仕事に戻った、1969年の夏。

いまから、半世紀前の、1969年。

6月を休暇で過ごしたビートルズの面々は、7月1日からふたたび、ロンドンのスタジオに戻りつつあった。

実質的に彼等のラストアルバムとなった〈アビーロード〉を仕上げるため、そのセッションに集まったのだ。

8月8日には、スタジオに面した道路で、横断歩道を渡る4人が映る、あのジャケット写真が撮影された。

アルバムは、2箇月をかけて作られ、8月25日にマスターテープが完成。

その年の、9月29日に英国で発売になった。

制作されたのが夏のさなか、そして僕が聴き出したのがたまたま、夏。

というわけで、今頃になると決まって、ジャケットの、青いミニスカートの女性が、かすめるように写り込んでいる写真を想い出すのが常、となってしまいました。

ただ、それだけのことなんですが、その中からすこし。
サイドBの後ろのほうのメロディーをカヴァーしている動画。

7月冒頭の4日間で各曲を創り、同月末からは、それらをどうやって繋げるかの作業をおこなったらしいです。

では。

慌ただしさは いつか来た道 (八戸戦プレビュウ)

❶乱暴に、ヴァンラーレを描写する
前節、ヴァンラーレ八戸は、ホームで福島ユナイテッドと対戦、1 – 0 で勝利した。

どれ、そのゲームを観て、ひとつ予習でもしましょうか?、

と見逃し配信の前に座ったのであるが、ゲーム開始9分、カウンター攻撃を止めようとした福島ディフェンダーのファールが、決定機阻止と見なされて、一発レッドで退場となってしまう。

あぁ、これじゃあ、残り80分を、双方に本来的なサッカーを望むのも無理だわ、と決めつけて、早々にDAZNの画面を切った。

けれど、開始から少しを観ただけでも、休まず速く、手段を選ばずに前へ前へが、八戸サッカーの本髄なんだろうな、と見当はつく。

クロスを入れるのも、早い早い。

前節のいわきFCもそうだったけれど、呼吸を合わせて立ち合う、といった悠長なサッカーは、2部より上のカテゴリー未経験のチームには、望むべくもない。

とにかく、先手先手の精神と、数打ちゃあ当たる量的重視のサッカーを貫くことで、技量差を挽回したいのだから。

思うにこれは、ある意味、弱者サッカーの常道でもある。

かつての山雅だって、敢えてそのスタイルを、手練手管の域にまで徹底して戦っていたんだ。

(註;このやり方もちろん、ある地点に来たら限界は厳存する、たとえば、トップリーグではそれだけだと、なかなか通用しない)

❷あれは、ちょうど3年前……
この慌ただしいサッカーに、3年前の7月3日、天皇杯2回戦(@アルウィン)で、延長戦までやった末に、2 – 3 で敗退。

苦杯をば、嘗めた嘗めた。

まぁ、あれは、こちらのターンオーバーと、ゴールキーパー(村山 智彦)のチョイスがものの見事に機能せず、大味な、カウンターサッカーに引きずり込まれた、と僕は思っている。

責めているわけでは、決してない。

対人には強い反面、村山の位置取り(シュート準備) については疑問が多いので、その資質をわかったうえで出してしてるんだから、ここでは、首脳陣の起用ミスとしておく。

❸やはり、山雅は挑戦者。
3年も経ちゃあ、下部リーグのサッカーチームは、もはや別物。

なんだろうけれど、あの時アルウィンのピッチに居て、現在も在籍のプレイヤーは、

山雅は、安東 輝と米原 秀亮のふたり。
対し、ヴァンラーレには、5人。

となると、DNAの伝承、ということではヴァンラーレのほうに一貫性あり。

他方、山雅は今や、若手世代にリフレッシュ再建の途上であることを勘定に入れれば、

むづかしい考えは棄てて、前節と同様、一貫したテーマの、強く、速く、聡く、これを踏破するため戦う、ってことでいい。

向こうが3バックなので、敢えて3バックにして対面を突破するシーンへと、みづからを追い込むのも手だろうし。

そして、相手のあわただしさのどこに、どこのスペースを使って、閂をかけるのか?

そこを意思統一しておいてですね、

前節は、状況的に許されなかった浜崎 琢磨投入による、山雅流テンポの創出を楽しめればなぁ、と思っています。

忙しないサッカーに、ベッタリと律儀につき合うこともなく、こっちのペースにどれだけ陥れるか?

