パーフェクト ワールド。

すべての事がふさわしくおこなわれる、完璧な世界。

この世がそんなものでないことは、わかってはいる。

わかっちゃあいるが、高温な季節には決まって、幼い命が炎熱の車中でむざむざと命を落とす。

亡くなった幼子は、かならず天国に行くから、そのことを心配はしない。

けれど、この子から、現世での経験を積む機会を奪った者こそ、自分がこの世に生まれてくるべきではなかった、と思う。

こういう時、『A Perfect World』(1993年、米映画) を、かならず想い出す。

幼い時の体験から、子供に対する暴力や虐待を潔癖なまでに憎む脱獄囚(ケヴィン コスナー)。

8歳の少年を人質にとって逃避行を続けるこの男と、それを追う警察署長 (クリント イーストウッド)。

イーストウッドの撮る(監督) 映画は、どれも〈苦い〉が、本作はまた格別だ。

その意味で、イーストウッドでは、僕がいちばん推したい作品かも知れない。

完璧でない世界、しかも、そこで生きざるを得ないのが人間。

これって、いわば、僕等の究極のテーマなんだろうな。

では。

破壊と再生の。

八朔、8月1日。

僕は、上高地にいた。

ジャガー氏にガイドをお願いして、、梓川に沿って、約6キロメートルの道のりを、河童橋から明神池との往復で楽しんだ。

ジャガー氏いわく、上高地とは、飛騨山脈の深い峡谷で生起している、自然の破壊と再生の歴史。

破壊と再生……、その言葉を反芻しながら、花崗岩が砕けた土砂の道を歩いていた。

では。

早口言葉の極意。

娘が、その息子の、ああ言えばこう言うに、おおいに手を焼いている。

そこで、彼をやりこめようと、早口言葉をチャレンジした。

〈ナマムギ、ナマゴメ、ナマタマゴ〉。

案の定、彼、舌が回らずに、なかなかの悪戦苦闘だ。

そうしている間は、母親は、息子に絡まれないからひと息入れられる、というわけか。

で、おもむろに助け舟を出す。

― あのね、コツはね、頭の中に、ひとつひとつの語句を強く思い浮かべること。

要は、〈生米、生麦、生卵〉という言葉を続けて発音すればいい、と教えている。

隣で聞いていた僕、この極意を採り入れてひそかにやってみたんですが、これがホントウにその通り。

〈隣の客はよく柿食う客だ〉という文章を早めに読む気持ちでやってみると、案外、これが上手くいく。

早口言葉の落とし穴は、似た音の羅列にこだわってしまうこと、ということを悟らされた日になった。

しかし、チャレンジされている息子は、まだ漢字を知らず、ゆえに、その象徴力、イメージの造形力を使いこなせないから、ちょっとかわいそうなんであります。

では。

キチンと大きな画を描けない国。

絵画の世界では、大きいサイズの作品をモノにすることが、たしかに力量の証明ではある。
造形力を誤魔化せませんからね。

けれど、ここで言う、〈大きな画〉とは、世の中全体を、ダイナミックに、全体最適の視点でとらえた発想のことなんです。

先日、家人が醤油を購おうと、なじみの醸造店に出向いたら、そこの社長が、或る書類を見せてくれた。

もらって来た資料の見出しには……、
〈日本国内においてコロナワクチン接種後、急に発症し、医学学会で報告された疾患〉(2022年 4月~ 7月)  ……とある。

要は、この社長、ワクチン接種は止めたほうがいい、と勧めてくれたんだが、

― あら、でも、2回目まで受けちゃったんですよねえ、と家人は答えたらしい。

でも、(3回目以降の)ブースター接種については、思いとどまっているのが、我が家。

対COVID-19 施策については、2年半が経過しているのに、いまだフラフラとしているし、かつ、怪しいことが多過ぎる。

(後年振り返った時は、知見に乏しいがゆえのことであった、と言い訳が入るだけか?)

