開幕まで10日の 明日には、

〈2021年 Jリーグ選手名鑑(サカダイ版)〉が、発刊になるはず。

毎季購入に走るほどの律義さもなく、かと言って、決して入手せず、と決め込んでいるわけでもなし。

店頭でページを繰ってみて、それから、その時の気分次第で……、となりそう。

ひとつ注文をつけるとすれば、審判名鑑の充実だ。
ルーペ越しでないと到底見えないような活字で、しかも、たったの一ページに押し込まれた情報は、少な過ぎないか?

ところで、キャンプレポートを読みながら思ったことがありまして。

鹿児島で、山雅が使わせてもらっているのは、主に白波スタジアム。

これ、鹿児島ユナイテッドの本拠地。

で、当の鹿児島ユナイテッドは、どこでキャンプを張っているかというと、どうも、鹿児島市内らしい。

たとえる、とですよ。
よそのチームのキャンプ地としてアルウィンを提供し、地元チームは、市内の他のところで開幕に備える、という図式。

薩摩のお国の気前の良さには、頭が下がるばかり。
こういう懐の深さを、僕たちも持ちたいもんだ。

さて、キャンプは今週いっぱいで終わる。

開幕は2/28、長州の地で。

となると、一週間の間隙を、すくなくとも、ゲーム登録メンバーはどう過ごすのだろう?

天然芝がいまだ使えない松本に、一旦戻ってからまた、本州アイランドの最南端へ出かけていくのだろうか。

風がやけに強い曇天の朝。
あぁ、こうなったら、いっそ雨でも降ってくれないかい。

では。

答えは無数、竹藪の中 (本能寺政変論)

某公共放送が一年かけて放送した、日向守 明智 光秀が主人公のドラマが、つい最近終了したらしい。

光秀といえばとにかく、主君であった上総守 織田 信長を本能寺に襲った逆臣として、人口に膾炙するその人。

となれば、その顛末がどう描かれたのか?、というのが、興味の大半。

で、家人が観ていた様子なので、物語のラストがどんなだったかを、聞いてみたんである。

すると、だいたい次のとおり。

秀光は信長を本能寺に攻め、死に至らしめた。
その理由については、歴史上提出されている仮説を、おおよそ丁寧に網羅して描いてはいたが、いづれかが決定打、としてはいなかった。
信長が亡き者となるについての秀吉の思惑にも触れていた、という。

さらに、現実か幻視かも説明されない一瞬で、光秀が山崎の戦い(1582年)の後にも生き延びていた、ともとれるようなシーンもあった。

家人評は、こんな。

― 観ている人の判断に任せるような趣きだったけれど、それなりの、つまり、好い余韻が残る、って感じだわね、あたしにとっては。

なるほど、なるほど。

それくらいが、公共放送における冒険の限界でもあったのかも知れぬ。

信長の遺体が確認されていないことを根拠にして、信長生存、とまで突っ走る戯作性は期待できまい。

あるいは、『忍者武芸長』(1962年完結)のように、信長を襲った後、秀吉軍に敗れ、ついに京都の小栗栖(伏見区)で百姓に殺害されたのは、実は、秀光の影武者であった。
本物は、どこかに遁走したのであった、という結末も、やっぱりアウトに違いない。

推定の素になる材料を落ち度なく示し、あとは観る者に判断させる手法を採ったこの度のシナリオ。

そうなったことの真の理由は、いやいや、もっと深いところにある。

おそらくは、こういうこと。

すなわち、織田 信長に仕えた期間をのぞくと、その人生には、かなり謎の多い光秀を描くとなれば、今の社会が、これだ、っという明快な正解を許さない、のである。

なぜなら、行動や問題がこれだけ複雑になってしまった現代社会では、これが唯一の正しい答えである、という思考態度はもはや通用しない。

せいぜい、答えはいくつかある、というのが現実で、かつ、そのどれもが、圧倒的な正当性を主張できないでいる。

なによりも僕らが、唯一絶対の正答を期待することなくして問題を読み解こう、という態度でいるのだ。

戦国時代とはいいつつも、髷を結った、現代人の感性を持った者たちが行動するドラマ相手ならば、なおさらだろう。

では。

旧く新しい記憶、の巻。

―だが、密集化は、はたして一方的にわざわいを招いただけだったろうか。
たとえばインフルエンザの大流行の原因になったことはたしかだが、人間は密集によって不利な状況をつくりながらも、立派にそれを乗りこえてきたのである。
利害の一致が、集団的な抵抗力を組織することになり、それがやがて個人の抵抗ではなしえなかった力を発揮したわけだ。
人間は密集からのがれることによってではなく、逆に密集の力を利用することで、悪や不潔を乗りこえてきた。つねに禍を転じて福となす―それが人間というものなのである。―

