民を守るどころか滅ぼしかねない戦争を、なぜ?と問うのでは?(原文)

ならば、

この筆者に訊ねたいのは、

❶押し付けられたものだが、せっかくだから、第9条の理念は、都合よく使う(僕の考え)として、

リアルな世界情勢で、独立国の日本が、武力(=軍隊)を保有することは避けられない。

ゆえに。

国民を守るような(可能性としての)戦争の〈仕方〉について議論することが、僕らのすべきことと思うが、どうか?

❷国民を滅ぼす戦争とは、具体的に、どういう戦争をいうのか?
負けいくさをするな、ということか?

とにかく、それを規定した上で、

制度的な防止策を議論すべきだと思うが、どうか?

❸最後の蛇足。

日米安保条約による在日米軍の件。
もしも、条約を破棄、あるいは修正して、米軍基地を廃すれば、
有事のために、備える自国軍隊とその装備は、いまの国家予算の規模ではとてもおこなえないが、どう考えるのか?

たかが、いち地方新聞の、エセ平和論に対し、

真面目に、喰いつき過ぎた、かな。

では。