気がつけば、集団免疫、なんてことは、いつの間にか誰も言わなくった。

あまり公言されないけれど、厚労省の資料をのぞけば、新規感染者のうちで、3回接種済みの者が、多数。

こういう数字はもっとキッチリと報道すべきなんだが、そうしないのはワクチン接種にブレーキがかかることを怖れて?

もはや、社会全体が免疫力を獲得するんてことは、非現実なのだ。

地域的、年齢的なバラツキがあるにせよ、日本人の12人に1人は、感染済みなんですよ。❶

この流行り病で騒ぎ出してから約900日。

で、亡くなった方は、累計 30,000人。

一日平均だと、30人の死者。❷

これは、(基礎疾患などによる)二次的な死因でカウントしたのではなくて、COVID-19感染していれば、すべて、〈COVID-19による死〉にぶっこんだ数字なのだ。

従来の季節性インフル死者を、そのようにして計算し直すと、年間最大10,000人、という推計をどこかでみた。

ということは、なんだかんだで、後遺症うんぬんといってみたところで、所詮究極の指標であるところの〈死亡〉視点からして、社会的にそれほど重いことか?

厚労省は、〈日本の1日〉という統計を発表していて、その平成28~令和2年版だと、1日あたりの死亡原因別死者は、

がん   ☞       1,034人
心疾患  ☞            562人
脳血管疾患  ☞      291人
事故   ☞            104人
自殺     ☞              58人

COVID-19とのつきあい方も、こういう観点から見直す必要もある、というのが先の社長のご意見なのであった。

医療界は、なにかと言うと、現場崩壊を盾にした見解しか示さず、政治リーダーは、行動制限はしない、としか言わず。

現在、感染しても、よほど重症化しなければ、家に居て治せ、ということでしょう。❸

だから、上記❶❷❸の理由で、僕は、新型インフルエンザとは、もはや風邪と同様なつきあい方をすべき、と思っている。

宣言は出ないが、社会だってその方向に進みたいのは、明らか。

日本人はもともと、風邪と一年中慣れ親しんでいる。

ここのところの感染者急増は、ようやく欧米並みの感染状況になったまでの話。

ただ、向こうは既にマスク無しの生活、こっちはいまだ自主規制だのみの生活。

このまま、ワクチン接種を何回させれば、気が済むのだろう。

弱毒化した?異物を、この大人しい民は、これから幾度、体内に注入するのか。

いろんな規制緩和や基準引き下げを、仕方なくやっているようなフリはせずに、こうなったら、こうします、とキッパリと何故言えない?

向こう(ゴール)から観た発言や〈画〉の提示は一向になくて、ただ、国がやると言うから、民もそれに粛々と従う。

80年前のいくさでも、やはりこんな感じで流れていったのか?、その頃の大人に訊いてみたいのは、僕だけ?

もしそうならば、敗けた後で、自分は反戦主義だった、嫌々協力したなどと、後出しで平和論はぶたないことだ、特に、これからのシーズン。

では。

畳の上で死んでいたら。

死者を鞭打たない、というのが礼儀、とは思っている。

すくなくとも、やがて時が経ち、歴史的にその人の評価が定まってくるまでは。

弔い方をどうやろうが、そのことで、逝った御方の人生の重みが変わるわけでもありぁしない。

そもそも葬儀なんてのは、生きているこっち側が、内外の区切りをつけるためにやることであるから、眠っていらっしゃるご本人からしてみれば、腑に落ちないこともあるんじゃあないか?

だから、他人の告別式についていろいろ語りたくもないけれど、ただ、ひとつ。

畳みの上でフツーに亡くなったら、はたして国葬、などと言い出したのかね?

あの犯罪ひとつで、どうこうなるような民主主義ならやめたほうがいい。

(本来、ふらふらしながらやっていく政治的妥協の手続きが、民主主義なのだ)

お国のために殉じたのならともかく、幹部政党内の割り当てとして現場に出向いたのではないか。

不慮の死を、国を挙げて悼むとしたら、アルトイン セナ級でないと〈国葬〉の二文字が泣く。

まぁ、秋風が立つくらいに、どうでもいい話ですけどね。

では。

註;画像はセナ搭乗機にはあらず。