『バッファロー ’66』(1998年米映画) その偏向的な私論。


季節の憶え☞アネモネ カナデンシスが開花(5/24)

主演のヴィンセント ギャロ(1962年生れ)は、

監督、原案、脚本、音楽もこなしているので、俺のプライベートフィルム、といった作品に仕上がっている。

僕は、息子から紹介してもらってこれを観たが、けっこう楽しめた。

逆説的には、この萬年が好ましく思える作物なので、

ふつうの感覚の持ち主で、

かつ、映画というジャンルに興味のないお方には、観ることを、けっしてお奨めしない。

ヴィンセント ギャロという、一風変わった〈こだわりの〉存在につき合わねばならず、

おそらく鑑賞が、苦痛の時間に思えるかも知れない。

反面、かように観る者を選ぶ作品なので、

他方では、偏愛的な支持を得ているに違いない。

映画そのものについては、そういったファンがたくさん語っていることだろうし、

かつ、僕の興味は、今、そこにはない。

で。

皆さんと、共有したかったことは、ひとつ。

物語では、米国プロアメリカンフットボールリーグ(NFL)に属する、バッファロー ビルズ(1959年創設)にまつわる話題が、主要なプロットになっている。

刑期を終えて、数年ぶりに両親の家(つまりは実家、ニューヨーク州バッファロー)に戻ってきたのが、主人公のビリー。

母親に、妻帯している、と嘘をついてしまったため、見ず知らずの女性を誘拐して、(その彼女にお願いして) 妻として紹介する魂胆で、やってくる。

が、この父母は、息子にはほとんど関心もなく、自分のこと(人生と趣味)しか考えていない。

家族には、無関心、というすき間風が吹いているのだ。

特に、母親のほうは、チームのスタジャンを家で着通しているほどの、熱狂的なビルズファン。

でもって、ビルズが(最後に) 優勝した 1966シーズンは、

息子(ビリー) の出産と重なって観戦ができなかった、と、30年後のいまも嘆く。

バッファローは、その後、1990~1993年に 4季連続で、NFLスーパーボールに出場するも、すべて敗退。

特に、1991年(第25回)のゲームでは、

逆転を狙ってスコット ノーウッドが蹴り込んだ 47フィートのフィールドゴールが、右に外れ、わずか 1点差で優勝を逃してしまう。

実は、ビリーは、この負けゲームによって損害をこうむった他人の罪をかぶって収監されていた。

スーパーボール敗退は、スコットが、八百長に手を染めたためと信じているビリーは、

現在は、引退したスコットを、射殺しようと計画していた……。

……、長々と恐縮ですが、

家族の親密の無さや、賭け試合による負債は、ともかく、

自分の街に、プロの球団が在ることの功罪。

それが、たとえば、キネマの脚本に、こんなふうに織り込まれる……。

もちろん、自分のこの街と山雅に、強引に結び付けたい、とも思いませんが、

もし、プロサッカー球団が身近になければ、切実には迫ってこない物語だったに違いない。

では。

僕のカーライフ❸

邦画ではあまり記憶がないのだが、

欧米の作品だと、

乗ってるクルマで、登場人物の階級、知性、職業、ケチ、放蕩なんかを、巧く表現しているのに出会う。

例外は、刑事物。(社有車ですから)

でも、そのまた例外が、コロンボの、プジョー403 だったりする。

たしか、カミさんは、新しいワゴンかなにかが、愛車だったような。

さて。

上の写真は、ビル フリゼールのアルバムジャケットを、そのまま転載。
(わかったら、著作権で告訴されるかも)

ガス ステーションには、僕のご幼少の、ここでは書けない悲しい思い出があって、

反面、それゆえに、懐かしい情景。今でも、時々思い出す。

給油所が、ロマンティックに、そして、リアルに出てくるのは、

ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(1964年、仏西独合作) の結末。

雪の舞うラストの色彩美は、始めて観た当時、さすが、仏蘭西、って思った。

そのフランスもよくわからずしての頃だから、若気の至りです。

あの結末。

かつての熱き恋人が、その後、それぞれ家庭を持って数年が経ち、給油所で再開する設定。

現実は、男女どっちに苦く、悔恨はいづれにありや?