ふと、本棚から引っ張り出して読んでいた本に、たまたま見つけた一節が、これ。

安部 公房(1924~1993) のエッセー『密集化現象』(1959.4.22の日付) にある。

へぇ、公房氏は、集団による力の結集を、善なる力、とも認めていたのか。

その作品中の主人公たちのほとんどは、集団による非合理な圧迫から逃れようとしてもがく人物なのに……。

日本のCOVID-19対策が、もっぱら集団的な有形無形の圧力に依存していることの、預言的な考察とも言えましょう。

以上、他者の文章を引用するばかりの、今回です。

では。

【前々回へのコメント】
☞ルノワール氏 より (2021.02.15.11:11)
梶芽衣子&沢口靖子
梶芽衣子姉さんの
一度だけなら♪
聞かせくださり有難う御座いました
心に浸みる曲です
野村正樹の曲でもありますね     
沢口靖子は何故に科捜研の女?
彼女は美人すぎて近寄り難い雲の上の存在
よって恋愛ものより科捜研に向いていると思うのは私だけでしょうか?     

☞萬年より(2021.2.16.04:38)
ルノさんへ
コメントありがとうございます。
沢口靖子について、私が夢想するのは、サイコな犯人役とか、コメディーにおける道化役、jyouそんなところなんですがね。

苦と楽とは まさに表裏 (テストマッチ前に)

フロンターレは、札幌と90分を2本やって、14 – 3 でキャンプを締めくくったようだ。

このスコア、もはや仕上がりうんぬんではなくて、単に地力差だろうな、と感心していたら、山雅は、本日、鹿屋体育大学とのテストマッチをおこなうことを知った。

対サンフレッチェ戦はなにもできず、エスパルスとは、(おそらく)主力組が、ゴールで音無しの3失点で、ここまで来ている現状。(結果だけみれば)

トレーニングでは、被セットプレイ(コーナーキック)の守備、とクロス攻撃の確認、とあるから、基本のキの繰り返し、というところなんだろう。

鹿屋大とは、やっぱりね。
昨年もやっているから予想していたとおり。

ゲームをはさんでいかないと、仮説と検証でチームを仕上げていけないはずだ。

昨季主力メンバーのうち、前線とサイドの5人がゴソッと抜けたんだから、それはもう、現場スタッフにしてみれば、今が、産みの苦しみの真っ最中なんだと思う。

そして、残ったのは、後方の、中盤と最終ライン(含むGK)。
ならば、佐藤、前、安東のボランチ陣をそっくりキャプテンに、というのは実にわかりやすいストーリー。

おそらくは、彼らのいづれかが、おおくゲームキャプテンを務めるんだろう。

ということは、特に熾烈な競争は、前線とサイド(ウインガー)の部分にあり。

開幕後、6~7節くらいまでは、試運転的なのを覚悟しながら、競争とチーム仕上がりを観ていきましょうか。

でも、こうなると、現場の苦しみが、そのまま暢気なファンのお楽しみへと、まさに、コインの表裏のように一致してしまうんでありますな。

お気楽なことで、まことに申し訳ありません。

では。

転がる石であり続ける。

― 変化はコントロールできない、ならば、せいぜい変化の先頭に立て。

ドラッカー先生の言葉だ。

転がる石に、苔は生えない。(だからじっくりと腰を据えろ)

ではダメで、陳腐化しないために、転がり続けなければならない世の中か。

かと言って、変化についていけない年寄りを追いつめ、その息の根を止めてしまうやり方も好きになれないが。

さて、役者の世界。

キャリヤに停留することなく進む。

そんなのは、梶 芽衣子(1947~ )くらいになってしまった。
(もちろん、萬年の知る狭い範囲、という条件で)

沢口 靖子(1965~ ) は、もっといろんな役を演ずる力量を持つ女優だと思うが、なんで、科捜研に仕事を絞ってしまうんだろう?

最近、とみに、残念な気がしてならない。

では。