義は我にあらずとも『The Deer Hunter』

映画ディアハンター (1978年公開、米) については、

過去、当ブログ、何回か取り上げた。

今回、その曲で締めようとしている、サウンドトラック『カヴァティーナ』の美しさ。

将来、スターダムに登りつめた役者たちの、若き日の競演。

出演した作品すべてが、アカデミー賞にノミネートの、 ジョン カザール(42歳没) の遺作。

デ ニーロが着用している、シェラデザイン社のマウンテンパーカに惚れた、……等々。

で、ダメ押しで、以下を追加します。

❶180分を越える上映時間の中、戦闘シーンが、10分程度。

そんな凝ったシナリオでは、鹿狩り(deer hunt)は、2度おこなわれる。

主人公の出征直前と、ヴェトナムから(名誉の) 帰還の直後と。

先の狩りでは、見事に  (ワンショットで) 仕留め、後のほうでは、照準を定めながら、大物を敢えて撃たない(撃てない)。

おそらく、その違いに、無垢な青春が、ヴェトナムを通過したらひどく損傷したことを描きたかったんだろうが、

僕の意見では、

先の狩りでは、主人公に撃たせないでおいて、後の狩りでワンショットで仕留めさせれば、作品の言いたい、戦争の残虐は、もっと描き出せたはずだ。

❷戦争の悲惨……。

フランスがやっていた戦さを引き取る格好で、他国に押し寄せ、銃火を浴びせまくり、雨のように爆弾を投下した側であるアメリカが、

自国の青春の悲惨とか、恥ずかしげもなく、よく言うよ。

良心の呵責からだろう、劇中、南ヴェトナム農民を殺害するのは、北ヴェトナム軍の設定。

米軍だって、同様な行為はゴマンとしていたのだから、

つまりは、描いたもん勝ち、という世界がここに在る。

これって、太平洋戦争を描く日本映画にも言えるんで、お互い様。

あとは、どうやって巧く人生や人間を、観る側に、その立場に応じて〈納得させて〉描けるのか?、だけが残る。

その手際は、けっこう上等です。

身勝手な戦争に従軍することの、虚無が、ハッキリと描かれているシーン。

入隊前の主人公(デ ニーロ)が、壮行会が行なわれている酒場で、

帰還した(と思われる)グリーンベレーの軍人と遭う場面が、それで、

早く戦場へ行きたい、と話しかけてくる無知な青年に向かい、軍人は、ただ、

― つまらん!! (原文は、下品な4文字)、と応えるだけ。

グリーンベレーを演じているのは、ポール ダマト (Paul D’Amato, 1948~ )で、前年公開の『スラップショット』にも出てた。

作品の主題からすれば、この迫真の演技は、もっと評価されていい。

では。

さらに,天使について。

映画『ベルリン 天使の詩』(原題、望みの翼、1987年 仏/西独合作) 。

ヴィム ヴェンダース(1945~ 監督)が紡ぎ出した、ファンタジー。

当時、ベルリンの壁は、いまだ存在していて、

主人公、天使ダミエルの使命は、かつても今も、ベルリンを守護することであるけれど、

約半世紀前、この都市に壊滅的な破壊と殺戮を招いた責めと苦渋の中で生きていた。

……、作品を観るにあたって、ここらへんをわからないと、永遠の生命を棄てて、人間界の一員になりたいと欲する、ダミエルの希望に共感できないだろう。

作中の名セリフのひとつ、

― 時が癒す ですって?  でも、時が病んでいたら、どうするの?

がひたひたと迫ってきた、あの時代……。

(健全な時代などは、ありませんかね?)

もちろん、ベルリンの試練や状況は、映画のなかで存分に明示、暗示されるから、

僕らはムダな解説などには触れずとも、ただ暗闇の中に身を置きさえすれば良い。

お話の中、元天使でいまは役者の、ピーター フォーク(1927~2011)が、本人役でご出演。

ダミエル(ブルーノ ガンツ 1941~2019)と語り合うシーンが、魅せどころのひとつ。

語り合う、といっても、(作品の設定では)人間からはその姿が見えないダミアンに向かって、

― 見えないが、君がそこにいるのはわかるよ。

と現人間ピーター フォークが、一方的に話し始める。

映画史に残したい場面です。

コート姿、片手に煙草、風景をスケッチする、といったいでたちは、

ヴェンダースによる、映画ファンへの、洒落たプレゼントに違いない。

では。

若き熱情を うらやむの回。

職場で、ABEちゃんが、

― 萬年さん、『君たちはどう生きるか』どうです?  観ます?

