Bleached Fox と名づけてしまえ。

ヴァンフォーレ甲府戦でハットトリックをやって魅せた、
#14 フォワード 鈴木 国友。

リーグ得点ランキングで、5位タイになった。

DAZNで観た、ゲーム後インタビュウ。

ドローだったから、ヒーロー、とはいかないせいもあってか、遠慮がちで繊細な話しぶりだったが、人柄がにじんていて好感を持った。

ふと、春浅き朝、我が家のすぐ近くを、食物を探すようにして彷徨っていた、あの孤独な狐を想い出す。

〈Bleached Fox〉、僕の中では、国友君をそう呼ぼうか。

髪をなびかせ、嗅覚鋭くゴールを狙う狡猾さを磨け、という気持ち。

そしたら、こんな曲まで記憶に蘇える始末。

『Sister Golden Hair』は、America が、1975年に発表した。

では。

逆は決して真にあらず (2021.4.17甲府戦 一気のレビュウ)

たやすく先制したと思ったら、難なく逆転されて畳みかけられてしまう( 1 – 3 )。けれど、しぶとくやって追いついた結果、3 – 3 のドローで、ジ・エンド。

ヴァンフォーレにしてみたら、負けに等しいゲームだったかも知れないが、では逆に、山雅にとっては、勝ちに等しいか?

いやいや、そうでは決してないだろう。

勝てるゲームを、安易な失点で獲れなかった事実を虚心に反省すべき、と思います。
ハットトリッカーが生まれたゲームが、引き分けに過ぎない、というリアルな現実を。

対戦相手の総合力(現状)と、もらっている給料(個のクオリティ)の違いからすれば、対ヴァンフォーレ戦こそ、勝ち点3で締めるのがやるべき仕事でありましょうから。

もちろん、最後までゲームを捨てず奮闘したチームと、ファンサポーターには心からの称賛を贈りますがね。

〈前半で見切るな、と言わせておくれ〉
イレギュラーな観戦となりました。

自宅で、前半20分過ぎまでDAZN観戦。
それからパソコンを畳むと、用事があった家人に立ち寄りをお願いして、アルウィンまで送ってもらう。
到着して、見上げたオーロラビジョンには、1 – 3 の文字がくっきり、と。

― なによ、あれ。またたくまに逆転されて。それでも観るの?
― あぁ。行って、後半で勝たせないといけないからね。

ゲート4まで歩いて行く途中、すでに帰途を決め込んで立ち去る御方が、けっこうな人数いらっしゃる。

そんなに早く諦めずとも、と言いたいんだが、2点のビハインドをはね返すという信頼をなかなか得られていないんだろうなぁ、今の山雅、との実感ひしひし。

それでも、この戦績で雨の中、4,800人超。

ここから挽回、との期待感も伝わってきた (観客数上乗せに一役買ってくださったヴァンフォーレサポーターの皆様には、それこそ深謝)。

ゲーム後は、臨空工業団地あたりまで徒歩だったんですが、信号待ちで停車の運転手さんからゲーム結果を尋ねられ、両手の指を三本立てて、ドローでした、と報告したんだけれど、まさか、勝ち点3と勘違いなさっていないよな。

……、とまぁ、これが、山雅を取り巻く現状認識と、市民に広がる関心への感謝をおろそかにはすまい、との決意。

総括は、こんなもん。
ただ少々、ゲーム内容に触れておきます。

〈すべてを 勝利のために投入せよ〉
❶甲府の、アジリティ豊富とはいえない最終ライン(3バック)に対し、横山 歩夢を先発で持ってきて、河合、横山、鈴木を3トップ気味に配したのは、萬年の注文でもあったので、これはずいぶん腑に落ちる。
3点目の起点となった前 貴之からのボールは、そこを狙って入れたものでしたし。
ただ、もう少し歩夢を長く使っても良いのでは?

❷DAZNの布陣図をみて、えっ! となったのが、下川 陽太(右)と外山 凌(左)の布陣。
これ反対でしょう、と。
泉澤(甲府)が躍動する攻撃へは下川を当てて抑える、という意図だったんでしょう。
確かに、外山の守備は軽いけれど、下川が格段にいいか、といえばクエッションなわけで、むしろ、左右を変えることによる攻撃力減退はまづいのではありませんかね。
それよりも、もしもクロスやカットインを許したとしても、次の防波堤として中を強固にしないと。
野々村、まったく競えていなかった。
3失点すべては、甲府の左からのボールに対して、身体で寄せ切れない守備のタマモノ!であったから、毎回のうんざりするような、緩いマーキングをなんとかしないと。

❸得点しなければ、決して勝ちはあらず。
という意味では、3得点は、期待が明日につながるゲームではありました。
後半、けっこうパスのズレが多く(スタジアム嘆息)、リズムが創れずに苦しみましたが、甲府もミスにつき合ってくださったお蔭で、特に、右サイドからの攻撃テンポが上がる。

ああやってボールを支配することの練度を上げていくなかで、センターバック陣がどれだけ巧く、攻撃の起点として機能するのか?、ここに注目です。

特に、中盤(ボランチ)との連携をより深化せよ!

