ゴージャスな午後を (全豪オープン)

― 残業になりますが?、とメールすると、

― 了解です。私は、午後セリーナとなおみのゲーム観戦、と家人から返信。

― それは、ゴージャスな午後!!、と返しておく。

ここのところ、拙宅の居間における殺人は、ひと休み。

かわりに、午後から夜にかけて、テニスのゲームが延々と続いているのだ。

帰宅すると、ジョコヴィッチが、準決勝を闘っていた。

息子に風貌と雰囲気がよく似ているからだろうか、男性プレイヤーでは、家人のもっともお気に入りらしい。

ジョコちゃん、とか画面に向かって呼んでいる。

確かに、すべての部分でクオリティが高く、クレヴァーなテニス。

これと言って弱点のない、好選手だと思う。

それに比して、錦織 圭君にはひと頃の輝きがなく、心配ではあります。

しかし、あまり熱心に観ていない者の偏見なのかも知れないが、
テニスの試合は、観客が入って盛況であっても、無観客でも、プレイヤーのパッションに、あまり落差や変化を感じない。

なぜだろう?

では。

答えは無数、竹藪の中 (本能寺政変論)

某公共放送が一年かけて放送した、日向守 明智 光秀が主人公のドラマが、つい最近終了したらしい。

光秀といえばとにかく、主君であった上総守 織田 信長を本能寺に襲った逆臣として、人口に膾炙するその人。

となれば、その顛末がどう描かれたのか?、というのが、興味の大半。

で、家人が観ていた様子なので、物語のラストがどんなだったかを、聞いてみたんである。

すると、だいたい次のとおり。

秀光は信長を本能寺に攻め、死に至らしめた。
その理由については、歴史上提出されている仮説を、おおよそ丁寧に網羅して描いてはいたが、いづれかが決定打、としてはいなかった。
信長が亡き者となるについての秀吉の思惑にも触れていた、という。

さらに、現実か幻視かも説明されない一瞬で、光秀が山崎の戦い(1582年)の後にも生き延びていた、ともとれるようなシーンもあった。

家人評は、こんな。

― 観ている人の判断に任せるような趣きだったけれど、それなりの、つまり、好い余韻が残る、って感じだわね、あたしにとっては。

なるほど、なるほど。

それくらいが、公共放送における冒険の限界でもあったのかも知れぬ。

信長の遺体が確認されていないことを根拠にして、信長生存、とまで突っ走る戯作性は期待できまい。

あるいは、『忍者武芸長』(1962年完結)のように、信長を襲った後、秀吉軍に敗れ、ついに京都の小栗栖(伏見区)で百姓に殺害されたのは、実は、秀光の影武者であった。
本物は、どこかに遁走したのであった、という結末も、やっぱりアウトに違いない。

推定の素になる材料を落ち度なく示し、あとは観る者に判断させる手法を採ったこの度のシナリオ。

そうなったことの真の理由は、いやいや、もっと深いところにある。

おそらくは、こういうこと。

すなわち、織田 信長に仕えた期間をのぞくと、その人生には、かなり謎の多い光秀を描くとなれば、今の社会が、これだ、っという明快な正解を許さない、のである。

なぜなら、行動や問題がこれだけ複雑になってしまった現代社会では、これが唯一の正しい答えである、という思考態度はもはや通用しない。

せいぜい、答えはいくつかある、というのが現実で、かつ、そのどれもが、圧倒的な正当性を主張できないでいる。

なによりも僕らが、唯一絶対の正答を期待することなくして問題を読み解こう、という態度でいるのだ。

戦国時代とはいいつつも、髷を結った、現代人の感性を持った者たちが行動するドラマ相手ならば、なおさらだろう。

では。

旧く新しい記憶、の巻。

―だが、密集化は、はたして一方的にわざわいを招いただけだったろうか。
たとえばインフルエンザの大流行の原因になったことはたしかだが、人間は密集によって不利な状況をつくりながらも、立派にそれを乗りこえてきたのである。
利害の一致が、集団的な抵抗力を組織することになり、それがやがて個人の抵抗ではなしえなかった力を発揮したわけだ。
人間は密集からのがれることによってではなく、逆に密集の力を利用することで、悪や不潔を乗りこえてきた。つねに禍を転じて福となす―それが人間というものなのである。―

