100年前に学ぶ 模範解答はこれ。

緊急事態宣言といったところで、内容は〈お願い〉ばかり。

うむを言わせぬ実行もないから、発令するたんびに、新鮮味と権威? も失っていくのでむしろ逆効果、とは、真っ当なご意見。

80年前の戦争にしたって、民の協力と忍耐を取り付けていたのは、結局のところ、隣近所や世間から〈非国民〉と指をさされる恐怖であったことを思えば、民を動かすこの国のやり方は、100年近く経っても、ほとんど変わっちゃあいないことに、むしろ感動する。

こういった、子供だましみたいなことを真剣にやっている世のリーダーたちを、こどもたちは、一体どういう思いで観察しているんだろうか?

前にも書いたが、本当にヤバい!、人の移動を止めたい、と思っているのならば、都営メトロも都バスも止めて、JRイーストともダイヤ変更について真剣に協議するはずなんだが、そういう話は、あまり聞かないのはなぜなんだろう?

およそ1世紀前(1918~1920年)、A型インフルエンザ(H1N1亜型)が世界的に大流行した。

今では季節性インフルエンザと呼ばれ、毎冬ワクチンを受けて予防する(それでも罹ることがある)が、当時、人類はその抗体をほとんど持っていなかった。

人口5,500万人の日本では、2,380万人あまりが患者として報告されて、39万人弱の人々が亡くなった。(45万人とする説もある)
人口の、47%が感染したことになる。

スペイン風邪、と呼ばれたパンデミックだが、100年も経てば記憶の彼方へ行ってしまう。

日常的に風邪に苦しんでいる日本人ならば、コロナウイルスを制するなんことを考えないのがむしろ賢いわけで、

せいぜい自身でできる予防策を怠らず、
国や他人をあてにせず、
噂や雑音に惑わされずに、
基礎体力をば温存しながら、
おとなしく3年間を耐える、
さういふひとにわたしはなりたい ― これが模範解答なり。

ところで、画家エゴン シーレ(1890~1918年)とその妻エーディトは、スペイン風邪の犠牲者だ。


稀有の才能。
個性的な人物描写を試みた
シーレは 当時28歳、ようやく世間に売り出し始めた矢先の落命だった。

シーレは、ウィーン美術アカデミーで学んだ。

彼が入学した次の年とそのまた翌年に同校を受験して不合格になったのが、アドルフ ヒトラー(1889~1945)だ。

ヒトラー政権がナチス時代に退廃芸術展を開催した際、シーレの作品は、堕落した芸術として没収される。

彼の作品は多く性的な領域に踏み込んでいるから余計に攻撃の対象になったんだろうけれど、いまでも、オーストリアからは、ドイツ国内の美術館に対して返還請求がなされているらしい。

では。

Joker は 後からやって来る。

幼児にとっての入門的なトランプ遊びは、ババ抜きだろう。

順繰りに、隣の人のカードを抜いていって、手に入れた中の、同じ数字のカードはセットにして捨ててよい。
そして、手持ちのカードが全部なくなると、その人は上がり。
早く上がった者から(勝ちの)順位を得て、最後までジョーカーを持っていたものが敗者。

で、突然、なぜこのゲームを〈ババ抜き〉というのか?と、ひどく気になりだした。

英語では、この遊びを、〈Old Maid〉と言う。

老嬢、あるいは、オールドミス(今では死語?) のことです。

かつては、クイーン(#12)、つまり、女王を 1枚抜いた 51枚でプレイしていて、最後に、クイーンを手許に残した者が敗者だった。

(女性が残れば負けよ、なんてのは、フェミニストの攻撃対象になってもおかしくないが、そういう話はいままで、萬年、寡聞にして聞かない)

なんだ、ゲームの方法を直訳して、婆抜き、としただけの話……。

その後いつしか、ジョーカーを1枚加えた、53枚で遊ぶようになったらしい。

今日、緊張感を味わうため、どれか1枚を抜き、ブラインドカードに仕立ててプレイすることがありますよね。

それを、ジジ抜き、とも呼ぶ。

けれど、発生史に忠実であろうとすれば、キング(#13)を抜いてこそ、ジジ抜き、でありしょう。

ところで、途中投入されてゲームの様相を変えてしまうような実力派(切り札)を、ジョーカーと呼ぶことがある。

本日のヴァンフォーレ戦、ジョーカーが出現すれば嬉しいが、まづは先発メンバーで、ゲームをこちらへと、たぐりよせなければ、ね。

では。

萬年= COVID-19 の理由。

久しく眠っていた、ルノワール氏のスキー熱が、この冬になって覚醒した。

そのきっかけは、ホームゲーム抽選に当選していただいた野麦峠スキー場のリフト券。

スキーをやらない萬年は、これを、ルノワール氏に進呈したのだった。

(ちなみに、萬年におけるホームゲーム抽選当選率は、約2% )

野麦峠が呼び水となって、シーズン直近は、はくば47 を楽しんでいらっしゃるわけ。
はくば47は、ロケーションからして、雪が遅くまで残るのだそうな。

― それとですね。コロナ騒ぎでマラソン大会が軒並み中止。
そこで浮いた資金をスキー行にまわしている寸法です、とルノワール氏。

よって、ルノ氏のスキー回帰の、根本的な理由とは、萬年とCOVID-19 のふたつ、ということになるのであって、

要は、その意味で、萬年とCOVID-19 は、彼の中にあって等価、すなわち、イコールなんでありまする。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (4/14 19:12)
萬年さんから頂いた野麦峠スキー場の無料券のおかげ様で今年はスキーを楽しむことが出来ました。
有難う御座いました
🌸が散る季節なりそろそろシーズン終了です
スキーシーズン終了後何をするか?がスキーヤーの大きなテーマですが
鹿島槍スキーヤーの
(つーさん)はじめ全国のスキーヤーはオフ📴をどのように過ごしているのでしょうか?
人それぞれだと思いますが
興味有ります
私は来月から
マラソンランナーに戻って
10月03日開催の
松本マラソンに向けて日々の練習に励みます
リフト券有難う御座いました