最後に。
ヴァン君(甲府マスコット) には、深く感動。
たとえ負けゲームであっても、元甲府の佐藤 和弘に、明るく絡んでくるあたり、こういった度量は、見習いたいもんだ。

では。

Joker は 後からやって来る。

幼児にとっての入門的なトランプ遊びは、ババ抜きだろう。

順繰りに、隣の人のカードを抜いていって、手に入れた中の、同じ数字のカードはセットにして捨ててよい。
そして、手持ちのカードが全部なくなると、その人は上がり。
早く上がった者から(勝ちの)順位を得て、最後までジョーカーを持っていたものが敗者。

で、突然、なぜこのゲームを〈ババ抜き〉というのか?と、ひどく気になりだした。

英語では、この遊びを、〈Old Maid〉と言う。

老嬢、あるいは、オールドミス(今では死語?) のことです。

かつては、クイーン(#12)、つまり、女王を 1枚抜いた 51枚でプレイしていて、最後に、クイーンを手許に残した者が敗者だった。

(女性が残れば負けよ、なんてのは、フェミニストの攻撃対象になってもおかしくないが、そういう話はいままで、萬年、寡聞にして聞かない)

なんだ、ゲームの方法を直訳して、婆抜き、としただけの話……。

その後いつしか、ジョーカーを1枚加えた、53枚で遊ぶようになったらしい。

今日、緊張感を味わうため、どれか1枚を抜き、ブラインドカードに仕立ててプレイすることがありますよね。

それを、ジジ抜き、とも呼ぶ。

けれど、発生史に忠実であろうとすれば、キング(#13)を抜いてこそ、ジジ抜き、でありしょう。

ところで、途中投入されてゲームの様相を変えてしまうような実力派(切り札)を、ジョーカーと呼ぶことがある。

本日のヴァンフォーレ戦、ジョーカーが出現すれば嬉しいが、まづは先発メンバーで、ゲームをこちらへと、たぐりよせなければ、ね。

では。

不器用な男たちへ (甲府戦プレビュウ)

不器用ですから……、たしか、生命保険会社のCMだった、かと。

健さんを思い出しながらの、今回のプレビュウです。

〈相手にやらせる器量 無し〉
磐田戦のレビュウでも述べたけれど、山雅は、なぜか負け試合のスタッツがかえって優位、という事実を見逃せない。

これ、失点してスコアを追いかけるような敗戦にあっては、挽回しようとヤッキになって攻めにかかる、あるいは、先制した相手が守りに入って出て来ない、と言う事情に多く負うのかも知れない。

けれど、山雅の場合、最初から力を温存することなく全力で飛ばすのが常なんで、自らの戦い方から導かれる、いわば皮肉な現象のように思えて仕方がない。

たとえば、負けた千葉戦、水戸戦は、それぞれクロスを、28本、25本と量産。
また、シュートは、9本(千葉5本)、14本(水戸8本)だった。

前節、磐田戦は、シュート21本(ジュビロ10本)。

ところが、勝利した秋田戦は、クロス5本、シュート9本。
対し、秋田は、クロス29本、シュート22本だ。

…… で、決めつけの結論。

いままでの7戦のスタッツから、肉を切らせて骨を断つ、といった相手の出方を逆手にとるような戦略的なゲームを選択したようにみえるのは、唯一、秋田戦だけ。

ただし、秋田戦は、強風の向かい風下でゲームに入らざるを得なかった。

だから、策として秋田スタイルを封じ込めた、というよりも、風対策を慎重にやったら、結果として、あのようなゲーム進行になった、というのが正確なところに思える。

山雅の現在は、指揮官から始まりチーム全体が、自分たちの技量と連携を実直に前面に押し出すことに終始している、とみてよい。

つまり、策略をこらし相手を陥れるようなバトルは選択されない。

相手にやらしておいてから、さぁ、次は……という器量がなく、プレイヤーにもそういう器用さは求められていないのだろう。
※ここでの器量とは、意思的なものを指す、技量(テクニック)面ではなく。

