説明し過ぎる難。

サンドウィッチマンは、巧い芸人だ。

ただ、そのコントを聴いているうちに、だんだんと食傷してくる。

何故か?

ボケの言うこと、やることのオカシサを、ツッコミのほうがイチイチ説明してしまうからなんだろう、と思う。

立川 談志 (七代目 1935~2011年) の落語にも、同じようなことが言える。

要は、俺の窓から見よ、みたいな語り口だから、それに素直に従えるうちは笑えるけれど、その世界にドップリ浸かれないと、付き合え切れない。

それに比べ、六代目 三遊亭 圓生 (1900~1979年) の演じ方は、客をやんわりと突き放して、淡々としている。

ひたすら一流の造形力で筋をこなしていく。

今回『らくだ』を聴いて、その凄さに参ってしまったが、これ確か、高校生の頃ラジオで聴いた。

その時にも、語りの迫力に感心したことを想い出した。

説明し過ぎず、けれど、要点を外さずに的確に、というのは芸の上でも、日常生活においてもなかなか至難のことだ。

では。

9月の雨、といえば。

年に二度ある雨季。

春のを梅雨と言い、今のを、秋の長雨、と日本では呼ぶ。

一日の中に、陽光があったかと思うと、雲がやってきて、サッと雨滴が降り注ぐのも、またいいものだ。

おまけに昨日は、無花果(いちじく)の熟したやつを樹からむしり取って、そのまま食す贅沢もできたことだし。

あと少し経って、キッパリと天が高くなる頃までは、一日の中に、夏のもえさしと雨と遠い野分が混じった日々を楽しもう。

9月の雨、といったら、ルノワール氏ならば、太田 裕美に決まっているんだろうけれど、僕の場合は〈September In The Rain〉なんだな、これが。

以前にもご紹介した憶えがあるやつを、再度。

実を言えば、由紀 さおりは、役者としてのほうが推しの萬年。

映画『家族ゲーム』(1983年公開、森田 芳光監督、松田 優作主演)で魅せた、母親(と妻) 役の演技、あれは秀逸だった!!

こんなことも、やっぱり書いたっけ?

では。

身勝手な常識を 押し付けるな。

相手がそれを知っていて当然、といったような勢いで会話に入って、途端に、家人の反撃に遭うことが、しばしば。

こういう切り口で話を強要されるのは、相当に不快なことには違いない。

いま流行りの言い方で、

― それって、〇〇じゃあ~、ありませんか。

と、まるで、暗黙に了解を押し付けられる気分がして、

― そんなの知らねぇよ、それ、あんたの勝手な前提でしょうに、と言いたくなりますからね。

それと、まったくおんなじことでありましょうから。

そう言う訳で、最近、もっとも気をつけている態度と物言いではありますが、フト同じ過ちを繰り返している自分には呆れるばかり。

では。

最上の尊称 とは?

先日、職場で、取るに足りないような話題を交わしていたら、

― 詩人だねぇ、と言われ、思わず、

― あぁ、それ、いただいていちばんありがたい呼ばれかたです、と返してしまった。

ほんの些細なことであっても、人生が、ふっと、立ち止まる瞬間のひとつ。

今から、95年前の、7月25日。

ひとりの作家が、みづから命を絶った。

今でも、年に何度かは、その名を聞くことがある その人。

芥川 龍之介 (1892~1927) だ。

僕からしたら、その自死の理由もよくわからず、深追いする気にもなれないけれど、当時の文学青年(少年も) にとって、芥川の自殺は、けっこう衝撃的な出来事だったらしいんですね。

現在、芥川の作品がどれほど読まれているかわからんが、その頃、最も目立つ作家のひとりだった。

約一世紀前の、30代の人間がどのくらい成熟していたのかは、ほとんど承知していない。
(少なくとも、2020年代の同年齢よりは早老だったのかも知れないが)

なので軽々に語れない。

けれど、自死するに値するような出来事が、芥川とその周囲には在った、と思うしかありませんな。

詩人の萩原 朔太郎(1886~ 1942) は、晩年の芥川にとって、比較的新しい友人だったらしい (と、本人がそう書いている、下の作品の中で)。

で、朔太郎は、芥川逝去の後、ひと月ほどのうちに、タイトル〈芥川 龍之介の死〉という文章を発表する。(『改造』1927年9月号に掲載)

それを読むと、生前の芥川は、朔太郎に対し、自分を詩人である、と評価してもらいたがっていたようだ。

ところが、萩原は、芥川に向かって、君は詩人ではなく、〈典型的の小説家〉だ、と言い放つ。

これに対し、芥川は、自分は詩人であり過ぎるのだ、と言って応戦した、と朔太郎は書いている。

当世第一級の詩人(朔太郎のこと) から、詩人として認められたい、とはなんともけなげなエピソードではないか。

けれど、『蜜柑』(末尾に大正8年、つまり1919年4月の注記あり) なんかを読めば、芥川に詩人の資質は乏しい、と僕には思われる。

電車で乗り合わせたみすぼらしい少女が、主人公の作家にとって、一瞬、神々しい存在に変化(へんげ)するといった内容の短編。

けれど、(主にその表現手法からだろうが) 作品の読後感として、詩人の特性である〈心の舞い上がり〉というものに、どうしても欠ける。

ああいう題材を、太宰 治だったら、もっと巧い語り口でまとめられるだろう。
(太宰が詩人であるかどうかは別にしても)

……、実は、ホンネを申せば、芥川詩人論など、どうでもよい。

今回、必要があって、萩原朔太郎の文章(交友録のような随筆?)を読んでみて、そこそこの作品を生みだした詩人でありながら、彼の紡ぎ出した散文は、おそろしくつまらないなぁ、と感じ入ってしまった。

あまりに散文的で。

それが、感動的なまでの、相当な意外感であったことが、よけいに僕を、憂鬱にしている。

では。

気がつけば、

周囲の農地の多くで、蕎麦の花が、風に揺れて白く輝いている。

所有者が〈営農〉に委託している土地では、労働集約型の農法は営まれない。

だから、植えっぱなしでも収穫できる、ソバが選ばれるんだろう、きっと。

素人は、そう考えている。

そんなにソバを作っても、買ってくれるほど日本人は蕎麦を食すようになってるんだ。

昨日、庭で今年初めての、アキアカネを見た。

そば所と 人はいふ也 赤蜻蛉  一茶

では。