僕のカーライフ❸

邦画ではあまり記憶がないのだが、

欧米の作品だと、

乗ってるクルマで、登場人物の階級、知性、職業、ケチ、放蕩なんかを、巧く表現しているのに出会う。

例外は、刑事物。(社有車ですから)

でも、そのまた例外が、コロンボの、プジョー403 だったりする。

たしか、カミさんは、新しいワゴンかなにかが、愛車だったような。

さて。

上の写真は、ビル フリゼールのアルバムジャケットを、そのまま転載。
(わかったら、著作権で告訴されるかも)

ガス ステーションには、僕のご幼少の、ここでは書けない悲しい思い出があって、

反面、それゆえに、懐かしい情景。今でも、時々思い出す。

給油所が、ロマンティックに、そして、リアルに出てくるのは、

ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』(1964年、仏西独合作) の結末。

雪の舞うラストの色彩美は、始めて観た当時、さすが、仏蘭西、って思った。

そのフランスもよくわからずしての頃だから、若気の至りです。

あの結末。

かつての熱き恋人が、その後、それぞれ家庭を持って数年が経ち、給油所で再開する設定。

現実は、男女どっちに苦く、悔恨はいづれにありや?

― つまらん深刻ぶった論評が、湧きそうですが、

そんな答えを、映画は出そうとしていないし、観る者にも求めていないように、僕は思うんですがね。

で、現実の僕は、と言へば、

直進するつもりで、信号が黄色に変わった交差点で、

― どうして?、いまのは行けたでしょ。

と、助手席の小学一年生に詰問されては、

― いやいや、右折しようと前に止まってた車の横に、あまり間隔もなくて、
しかも、向こうからは、強引に右折しようとする対向車が来てたじゃん、

と、エクスキューズに、忙しい。

では。

数十年を経て,よみがえる。

浦島 太郎のお話を、ふと思い出すと、なんとも切なくなる。

自分だけ生き残って、取り戻せない過去を前にした、悲哀と寂寥。

それを、物語りで言い伝えた民のリアリズムは、まんざら捨てたもんじゃあない。

日頃、なんとなくちずさむメロディーが、僕にはあって、

はて、どこで仕入れたんだろうか?、と思っていたら、

映画『タクシー ドライヴァー』(1976年米)の、サウンドトラック中の曲だったことが、最近、判明。

二番館で観たように記憶しているけれど、ロバート デ ニーロにはじめて出逢った作品に違いない。

違いない、とは、おそらくはほぼ間違いない、という意味。

ヴェトナムからの帰還兵(=ヴェテラン)の、日常の孤独と再燃焼を、巧く演じた。

ヴェテランを描いて、この作品と双璧をなすのが、

『ヴァニシング ポイント』(1971年米)。

こっちも好きな映画で、DVDを持っている。

アメリカ人でしか描けない、アメリカ人が描くべき、そんな映画群。

日本人は、先の大戦を、クリント イーストウッドに描いてもらうのではなく、自分で、もっと真剣に作品にすべきだと思う。

なぜならば、未来のために。

……、と愚にもつかぬことを言っては、サウンドトラックを聴いてます。

では。

清潔な演技……。

最近は、僕よりも家人が、おおく映画を観ている(はず)。

先日も、小津 安二郎『秋刀魚の味』(1962年)を、BSでご覧になっていて、

僕は、居間を往来しながらの、チラ見。

― ね。小津の場合。
カメラは、腰から下の位置に固定。
役者は左右、前後を行き来して、画面に入ってくるわけ、とかチャチャを入れながら。

ヴェンダースは、映画『ベルリン天使の詩』(1987年) の冒頭で、小津愛を吐露してるが、

事件らしい出来事も起らない筋、その中で、役者を動かす小津の創作に、天使級の〈眼〉をみたのだ。

― やっぱり、似ているわ。

と出演している佐田 啓二をみて、家人が、その息子(やはり俳優) のことを言うから、

― でも、男前では、父親に軍配だろう、と僕。

続けて、

― 笠 智衆という役者は、こういう作品を観なくっちゃ、その良さがわからないよね、と言うと、

― 清潔な演技、といったらいいのかなぁ。

家人の映画眼も、なかなか肥えてきた、というべきだろう。

(ちなみに、僕の場合、この作品では、中村 伸郎の演技に感心しました)

