どう死ぬか があるから こう生きられる。

結局のところ、人々の、具体的にどんな行動の結果によって COVID-19(新型インフルエンザ) パンデミックがこうなる、という納得のいく答えは、誰も教えてくれないまま、2年あまりの時は経った。

とにかく、ワクチン打て、マスクして入店せよ、黙って食べれ、の繰り返し。

そう言われ続けて生活するこの国民の〈従順〉は、ひどく思考停止した生き方に違いない。

シナでは強烈なロックダウンを敢行していると、皮肉めいた論調でメディアは騒ぐ。

けれど、上海では強権的に、海のこっちでは周囲の白眼視が嫌で、それぞれやっているに過ぎず、たいして違いのない渡世ではないか。

宗教を否定する社会(民族)では、現世の後にはなんにも無いから、死ぬのがいちばん怖いこと。

だから、一目散に、右向け右で、手法は違うが全体主義な手当てに走るんでしょうな。

英国(グレートブリテン)では、人口6,800万人の 約3分の1(2,200万人)が、既に感染してしまったから、しめた!とばかり、サッカー観戦なんかマスクなしの、したい放題になっている。

しめた、というのは順序が逆で、そういう日常に戻りたいがために、感染を厭わなかった、ということ。

こういうのは、根本には、たとえ死んでも次の世があるさ、という覚悟があるからできることであって。

今のところ、愛知県の人口くらいの感染者(累計800万人)なこの国。

この先も、第何波を、左顧右眄してチマチマと乗り越えていくのが関の山。

そこには、こういうふうにしてしまえ、といったヴィジョンに基づく行動は起きそうにもない。

〈この街とスタジアムにマスクはいらない〉と率先すれば、画期的なんだが……。

夢想に浸りながら、では。

挙げた拳を 巧く下ろさせる。

プロ野球のゲームで、主審が、ピッチャーズマウンドに詰め寄る出来事があった、という。

わざわざニュースになるくらいだから、あまり見かけないことには違いない。

しかも、その時投げていたのが、今をときめく速球投手だったらしいから、注目度も高い。

好奇心に駆られて、そのシーンを観てみた。

なんのことは、ない。

ストライクとボールのジャッジに対して、マウンド上から不敵な(と感じた?)笑みを浮かべた、20歳の投手に対し、

― なんだよ、小僧、そのふてぶてしい態度は、よぉ!

と、いい歳こいた中年アンパイヤが、カッとなって、マウンド近くまで恫喝しに行った、それだけのことではないか。

僕は、アンパイヤの処し方のルールについちゃあ詳しくもないから、この行動の是非はわからん。

けれど、仕事上、こういったシーンにお目にかかることはけっこうあるし、自分より若輩の者に、冷笑された日にはフツー、ムッと、あるいは、カッとなる。

今回、そういう場面が、たまたま何十万人の、衆人環視の中で起こったに過ぎない。

機械が投げて、機械が判定しているわけでもないから、感情の表出とか、ミスジャッジがあって当たり前、あまり騒ぐようなことでもない、と思うけどなぁ。

ただ、願わくば、この主審これを、もっとスマートにやれば良かった。

喧嘩も、売り方次第では、見苦しい。

とは思うが、そういう頭の良さ(聡明さ)を盛んに修養しているような業界でもなさそうだし。

ただ、ひとつ。

僕が惜しい!! と思うのは、この時、ロッテベンチの首脳陣には、できることがあったのに……、ということ。

― おいおい、穏やかじゃあないね、君い。
うちの若いのになにか文句があるなら、監督のこの俺に言う、ってもんだろう。

と、すかさずダッグアウトを出て行く機敏な戦略性は、ないようですな。

相手がカッとなる、いわば、無防備な時こそ、状況をこちらに優位に持ってくるチャンスなのに。

一瞬の不可解さにとまどってその機会を逸したのか、あるいは、取るに足らぬことと思っていたのか知らないけれど、もしも、そうしたならば、今後の、ジャッジを優位に導けるだろうし、なんたって、監督が援護してくれるんだ、ということで、プレイヤーのココロを掴めたでしょう。

子どもの喧嘩でも、キッチリと、大人が出なきゃあならない時がある   by 萬年

ロッテは、勢いがつけばそれなりに勝てるが、ゲーム巧者とは言い難いチーム、と感じます。

そして、この若いピッチャー、案外早期に、他球団か、メジャーリーグへ移籍していくんじゃあないだろうか?

では。

因果応報を、疑う。

不祥事とか、事故とか、なにかとてもマヅイことが起きて、

関係した者が、それに対応している様子を観ている。

すると、あぁ、こんな組織だからこそ、こんな者たちが絡んでいるからこそ、こういったことが起るんだろうなあ、と思うことが、しばしば。

だが、自分の中の、そういう決めつけが、果たして的を得ているのか?、最近よく考える。

デカルト的な、事象 ⇒ 実験による再現 ⇒ 定理としての確認、といった手続きの考え方に染まると、どうしても、結果には、必ずその原因があるはず、といった態度におちいる。

ここ300年くらい、人間がそういう思考態度を、いかに巧緻、精密にするかに腐心してきた結果、僕らは、事実を良くかみしめる前から既に、何故?、を求めることに馴れてしまった。

だから、あることの原因をそれらしく示している記事に出逢うと、ひどく安心してしまって、まるでその説を〈神〉であるかのように信奉する。

そうか、皆で、神を探しているんですな。

そうではなくて、

前もって存在した不足などにはおかまいなく、たまたま、その事が、そこに起こっただけ、といった考えを見直してみようか、と考えているのです。

ただ、そのデカルト (1596 ~ 1650年 ) は、

人が、神性について思い及ぼすこと自体が、神の存在を証明している、と言っていて、これは、人間の思考を絶対視した言葉なのか、それとも、神の実在を認めた発言なのか、僕は、いまだにわからないでいます。

では。

雪の名残りに。

まさに、昨日のこと。

これ、もう物置にしまわないと、と思っていたのは。

一夜明けたら、それを使って、愛車のフロントガラスの雪を払っているとは。

明日のゲームが、もしもホーム戦だったら、今頃は大騒ぎしているんだろうなぁ。

今年は降雪が週末にかかることが多いから、雪の朝はよけい静かでいいや。

と、そうそうに家の中に入るのでありました。

おんなじ白でも、今は、こっちのほうに憧れます、ずっと。

では。

常識とは……、

……、18歳までに身についた〈偏見〉のことなり。

とは、A.アインシュタインの言葉。

けれど、その偏見が集まったところの、〈民意〉は、おおかた当てにできる、というか信頼に足るものだ。

今回の武力侵攻について。

思想的、国家的、経済的なモロモロの立場による都合は在るにせよ、そりゃあないだろう、といった不快感が、世界のココロ(民意)の多くに及んだことが、それに対する行動の発端だと思う。

民にとっては生活必需品だから、露国での営業を継続します、とファーストリテイリング社が表明した時。

いまや、その生活必需品を購うための紙幣(ルーブル)が使えなくなるか、それを紙屑同然にしてまでも某国を追いつめようと反対制裁しているのに、その理由づけはないわ、と笑ってしまった。

完全に状況を読み間違っているな、と思っていたら、2日すると、今度は前言を翻して、営業を一時停止、とは、これまた大失態。

他国での不買運動を予想、予告されたのかも知れないが、一度言ったならば、徹頭徹尾、露国の国民に寄り添います、との信念を通すぐらいで、いいではないか。

一旦、こうと決めたならば。

では。