― つまらん深刻ぶった論評が、湧きそうですが、

そんな答えを、映画は出そうとしていないし、観る者にも求めていないように、僕は思うんですがね。

で、現実の僕は、と言へば、

直進するつもりで、信号が黄色に変わった交差点で、

― どうして?、いまのは行けたでしょ。

と、助手席の小学一年生に詰問されては、

― いやいや、右折しようと前に止まってた車の横に、あまり間隔もなくて、
しかも、向こうからは、強引に右折しようとする対向車が来てたじゃん、

と、エクスキューズに、忙しい。

では。

数十年を経て,よみがえる。

浦島 太郎のお話を、ふと思い出すと、なんとも切なくなる。

自分だけ生き残って、取り戻せない過去を前にした、悲哀と寂寥。

それを、物語りで言い伝えた民のリアリズムは、まんざら捨てたもんじゃあない。

日頃、なんとなくちずさむメロディーが、僕にはあって、

はて、どこで仕入れたんだろうか?、と思っていたら、

映画『タクシー ドライヴァー』(1976年米)の、サウンドトラック中の曲だったことが、最近、判明。

二番館で観たように記憶しているけれど、ロバート デ ニーロにはじめて出逢った作品に違いない。

違いない、とは、おそらくはほぼ間違いない、という意味。

ヴェトナムからの帰還兵(=ヴェテラン)の、日常の孤独と再燃焼を、巧く演じた。

ヴェテランを描いて、この作品と双璧をなすのが、

『ヴァニシング ポイント』(1971年米)。

こっちも好きな映画で、DVDを持っている。

アメリカ人でしか描けない、アメリカ人が描くべき、そんな映画群。

日本人は、先の大戦を、クリント イーストウッドに描いてもらうのではなく、自分で、もっと真剣に作品にすべきだと思う。

なぜならば、未来のために。

……、と愚にもつかぬことを言っては、サウンドトラックを聴いてます。

では。

清潔な演技……。

最近は、僕よりも家人が、おおく映画を観ている(はず)。

先日も、小津 安二郎『秋刀魚の味』(1962年)を、BSでご覧になっていて、

僕は、居間を往来しながらの、チラ見。

― ね。小津の場合。
カメラは、腰から下の位置に固定。
役者は左右、前後を行き来して、画面に入ってくるわけ、とかチャチャを入れながら。

ヴェンダースは、映画『ベルリン天使の詩』(1987年) の冒頭で、小津愛を吐露してるが、

事件らしい出来事も起らない筋、その中で、役者を動かす小津の創作に、天使級の〈眼〉をみたのだ。

― やっぱり、似ているわ。

と出演している佐田 啓二をみて、家人が、その息子(やはり俳優) のことを言うから、

― でも、男前では、父親に軍配だろう、と僕。

続けて、

― 笠 智衆という役者は、こういう作品を観なくっちゃ、その良さがわからないよね、と言うと、

― 清潔な演技、といったらいいのかなぁ。

家人の映画眼も、なかなか肥えてきた、というべきだろう。

(ちなみに、僕の場合、この作品では、中村 伸郎の演技に感心しました)

では。

そういえば,そうだった。

定年で退職となったが、

今だけ、繁忙期のアルバイトで勤めているカサイ氏。

彼と、雑談していたら、

― 昔は、傘のことを、こうもり、と言ってたよね。
小学校の頃、非常用として学校に備えてあったのは、番傘(唐傘)だったっけ。

古い古い記憶が、忽然と蘇えるような気がして、なんとも不思議な心持ち。

こうもり……、か。

そのカサイ氏の口から、

『けんかえれじい』(1966年公開、鈴木 清順監督、脚本新藤 兼人)が出た時には、もっと、驚愕してしまった。

― 高橋 英樹の出世作だよね、それまでは任侠物が多かったけど。

この作品、ロマンティックな青春物だが、強引でデタラメな筋(北 一輝が登場したりする)が破天荒で、

日本では、カルト(=熱狂的な支持を得ている)映画のひとつだろうが、

僕は、劇中、主人公(高橋)に、喧嘩の極意を伝授する役の、川津 祐介(1935~2022年)を推します。

その僕は、いたって軟派ではあるけれど、

直球勝負の、剛直で、痛快さの迫力、といったもの。

時には、そんな心情に身を置きたくなります。

歌唱でいえば、レイニーウッド(バンド名)の解散コンサート(1981.12.19)における、

柳ジョージのそれが、ピッタリくるだろうか。

歌詞にある、〈PX〉は、ご幼少の僕には、けっこう馴染み深い言葉だったこともあって……。

では。