違う言い方をすると、いったん先制されると、テコ入れのために切るカードは、かなり硬直化したものとなり、変更後の布陣と組み合わせには、現状突破の新味をあまり感じない。

この戦い方の是非の議論は、いまは棚上げだ。

ただ、リーグ戦が4分の1くらいまで進んた時点で、勝ち負けが最低タイ(12位目安)になっていないと、今のやり方が厳しい批判を浴びるだろうことは、覚悟しなくては、と思う。

〈剛よく剛を制するか〉
前節北九州戦を、前半の前半、およびハイライト動画を観た限りの、ヴァンフォーレの印象。

試合は、シュート27本、クロス31本を打ちながら、後半70分に同点にされた。

甲府にとっては、ほとんど負けに等しいゲーム内容。

甲府のサッカーは、無駄な遊びを排した、剛直さ、シンプルさが顕著。
派手さは、ほとんど皆無、合理的な実利主義、って感じ。

常に秀逸な外国籍フォワードを活用しながら闘うのが甲府の戦略的なDNA、と思ってきたが、いまは、三平(大分から加入)が前線で躍動して存在感を示す。

3バックにはヴェテランが登用されて、最終ラインは落ち着きをみせる。
攻撃面では、特に、左サイドからの侵入が脅威。
左サイドバック荒木、加えて、左に張ることの多い泉澤(シャドウ)は自由にさせると厄介だ。

ちなみに、リーグ7戦して、甲府のシュート総数は 103。総得点は 8。
ゴール成功率は、7.8%。

他方、山雅のシュート総数は 88本。総得点 5。成功率は、5.7%。

まぁ、団栗の背比べみたいな数字であって、得点力不足は、両者共通の悩みだろう。

次に、クロス総数。
甲府は 107本、山雅は 115本。
甲府は、北九州戦で31本を積み上げているから、ゲーム当りの本数でみると、山雅のほうに分が有る。

ともに、3バックを採用し、硬派なサッカーを身上とするのだから、チームとして個として山雅がやるべきことは、ひたすら真正面から、相手を上まわる剛直さをむき出しにして戦うこと。

ヴェテラン、そして、腰高の甲府最終ラインに対しては、鈴木 国友、横山 歩夢、河合 秀人、そして田中パウロといった、突っかけるドリブラーで引っ掻き回す、ってのが有効だと思うんですがね。

くれぐれも、柔よく剛を制す、などに色気を出してはなりません。

では。

天国と地獄 その続き…… 『Hotel California』

4/12の記事中、This world Can be A Heaven、みたいな願いを記したついでの、今日のお話です。

天国と地獄、と聞けば、黒澤 明による、1963年公開の映画を想い出すお方もいらっしゃるに違いない。

仲代 達也(警部)ら捜査陣と、山崎 努(誘拐犯)の知力を尽くした対決。
特急こだま(新幹線はまだ走っていない)車内、まるで素人っぽく揺れたカメラ撮影でもたらした緊迫感。
あんた(被害者)の住んでる高台の邸宅はまるで天国、それに比べ、俺の住む処は地獄のようなもんだよ、と誘拐犯は、脅迫の電話口でつぶやく……。

つい脱線しました。

1976年に、イーグルスが発表した『Hotel California』には、

And I was thinking to myself “This could be heaven and this could be hell”
〈ここは天国かもしれないし、地獄でもあるかもな、と僕は自分に訊ねたんだ〉……の一節がある。

砂漠の、暗いハイウェイを走っていたら、遠くに煮えたぎったような光を見た。近づいてみると、そこは、ホテル カリフォルニア。
女に案内されて進んでいくと、多くの住人たちと無数の部屋。
ようこそ、ホテルカリフォルニアへ。
1969年以来、ここには酒を置いてないけれど、素敵な人々、愛すべき場所。
チェックアウトはいつでもどうぞ、けれど、あなたは出ていけない。

暗喩がちりばめられた謎解きを強いるような歌詞が続くのは、ドン マクリーンの『American Pie』(1971年)と似ていて、これこそ、クラシカルロックが生み出したおとぎ話たち、とも言えましょうか。

でも、歌詞の解き明かしは、つまるところ、解釈者の素養の浅薄が見え透いてくるばかり。
ゆえに、あまり相手にしないようがよろしいかと。

この曲であれば、不思議な歌詞をそのままに、荒涼な寂寥感を楽しめば、それでいいんでは?

では。