ふと、本棚から引っ張り出して読んでいた本に、たまたま見つけた一節が、これ。

安部 公房(1924~1993) のエッセー『密集化現象』(1959.4.22の日付) にある。

へぇ、公房氏は、集団による力の結集を、善なる力、とも認めていたのか。

その作品中の主人公たちのほとんどは、集団による非合理な圧迫から逃れようとしてもがく人物なのに……。

日本のCOVID-19対策が、もっぱら集団的な有形無形の圧力に依存していることの、預言的な考察とも言えましょう。

以上、他者の文章を引用するばかりの、今回です。

では。

【前々回へのコメント】
☞ルノワール氏 より (2021.02.15.11:11)
梶芽衣子&沢口靖子
梶芽衣子姉さんの
一度だけなら♪
聞かせくださり有難う御座いました
心に浸みる曲です
野村正樹の曲でもありますね     
沢口靖子は何故に科捜研の女?
彼女は美人すぎて近寄り難い雲の上の存在
よって恋愛ものより科捜研に向いていると思うのは私だけでしょうか?     

☞萬年より(2021.2.16.04:38)
ルノさんへ
コメントありがとうございます。
沢口靖子について、私が夢想するのは、サイコな犯人役とか、コメディーにおける道化役、jyouそんなところなんですがね。

ホンネを申せば、

という題名エッセーの、受け売りではありませんよ。

オフレコの、内輪で話すようなことをおおやけで発言して、オリムピック組織のリーダーが吊し上げを喰っているらしい。

寄ってタカってここぞとばかり攻めたてるのは、いただけないけれど、内々と公言の使い分けをしない、できない、という無頓着は、もはや許容されなくなったのだ。

議論をかもすような内容は、かなり上質のオブラートに包んで発声しなければならない、とは、生きづらいことだ。

ただし、指導者の舌禍があったので、ボランティアをやめる、聖歌は持たない、というのは、あまりに浅薄な反応で論外でありましょう。

先の失言に戻ると。

男性は~、女性は~、と四角四面の入り方をしないように迫られ、かつ、その価値観を内面化して発言、行動しないと、リテラシー欠如の烙印を押される、今。

でもね、違いを認めたうえで平等に、ってムシがいいよなぁ、と萬年思うこともある。

ビジネス上で、女類らと接していると、形勢が悪くなると、とたんに〈女〉に逃げ込むようなお人やシーンを見てきた。

まぁ、こういう時は、あぁ、持てる武器を全部使っていらっしゃるんだと、その奮戦を認めて、楽しむことにしている。

反面、男類は、使える武器を、カードとして出し尽くした感がありますなぁ。

では。

【現時点】なにを信用しないのか?❷

クーデターによって自宅(敷地内)に押し込まれた国政のトップが、そのクーデターを支持しないようにFaceBookで発信した、とか。

へえ、そんな自由が認められているの?

これひとつとっても、今回の政変のありようを、よほど注意深く読み解かないといけない。

軍政 = 武力行使による鎮圧 = 独裁的な暴政、と簡単に成り立つのか?

それは僕らの頭の中だけのことで、どうも、そんな単純なお話ではないようだ。

他方、民主化の名の下に実行された政治が、人々にとって実際どうだったのか。

その中身を、もっと紐解いてからでないと、軽々にジャッジできない。

たとえば、ベンガル人とも呼ばれる、イスラム少数派の人々のこと。

ミャンマー社会は、誰が政権の座に在っても、今のところは、その人々に自国籍を認めないだろう。

過去のある時までは、共存していたイスラム教徒と仏教徒であった。

が、特に、英国や日本の植民地になる過程で代理戦争に投げ込まれなどしたあげく、バングラデシュとミャンマーの国境を行ったり来たりさせられている悲しい歴史。

国連が、ミャンマー政府によるイスラム教徒処遇に関し非難声明を加盟国による投票で採択した際、我が政府は、棄権に回っている(他方で、事態に憂慮も表明している)。

だいたいが、歴史上、外国が乗り込んでいって、救われた国があったんだろうか。

ほとんどが、自立からは遠のき、悲惨な混乱に陥っている。

思い浮かぶ唯一の例外は、世界の人々の反戦を求める論調には一切耳を貸さずに戦争をやり遂げたあげくに、米国とその傀儡政権を、国外へと敗走せしめたベトナムくらいでありましょう。

すでに汚れた手をして、自分たちに都合のいい理想や主義をかざし、民族自決の権利を取り上げるってのは、なんと傲慢なことか。

では。