賢治 , 部下, 勝利の女神

先日、半日をかけて生活習慣病予防健診を受けた。

半日人間ドック、と呼んだほうがわかりやすいか。

そして、その午前中、佳いことが、なんとみっつもあったのだ。

❶宮澤 賢治の詩集『春と修羅』(1924年4月刊行、第一集)
作者が生前に、世に問うた唯一の詩集。
23の詩篇から成っていて、序の日付は、同年1月20日なので、約100年前の冬に、賢治は、出版準備にとりかかっていたのだ。

これを、検査の順番を待つあいだあいだに、ひととおり読むことができたこと。

❷会場で、偶然(だろう)、約6年ぶりに、かつての部下と遭う機会に恵まれた。

向こうから声をかけてくれ、お互い現役でやっている、って感じが嬉しかった。
在職中の、僕による〈13番目の男たらん〉という教えについて語ってくれて、あぁ、そんなことを言ってたんだ、と少々居心地が悪い。

❸胃の内視鏡検査。
まぁ、これがいちばん憂鬱なやつでして。

ところが、今回は、僕がもっともその腕を信頼しているドクター(女性)に当ったのだ。
少々敏腕すぎるきらいはあるが、被検査者にたいする指示が的確、仕事が迅速。
あれ、もう終了?、なんて思うほどの手際。

前回など、よっぽど悪い所見があったので、検査中断なのか、と焦った焦った。

今回は、ナイキのスニーカーを召していらっしゃっていて、僕にとっては、まさに勝利の女神(ギリシア神話のニケ) でありました。

検査終了時には、「また、お願いします」とかおっしゃる。
家に帰って、家人に、あれってどういう意味なんだろう?、と訊いてみたら、
― リピーターを創るといった営業努力じゃあないかしら、との返事。

そうだとしたら、なかなかたいしたものです。
こういうのを、技魂商才、というんですかね。

なにごとも感謝しておこない、出来たことを感謝する、といった感じの一日ではありました。

では。

安逸と矮小の日々から。

人生に意味を求めてどうするんだ?
人生とは、願望。 意味ではない。  by チャップリン

どうだろう、7~8割の力を持ってすれば、そこそこやっていける毎日。

身の回りを、お気に入りで固めることに気持ちが向かう日常。

けれど。

ぎりぎりのところ、全力でやっていない日々は、自分を、どんどん小さい者にしていくように思われてならない。

かつての部下が年賀状で、工場長やっています、と近況を報告してくれた。

職業において、より上位者をめざすことはいいことだ。

収入が増えることも大切だけれど、人というむづかしい存在に迫りながらも、組織の全体、いわば森をみるような視点を鍛えられるから、苦しいけれど、そこには自己研鑽と成長があるはず。

自分を乗り越える、という意味で。

かなり複雑、かつ、影響力がこんがらがっている組織を、これほどたくさんの普通の人々がマネジメントするようになったのは、人類史上(日本も)、せいぜい200年にもならいないから、まだまだ上手くいっていないけれど、だからこそ、そこには、やりがいも多い。

……、と言いながら、さて僕も、今の安逸から抜け出さないとな。

必死に一日をやって、ようやくわづかな休息時間の中で、こんな曲に浸る。

そうなりたい。

では。

『疲れた……』で言いたいのは、

つまりは、あまり良い時間を過せなかった、とか、くたびれただけだった、をサラッと言いたいんだろうな。

と、若人の会話を聞くたび、そう思うようにしている。

決して、くどくど説明したくないクセや、その語彙の貧弱をあげつらってはいけない。

しかし、自分ではほとんど意識していないのに、

― 疲れてるみたいね?、と問われると、ハッとしますな。

あぁ、表情や動作に滲み出るものがあったんだろうなぁ、と立ち止まってしまう。

電車の中、立っているのが大義だったり、大変そうにお見受けしたら、自分が座っている席を、サラリと、ごく自然に譲って差し上げたらいい。

好意を受けるか断るかは、その御方にお任せすればよいから、迷うこともいらない。

まぁ、挨拶みたいなもの。

相手がそれを返そうと、返すまいと、こっちの知ったことでなし。

朝の自分を、気持ちよく始めるための儀礼と思えば、向こうの反応はどうでもいい。
あぁ、家で女房とでも喧嘩して出て来たか、または、挨拶することを自分に躾けられずに大人になっちゃったか、ぐらいに思え。

あるブログで、傑作なのがあった。

電車で席を譲る運動、というのをやってる高校があって、そこで回数ナンバーワンを獲った高校生の言い分が、

まずは、自分が席に座ることがポイント、なんだそうだ。

たしかに、一面、おっしゃる通り。

この無邪気な証言、良識を育てようとする善意が、ややもすると陳腐な発想へと向かうことの一例ではありますな。

我先にと空いた席に殺到すると、あとは寝たふりを決め込む無関心。

これは、日本人が、相当に疲れていることから来るのか、どうか?

フィルコリンズによる『Another Day In Paradise』(パラダイスに居られたのに、1989年発表)。

たまには、こんな曲を聴きたくなる時がある。

もう一度考えてみろ(Think Twice!)、と、自分に言い聞かせたい時に。

では。

身の程を知る賢さ。

学業に齟齬をきたしたのはわかるが、なにも、学歴においてもっとも象徴的な学校の受験会場まで出かけていって、わざわざ人を傷つけることもなかろう。

いちばん不快なのは、自分と同世代に切っ先を向ける姿勢。

やるからには、自分に理不尽を押しつけた体制( = 強者)を攻撃しないと、筋が通らない。

学歴社会という名の、実は、学校名格差社会の幻想。

分相応、身の程を知る、といった美徳が廃れてしまったので、日本の国で生きることが、より一層辛くなっていることは、確かだ。

例えば、神社仏閣の庭で引いたおみくじ。
その恋愛運のところに〈身の程をわきまえろ〉とあれば、誰もがカチン、とくる。

けれど、今日び、こういうサバサバした渡世の真理や現実は、おみくじくらいしか教えてくれないのだから切ない。

他方、せいぜい成城とか学習院卒で、一国の政治リーダーになれたのは、
有り余る財力と、ふんだんな勉学環境を使った挙句、たとえその程度の学歴を刻めなくとも、世襲の恩恵を利用することでなんとかなった、という結果だ。

校名格差と、世襲による職業固定化、これって、今日を生きる青年諸君に対する往復ビンタみたいなもので、

今回、事を犯した彼は、このふたつの罠で、身動きが取れなかったのかも知れない。

学校の勉強が好き、出来る、それはそれでかまわない。

でも、それとはまったく違った意味の、頭の良さ。

いわば、聡明さや賢さのようなものが、世の中に多く恵みをもたらしているのに。

では。

遠くを眺める 夜明け。

凍えて固まった身体を緩めながら、この文を、綴っています。

ついさっき、午前5時48分から 2分間。

ISS(国際宇宙ステイション)が、ご当地の真上を通過していったのを、眺めていた。

いまだほとんど夜空の、北の方向。

雲の中から明るい光が現れると、ぐんぐんと、天頂にある北斗七星付近へと近づく。

そして、ヒシャクの形、取っ手の先のほうを通過。

やがて、夜明けの兆がみえだした、高ボッチの頂のあたりの上、南南東の方角に消えていった……。

ちょうど、隣のご主人が犬を連れて通りかかったので、

―あれがそうです、とお話しすると、

―へぇー、あれが。ありがたいものを観られました。

もちろん、その愛犬には、少々吠えられましたけれどね。

では。