雪と ツツジと トレーニングマッチ。

けっこうな積雪となった、今朝。

日頃のおこないが良いのか、今年は、何度かの雪の朝が非番であることが多い。

井の中の蛙を自認するならばとにかく、この程度の降雪を〈大雪〉と呼んだとしたら、雪国の人々に対して申し訳ないだろう。

先日、青森県在の親戚と、電話でやりとりした際、
積雪が、遂に、物干し台のてっぺんまでになった、と聞いた。

青森では、9年ぶりの大雪だそうで、車庫の雪下ろしを業者に頼まざるを得なくなり、その費用は、70,000円ほど、とか。

たしか、自家用車が2台入る、フラットな作りなんだが、えらい出費だよなぁ。

というわけで、たいしたことのない雪の日、ソファーにひっくり返って、山雅公式サイトを開く。

トレーニングマッチを匂わせておいて、シラっと、FC今治さんとやったのか。

許される環境では、最上級のご相手であること、それと、FW登録のプレイヤーが得点していること、そんなところが収穫。

こうなったら、キャンプの仕上げあたりで、愛媛さんとはマッチメイキングできないかしらん?、とか欲にはキリがありません。

ところで、画像をみるに、エンジの上下に、グリーンの3本線のユニフォームがなかなか渋いではありませんか。

なんだか、ヨーロッパ風のたたずまいで。

上胸部に入った背番号も、お洒落。

練習試合専用には、少々もったいない気もします。

ところで、あのエンジ色、レンゲツツジ (松本市花) に由来するんでしょうけれど、たまたま先日、ジャガー氏から、レンゲツツジは有毒植物であることを教わった。

― 花をむしって、根元の密を吸っていたんじゃあないですか?、子供の頃は。

とか言われて、いやぁ、図星ですわ。

ゆえに、今夏忘れずに、幼児に、その遊びを禁ずるようにしなければ。

では。

準国歌の無い,寂しさ?

組織ぐるみの薬物使用が認定されて、国として、主要な国際大会から締め出しをくらった時、表彰における国歌使用も、差し止められることになった。

そこで、国歌に代わる曲を、なにか選定しなければならない。

それならば、お国のフォークソング、カチューシャを使いたいと希望した。

いやいや、その曲は、貴国を連想させることにおいて露骨過ぎる、ということで却下。

結局は、チャイコフスキーに落ち着いた、という経緯らしい。

この話を聞いて、国歌のように愛唱されている曲があるってことは、幸せなことだと思った。

自分の国には、そういうものが、すぐに思い浮かばないからだ。

80年くらい前までは、『海ゆかば』が第二の国歌として推奨されていて、なかなかいい曲だとは思うが、チト好戦的過ぎるし……。

読者諸氏には、準国歌としてお奨めの曲はありやなしや?

ということで、『Deer Hunter』(1978年、米)のエンディング、God Bless America が、およそ喜ばしくなく歌われるシーンを聴いている。

では。

イタチごっこを笑い飛ばす。

それが、お国の名誉のためなのか、指導者としての権威アップなのか、または本人と家系の稼ぎのためなのか?

とにかくどんなことをやっても、クロをシロと言い張ってでも、競技会でトップを獲りたいのだ。

これって、追いつめられた学生諸君が眠眠打破を使って、徹夜でレポートを仕上げたり、愛を込めとか言って旦那に、タウリンの入った清涼飲料を飲ますのと、ほぼ同じノリで投薬しているんだろう。

若年だからどうのこうの、オリンピック委員会からの派遣ならば参加可だとか、ダブルスタンダードが組織の都合で推し通される事例は、この世にゴマンとあるわけで、こういうときに、さも正義をかざして責めるのも、大人げない。

とか言いいながら、チャイコフスキー、ピアノ協奏曲第1番(変ロ短調)を聴いているだけなんだけれど……。

註:『父と娘の歌』(1965年 日活)、シーっ!と、引用。

では。

葉書を前に。

勤務ローテーションのため、早朝、まだ暗いうちに出勤した家人。

数分したら携帯が鳴ったので、事故でも起きたか? と思って出てみると、

― なによ、並柳まで来たら、積雪なんて 3センチよ、まったく!