その意味で、菊井 悠介と浜崎の組み合わせは、かなり面白いと思うんです。

さて、今節は、DAZN画面で参戦。

では。

洋服論 (1916年の) を少々。

(時候の憶え、6/28、庭の桔梗がひとつ開花)

西暦1916年は、元号でいうと、大正5年。

その8月に、永井 荷風 (1879 ~ 1959年) は、随筆『洋服論』を発表している。

ダンディズムとは、結局、何を着るか? (または、何を着ないか?) に尽きる。

ゆえに、稀代のスタイリストであった荷風先生が、西洋由来の服飾について論ずるのは、まったくの好テーマであった。

今から、ほぼ1世紀ほど前のご教示ではあるが、時空を越えてなお傾聴すべき内容です。

興味あれば、青空文庫 (荷風作品にもはや著作権はない) で手軽に読めるので、ご一読をお奨めしたい。

で、少しそこから、箇条的(原文もその体裁) に引用すると……、(註:現代文に変えています)

〇ハンカチーフは、晒麻(さらしあさ)の白いものを上等とする。
縫取りや他の色モノは女性用であって、男性が使えば、気障りでしかない。
米国では、キザな男が時々スーツの胸ポケットからハンカチをちょっと見せたりする。(ポケットチーフのことですな)
英国人は、袖口へハンカチを丸めて入れ込む流行がある。(へぇ~、知りませんでした、試してみたくなりますよね)

〇洋服はその名のとおり西洋人の衣服であるから、すべてにおいて本場である西洋を手本とすべきなのは当然。
ただし、日本人が洋服を着る場合、黄色い顔の色に似合ったものを選ぶことが肝要だ。
黒、紺、鼠(グレイ)などの地色であれば、ほとんどの者に合うので無難だろう。

〇洋服の仕立ては日本人よりも支那人のほうが遙かに上手である。
東京でいえば、帝国ホテル前に在る支那人が営む洋服店の評判が良い。
銀座(4丁目の) 山崎洋服店なんかはぼったくるばかりで、縫い目とかボタンのつけ方が堅固でない。
こういうのは、縫い糸を惜しむ行為であるから、日本人の商人ほど信用の置けないものはない。

……どうです?、なかなかの見識でしょう?

たとえ、相手が当世の有名店であっても、クオリティーの無さを具体的、かつグサリと批評するところなんか、流石は、荷風。

こういう悪口には他意がないので、読んでいてすっきりと腑に落ちます。

では。

テグジュぺリのブレスレット。

サン テグジュペリは、1900年の、6月29日に生まれ、

1944年7月31日、地中海域で偵察機(ロッキードF5型)を操っているところを、ドイツ軍機 (メッサーシュミットBf109) に撃墜されて戦死した。

享年 44歳。

ただし、当時は消息を絶ったのであって、戦死と認められたたのは、かなり後年になってのこと。

1988年、マルセイユ沖で、テグジュぺリと妻の名が刻まれた銀製のブレスレットが、漁船の網にかかって発見された。

それを契機に、2003年の捜索によって、彼の搭乗機の破片などが回収されたことで死亡が確定。(ただし、遺骨は未発見のまま)

テグジュぺリは、1940年に米国に亡命している。

だから、1943年、自由フランス空軍への実戦参加は、外国籍の義勇兵の身分としてだった。

……、と書き下すと、けっこう格好はいいが、御年すでに40代半ば、しかも、実戦投入直後には機体を破損させる事故を起こし、軍規によって飛行禁止処分を受けた身の上。

既に第一線から退くべき者が、あえて搭乗に固執して復帰できた背景に、もしも、テグジュぺリの作家としての名声に対する配慮が在ったとしたら、僕には、かなり興醒めなこと。

もっと有能なパイロットを搭乗させないのは、戦略的に言っても、あり得ない話だろうと思う。

さらにさらに、後年、テグジュぺリ搭乗機を撃墜したと証言した、元独空軍パイロット(ホルスト リッパート 1922~2013 )は、あれがテグジュぺリ機とわかっていたら、撃ち落とすことはしなかった、と述べているらしい。

これ、ご当人からしたら、テグジュぺリへの敬愛を示そうとした発言なのかも知れない。

けれど、相手が無名のパイロットならば平気で撃墜してたんだろうし、それが軍人として当たり前の行動だったわけだから、今さら、後出しじゃんけんのようないい子ぶりに不快感だけが残るのは、僕だけか。

けれど、現実の人生、エピソード、名声などまったく知らなくたって、あるいは、それらに耳を貸さなくたって、テグジュぺリの作品は、それ自体が素晴らしい。

そんなわけで、久しぶりに、『夜間飛行』(1931年発表、1951年 堀口 大學訳) を引っ張り出している。

では。

今のところは ヨーソロー。(兼 いわき戦プレビュウ)

