5月14日(昨日のこと)、と聞いてピンと来たら、その方は相当な日本史通だ。
高校時代、日本史の教科書を一度も開いたことがなく、で、見事に赤点をいただいた萬年など、どんな日なのか、まったく無知で今日まで生きてきた。
今回、この日の出来事について知ることで、実は、ご幼少からの疑問が解決した、というお話をひとつ。
1878(明治11)年5月14日 午前8時30分。
馬車で皇居に向かっていた、内務卿(実質的な首相) 大久保 利通は、紀尾井町清水谷において、士族6名によって暗殺された。
大久保は1830年生れだから、享年47。
世に〈紀尾井坂の変〉と呼ばれる、テロリズム。
事件直後、現場に駆け付けた者のひとりが、前島 密(1835~1919年)。
大久保の遺体について記しているけれど、その惨状には息を呑む。
ところで、実行犯の内、5名は、石川県の出身。
携えていた斬奸状(ざんかんじょう)には、政治家としての大久保に五大罪あり、との告発がしたためてあった。
さて、事件発生当時の石川県は、現在の石川県(旧 能登と加賀)に加え、富山県(旧 越中)全域と福井県(旧 越前)の大半を含んだ、それは大きな県だった。
けれど、事件がきっかけとなって、不平士族が多く、しかも大県なので統治するに厄介なエリアだ、と明治政府に認識されることになる。
結局は、数年後、現在のとおりの、福井、石川、富山、の北陸3県に分割された。
だから、紀尾井坂の変なくば、石川県は今頃、全国屈指の大きな県だったはず。
例えば、静岡県(駿河+伊豆+遠江)や、岐阜県(飛騨+美濃)をしのぐくらいの。
小さい頃、日本分県地図を眺める度に……、
口を開けた、鼻の長い横顔そっくりな、この石川という県。
なぜ、喉元を富山県によってひどく狭めれられ、また、腰から下は、福井県に乗っ取られたような格好なんだろう?、とよく気になった。
昔の能登と加賀をそっくり引き継いだ県境線、といってしまえばそれまでなんですが、ツエ―ゲン金沢のお膝元が持つ、深く、密やかな歴史ではあります。
では。