では。

そういえば,そうだった。

定年で退職となったが、

今だけ、繁忙期のアルバイトで勤めているカサイ氏。

彼と、雑談していたら、

― 昔は、傘のことを、こうもり、と言ってたよね。
小学校の頃、非常用として学校に備えてあったのは、番傘(唐傘)だったっけ。

古い古い記憶が、忽然と蘇えるような気がして、なんとも不思議な心持ち。

こうもり……、か。

そのカサイ氏の口から、

『けんかえれじい』(1966年公開、鈴木 清順監督、脚本新藤 兼人)が出た時には、もっと、驚愕してしまった。

― 高橋 英樹の出世作だよね、それまでは任侠物が多かったけど。

この作品、ロマンティックな青春物だが、強引でデタラメな筋(北 一輝が登場したりする)が破天荒で、

日本では、カルト(=熱狂的な支持を得ている)映画のひとつだろうが、

僕は、劇中、主人公(高橋)に、喧嘩の極意を伝授する役の、川津 祐介(1935~2022年)を推します。

その僕は、いたって軟派ではあるけれど、

直球勝負の、剛直で、痛快さの迫力、といったもの。

時には、そんな心情に身を置きたくなります。

歌唱でいえば、レイニーウッド(バンド名)の解散コンサート(1981.12.19)における、

柳ジョージのそれが、ピッタリくるだろうか。

歌詞にある、〈PX〉は、ご幼少の僕には、けっこう馴染み深い言葉だったこともあって……。

では。

義は我にあらずとも『The Deer Hunter』

映画ディアハンター (1978年公開、米) については、

過去、当ブログ、何回か取り上げた。

今回、その曲で締めようとしている、サウンドトラック『カヴァティーナ』の美しさ。

将来、スターダムに登りつめた役者たちの、若き日の競演。

出演した作品すべてが、アカデミー賞にノミネートの、 ジョン カザール(42歳没) の遺作。

デ ニーロが着用している、シェラデザイン社のマウンテンパーカに惚れた、……等々。

で、ダメ押しで、以下を追加します。

❶180分を越える上映時間の中、戦闘シーンが、10分程度。

そんな凝ったシナリオでは、鹿狩り(deer hunt)は、2度おこなわれる。

主人公の出征直前と、ヴェトナムから(名誉の) 帰還の直後と。

先の狩りでは、見事に  (ワンショットで) 仕留め、後のほうでは、照準を定めながら、大物を敢えて撃たない(撃てない)。

おそらく、その違いに、無垢な青春が、ヴェトナムを通過したらひどく損傷したことを描きたかったんだろうが、

僕の意見では、

先の狩りでは、主人公に撃たせないでおいて、後の狩りでワンショットで仕留めさせれば、作品の言いたい、戦争の残虐は、もっと描き出せたはずだ。

❷戦争の悲惨……。

フランスがやっていた戦さを引き取る格好で、他国に押し寄せ、銃火を浴びせまくり、雨のように爆弾を投下した側であるアメリカが、

自国の青春の悲惨とか、恥ずかしげもなく、よく言うよ。

良心の呵責からだろう、劇中、南ヴェトナム農民を殺害するのは、北ヴェトナム軍の設定。

米軍だって、同様な行為はゴマンとしていたのだから、

つまりは、描いたもん勝ち、という世界がここに在る。

これって、太平洋戦争を描く日本映画にも言えるんで、お互い様。

あとは、どうやって巧く人生や人間を、観る側に、その立場に応じて〈納得させて〉描けるのか?、だけが残る。

その手際は、けっこう上等です。

身勝手な戦争に従軍することの、虚無が、ハッキリと描かれているシーン。

入隊前の主人公(デ ニーロ)が、壮行会が行なわれている酒場で、

帰還した(と思われる)グリーンベレーの軍人と遭う場面が、それで、

早く戦場へ行きたい、と話しかけてくる無知な青年に向かい、軍人は、ただ、

― つまらん!! (原文は、下品な4文字)、と応えるだけ。

グリーンベレーを演じているのは、ポール ダマト (Paul D’Amato, 1948~ )で、前年公開の『スラップショット』にも出てた。

作品の主題からすれば、この迫真の演技は、もっと評価されていい。

では。