訊くと、彼は、封切日早々、シネマ館の暗闇に座った、という。

特定の監督作品をお目当てにして、公開日に銀幕へと足を向ける。

こういう情熱を失って久しいので、ただただうらやましい、に尽きます。

で、自然と、話は、宮崎 駿の作品群についてへと、進む。

(ABEちゃんの称賛に水をさすことを、いささか遠慮し)

― 作画は丹念で丁寧。いい手腕です。

思うに、宮崎さんは、アニメーションを通じて、自分なりの〈神話世界〉を創り出したいんだな。

年代、場所、文化的な細目を、それとなく示しながら、実は作品毎、一切不明な設定にしてるのが、その証拠。

だとしたら、〈風の谷のナウシカ〉があれば、
それからあとは、仕事本来の意味では、要らない。

もちろん、大所帯を食わせる、という渡世の必要は認めます。

それと、既に一定の地位を獲たタレントを声優として使う手、ってのは、どうもねえ。

もっと、違うチャレンジがあっても、いい。……、などと、僕の持論を披瀝した。

でも、もちろん、稀代の優れたアニメーターですよ、と付け加えて。

さらに、『君たちはどう生きるか』(by 芳野 源三郎 1937年刊)と、映画が、どういう関連があるのかは知りませんが、

あの小説は、一見、進歩的な顔をしているけれど、実質的には、当時の上流出身の少年を、戦時体制へと思想的に組み込んだ役割を持ったことを、チト、言っておきたいね。

ABEちゃんには、これらが、オヤジの言いがかりにしか聞こえないだろうし、

もちろん、それでいいんだが、

こういう会話が、世代を越えてできること、そのことに感謝します。

では。

肩に天使が 舞い降りた。

Engel On Our Shoulder……

映画『セイヴィング プライヴェイト ライアン 』(ライアン二等兵を救え、1998年公開、米映画) の終末。

プライヴェイトとは、米軍における、新兵の次くらい、つまりは、最下位の階級名。

ひとりの母から息子4人すべてを戦争で奪ってはならない、といった米国式信念による作戦とはいえ、

優秀な猛者ぞろいの小隊をまるまる、ライアン二等兵ひとりの発見と救出に投入することに対する、兵士間に漂う、わだかまりみたいな空気感が、

巧く伏線として描き込まれているので、それだけ最後に、カタルシスが用意されている、といったシカケ。

スピルバーグ作品ほとんどが持つ、こういうサーヴィスは、いいですよね。

さて、そのラストシーン。

ドイツのティガー戦車を前にして、壊滅寸前に追い込まれた分遣隊の頭上に、

突如、友軍のマスタングP-51 が飛来して、ティガー戦車を撃破すると、

負傷したミラー大尉(トム ハンクス) が、その機影をやっとこさ見上げて絞り出すのが、冒頭の言葉でした。

ネイティブスピーカーに確かめたわけではありませんが、

天使がそばにいてくれる、という定番的な表現なんでありましょうか、あれ。

で、萬年の場合。

去年に比べて、ニジュウボシテントウ虫による、ジャガイモの葉の侵食が極端に少なくて、まことに助かっているんですけれども、

これ、ナナツボシテントウ虫が多く発生して、それら食害虫を捕食してくれているからなんです。

葉の上、梅雨の陽光の中、くっきり鮮やかに輝く深いオレンジと、漆黒の斑点よ。

あぁ、まるで、天使のようだ……。

註 ☞ ニジュウボシは植物食、ナナツボシは動物(昆虫)食。

では。

無題。

ほぼ麦秋の候。

麦秋も近い季節。

小津 安二郎の撮った作品では、

カメラは、人の腰からすこし下の高さに、ずっと固定されていて、

役者は、そのフレームの中を、

右から左へ、あるいは、奥から手前へと動いて演技する。

封切られた当時、それを観た日本人は、作品に描かれたことを、どのくらい身近、というか自分たちの生活に近い、と実感していたんだろうか?

めったに声を張り上げもせず、極端な生活を過すこともなく、そこには劇的なドラマもない、そんな生き方を。

昔の作品に触れるたび、最近は、そういうことがヤケに気にかかってしかたがない。

では。