― ま、そのための四駆でしょう、気をつけて。

昨日、拙宅の庭に、メジャーを突き刺して測ってみると、積もった雪は 20㎝。

吹きだまりのところはもっと深くて、30㎝くらい。

どうも、下界とは違った世界だったようです。

家の近く数百mの坂をあがるためだけに四輪駆動に乗っているんだから、そんなもんか。

で、僕は、雪中の中、のうのうと非番。

便りをしなくてはならぬところがいくつかあるから、引き出しから、葉書を引っ張り出してきて、机の上に置く。

これが50円の葉書で、つまりは、2013年以前に購入したやつ。

この前、郵便局で、10円、2円、1円切手を買ってきて 63円にした。

……ところで、カレーラリー松本に、喫茶山雅がエントリーしているのか。

そう言えば、インディアンキッチン(石芝3丁目)にも、しばらく行っていないなぁ。
気さくなオーナー、元気かしらん?

しかしだ、食べ物ばかりが楽しみな人生になったら、オシマイだよな。

寝食を忘れてでも、打ち込めることがなくっちゃあ、とか考える。

いやいやながら、終活とか称して、ためてあった給与明細なんかを整理しだしたはいいが、結局、葉書は書かれずに、いまだ、机の上にあるのです。

では。

『相手の知力に合致させよ』(推理小説の尺度)

注意:この記事では、特定の推理小説のスジがあからさまになるので、それを嫌う方はご遠慮ください。

タイトルは、探偵オーギュスト デュパン の言葉。

デュパンは、エドガー アラン ポー (1809~1849) が創造した人物 (フランスの貴族) で、史上初の名探偵、との評価が高い。

デュパンが登場する作品は三つあって、すべて短編。
モルグ街の殺人(1841年)
マリー ロジェの謎(1842~1843年)
盗まれた手紙(1844年)

上のセリフは、最後の、盗まれた手紙の中にあって、全文は……、

『それはただ推理者の知力を相手の知力と合致させることにすぎんね』(佐々木 直次郎訳) ……だ。

暴露されれば政治的な大スキャンダルを惹き起こす手紙が、某大臣によって、高貴なご婦人の手許から盗み出される。

パリ警視庁は、大臣の屋敷を(その留守中を狙い)3箇月をかけて、平方インチ(2.54㎝×2.54㎝)ごとに、くまなく探索するも、手紙は発見できずに終わる。

万策尽きた警視総監D某は、ついにこの事案を、デュパンのもと持ち込んで捜査を懇願した。

……、ということで着手したデュパンは、たった2回、某大臣の在宅時に屋敷に訪問することによって、見事、盗まれた手紙を取り戻すことに成功するんです。

その手際を、同居する友人(私)に説明する格好で、デュパンは解き明かすが、今回の事件について、推理のポイントは、ふたつあった。

❶上の言葉のとおり、相手の知力に立って、手紙の隠し場所を推定すること
パリ警察は、ただただ自分たち自身の工夫力しか考えないのだったが、某大臣の知力は、かれらをはるかに上回るものであった。

❷大臣の狡知からすると、手紙は、敢えてもっとも隠されていない場所に隠されているはず

実際、それは、壁にかかった、なんの変哲もない名刺入れの中に破りかけのように偽装されて抛り込んであった。

木は、森の中に隠せ、に近い工夫。

比喩としてポーは、地図の中の文字捜しゲームを持ち出している。
初心者はたいていいちばん細かい字で書いてある名をあげるけれど、玄人は、むしろ、地図の端から端までひろがっている名を選ぶ、と。

推理における問題解決にあって、こういった心理の盲点を着想したことについては、ポー自身が、きっとおおいに感動したはずだ。
或る友人へあてた手紙でも、自分の推理小説のうちで最高の出来、と語っていることからもうかがえる。

作品の長短、犯罪の仕掛けの大小、登場人物の多寡に関係なく、こういった心理戦がキチンと描かれないと、推理(探偵)小説は読む価値がありません。

例えば、『本陣殺人事件』(1946年、横溝 正史)では、ふたりが殺害される完全犯罪の事件に見せかけるため、とてつもない仰々しい仕掛けが施されるけれど、そういった、費用対効果を一切無視したようなことは、かえって人間心理に反している。
ゆえに、そこを前提に組み立てられた物語は、僕にとっては、うさん臭くて退屈、つき合い切れない。

もっとも手間をかけず、誰にも気づかれず、痕跡を残さずやり遂げるからこそ、完全犯罪なんであります。

お金、制作費用をかけず、けれど、知恵はふんだんにかけて作られた『コロンボ』シリーズにしたって、相手の地位(セレブ)と知力に合致させた推理、その地力を逆手にとった犯人の追い込み、それらは、かなり簡素な方法によります。

でも、コロンボのやり方だと、自白が事件解決の決め手になっている場合が多いから、いざ法廷闘争になったら、けっこうしんどいのでは?、とどこかで読んだおぼえがあります。

では。