時候の憶え、芝が一定に生えそろうのは、6月末。

ヨ―ソロー、とは船乗り用語で、舵取り良好、このままの方向へ進め、を意味する。

この言葉が、〈よろしく候(そうろう)〉を短縮したものとは知らなんだが、
山雅のリーグ戦やりくりは、現状、ヨーソロー。
順調に、ここまで来ていると思う。

もちろん、チームとして目指すクオリティー到達度は、また別の問題です。

勝ち点の積み上げは、14節消化して、28。

ゲーム平均勝ち点 2 を獲れているので、勝ち点管理としては上々の出来。

過去5年の実績から、3部リーグだと、節数かける 2 の勝ち点に到達すれば、2位内にランクインするのが、ほぼ100%の確率。
(ただし、断トツな1位チームがあると、2位の勝ち点基準は、あと数点は下がる)

要は、もっぱら自分の勝ち点勘定を気にすべきであって、いま時点で、順位うんぬん、あるいは奪首奪首、と騒がないのがよろしいかと。

対戦のための研究でなければ、隣のチームの芝目を気にすることもない。

……、と萬年式勝ち点計算説を申し上げたら、職場でお会いする山雅サポーターの方からは、

― いやいや全部勝つつもりでいかなきゃあダメでしょう、とかお叱りを受けるんです。

これだから、女性の一途さは、時として厄介。

けれどね、そういった、もう後が無い、を言いつつリーグから陥落した過去を知っているからこそ、もっと冷静にソロバンをはじいてもいいのでは?、と思うこの頃。

例えば、ホーム必勝、アウェイは最低ドローで勝ったら、それはボーナス。

このペースで、2ゲーム通算が勝ち点4、ですからね。

毎ゲームを全力投入、力量の最大値発現は論を俟たないが、勝敗がままならぬこと常なのも、歴戦の山雅ファン&サポーターなら、よくご存知でありましょうから。

まぁ、しかし、だ。

おとといの対いわき戦。

1名少なくなって必要に迫られて採用した、後半30分間ほどの戦い方。

あれ、いわて攻略法の手がかりを、リーグ全体に提供してしまったように思えてなりません。

もちろん、11人揃った当初の戦法を続け、交代で、住田 将、浜崎 琢磨を投入し、よりサイドから畳みかけて相手を追い詰めるところが観たかったんですが、それは、7/23のお楽しみ。

ラストのところで橋内 優也を投入できるなんてのは、やはり、3部にあっては別格の選手層です。

スタジアムで観戦中、家人が隣から、
― いわてはミスが少ない、良いチーム、とのご評価。
山雅は、それに反し、ミスが多いとおっしゃりたいわけだ。

良いチームであることは否定はしませんけれども、ミスが少ない、というのは違う。
精度の低いクロスにしたって、いわば、ミスでしょう。

いわてのピッチ内練習は相当に実践的。
でも、クロス精度は、目を覆いたくなる出来で、それがゲームにも反映しました。

いわての場合、速くボールへ駆け込む、どこにボールを出す、が戦法として準備、徹底されているので、どのスペースであっても先手を獲れる、ということなんです。

だから、横山 歩夢がシュートを打ちやすいところへボールを持ち出そうとすると、普段よりも速く相手ディフェンダーの足が出てくることが数回。

山雅にすれば、そこをどうやって交わすのか、または、ひっくり返すのかを、あとひと月かかって考えればいいことであって、

他方、いわきは、攻撃アイデアをもっと捻り出すという、けっこう難易度の高い課題を、対山雅戦については負った。

クロスを高く強いヘディングでズドン、あるいは、密集のこぼれ球に反応して打つを狙うだけでは、山雅の守備は崩れなかった。

当然、山雅よりもクオリティーで劣るチームに対しては、今の戦い方をマットウするでしょう。

だから、ひと月後もやはり、上位対決なんて言ってるんでしょうか?

DAZNを観返したら、外山の2点目は、菊井 悠介のシュートを星キョーワンがブロック、そのこぼれ球が、走り込んでいた外山へのプレゼントパスになってしまったことに、今さら気づく。

となれば、いわきの後期山雅戦のテーマは、〈アキラとキョーワンの逆襲〉でよろしいか?

……と、あれま、ヨーソローが、いつのまにやら、7/23のプレビュウの有り様で、誠に申し訳のないことです。

では。