御領岳 の記憶から (早すぎる甲府戦プレビュウ)

4/17は、ホーム甲府戦だ。
磐田、甲府と、なじみあるチームとの対戦が続く。

なんだかんだで、リーグ戦も第8節、まだ5分の1なのか、あるいは、もう5分の1なのか。

ところで、ルノワール氏から、今季は、白馬47で滑り納めでした、とうかがう。

47とは、4シーズン×7デイズ、すなわち、1年365日楽しめるリゾートに、という決意を表すネイミングらしい。(ルノワール氏から宿題をもらって調べたのだ)

そのゲレンデから、五竜岳の眺望が素晴らしく、この季節、頂上直下には、
〈武田菱〉の雪形が現れるならわし。

……、なるほど。
確かに、菱型が4つ組み合わさって、おおきな菱型を作るデザインは、〈四割菱〉(よつわりひし)と呼ばれ、これこそは、武田家の家紋。

戦国の世、信濃の国は、その武田氏の領地だった。

ゆえに、武田菱が浮かび上がる、あの頂こそ、〈御領岳〉と呼ぶにふさわしい。

ところが、世が移るにつれて、御領がなまりながら、いつしか五竜となった、という説は有力です、とこれまた、ルノワール氏からの受け売り。

1582(天正10)年2月3日に始まった織田 信長による甲州征伐は、3月11日、天目山の戦いで、武田 勝頼・嫡男 勝信の一行が自刃したことによって終結。(武田宗家の滅亡)

この間、たったのひと月ですよ。

いくら勢力にかげりがみえていたにせよ、世にその名を馳せた武田軍団は、高遠城をのぞいて、組織的な抵抗をほとんどすることなく壊滅。

実際は、離反と織田側への寝返りの連続だったわけで、見事なまでの内部崩壊だった。

人は石垣、といった信玄の組織論は、いったい何だったのか。

萬年は、そこに裏切りへの不快感よりはむしろ、甲斐の民の、リアリズムに徹した現状認識の素早さ、をみます。※
(信長という敵が、いかに強大だったか!)

武田菱をクラブエンブレムにいただく、ヴァンフォーレと対戦する時はですね、甲州人の冷徹な現実透視、ここを、絶対に外してはなりません。

440年も経って、いまさら被支配者根性で言う訳でもないが、しかし、山雅の公式さんよ。
いいかげんにしてもらいたい。

もはや甲信ではなくて、信甲と銘打つべき立場を認識すべきであり、そのくらいの気概を持ちましょうよ。

あえて、ダービーと煽りたいのならば。

※甲州人の名誉のために、付記を。
織田軍の武田侵攻の端緒にあって、寝返りによって織田連合軍に決定的な優位をもたらしたのは、木曾谷の領主 木曾 義昌であった。
正室として信玄の三女を迎えているが、実質的には武田の支配下で不満を募らせていて、武田と結ぶことの将来的な不安も大きかったに違いない。織田氏の勢力下であるほうの魅力に惹かれたのだ。ただ、織田側に通じたことにより、義昌は、人質として差し出していた母、側室、嫡男(13歳)、長女(17歳)を勝頼に処刑されて失うことになった。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (4/10 20:28)
近々に開催される
甲信ダービーにリンクする話題が欲しい
ならば
白馬47&白馬五竜でしょう
って事で
私、生意気ながら
47の由来を萬年さんに質問したのでした
スキーヤーでも47の由来を知らない人は多い
なのに萬年さんの研究熱心さ、流石です!
HAKUBA47
は登録標章
よって、アイドルグループ
○○46
◎◎48
ってのは有るけど
47は白馬47だけですね
白馬47が平成2年にオープンしたときは単独のスキー場でした
2年後に
隣合わせの五竜とうみスキー場と協定締結
両スキー場を山頂で結ぶリフトを新設して
共存、共通リフト券を発売!
白馬八方尾根に勝るとも劣らないビッグゲレンデになりました
両スキー場が互いにいがみ合うのではなく
お互いの発展のため手を取り合いました
あれから30年今では日本を代表するスキー場に成長しています
遠い昔
武田と上杉は別の国の主
それが当たり前ですが
現在は同じ白馬の地で
白馬五竜と白馬47が共存共栄しています

 

桜ばかりに眼を奪われて。

桜の開花ニュースばかりが伝わってくるけれど、もっと大切な兆しを見落としてはならない。

記録を調べたら、我が庭の辛夷(こぶし)は、昨年よりも20日ほど早く花をつけている。

要は、ことしの春は、ほとんどの樹木で、開花がいままでよりも半月くらいは前倒しになった、とみてよい。

半月分の、このフライング。

大自然は、寒さへの回帰によってどこかで帳尻を合わせていくのだろうか、はたまた、炎暑の夏をもっと苛酷にしてくれるのかい?

COVID-19 にとっては、どうなるのがいちばん嫌なんでしょうかねぇ。
ひとつ聴いてみたいものです。

https://youtu.be/yx0ixwh3SRE

では。