八朔、8月1日。
僕は、上高地にいた。
ジャガー氏にガイドをお願いして、、梓川に沿って、約6キロメートルの道のりを、河童橋から明神池との往復で楽しんだ。
ジャガー氏いわく、上高地とは、飛騨山脈の深い峡谷で生起している、自然の破壊と再生の歴史。
破壊と再生……、その言葉を反芻しながら、花崗岩が砕けた土砂の道を歩いていた。
では。
八朔、8月1日。
僕は、上高地にいた。
ジャガー氏にガイドをお願いして、、梓川に沿って、約6キロメートルの道のりを、河童橋から明神池との往復で楽しんだ。
ジャガー氏いわく、上高地とは、飛騨山脈の深い峡谷で生起している、自然の破壊と再生の歴史。
破壊と再生……、その言葉を反芻しながら、花崗岩が砕けた土砂の道を歩いていた。
では。
娘が、その息子の、ああ言えばこう言うに、おおいに手を焼いている。
そこで、彼をやりこめようと、早口言葉をチャレンジした。
〈ナマムギ、ナマゴメ、ナマタマゴ〉。
案の定、彼、舌が回らずに、なかなかの悪戦苦闘だ。
そうしている間は、母親は、息子に絡まれないからひと息入れられる、というわけか。
で、おもむろに助け舟を出す。
― あのね、コツはね、頭の中に、ひとつひとつの語句を強く思い浮かべること。
要は、〈生米、生麦、生卵〉という言葉を続けて発音すればいい、と教えている。
隣で聞いていた僕、この極意を採り入れてひそかにやってみたんですが、これがホントウにその通り。
〈隣の客はよく柿食う客だ〉という文章を早めに読む気持ちでやってみると、案外、これが上手くいく。
早口言葉の落とし穴は、似た音の羅列にこだわってしまうこと、ということを悟らされた日になった。
しかし、チャレンジされている息子は、まだ漢字を知らず、ゆえに、その象徴力、イメージの造形力を使いこなせないから、ちょっとかわいそうなんであります。
では。
絵画の世界では、大きいサイズの作品をモノにすることが、たしかに力量の証明ではある。
造形力を誤魔化せませんからね。
けれど、ここで言う、〈大きな画〉とは、世の中全体を、ダイナミックに、全体最適の視点でとらえた発想のことなんです。
先日、家人が醤油を購おうと、なじみの醸造店に出向いたら、そこの社長が、或る書類を見せてくれた。
もらって来た資料の見出しには……、
〈日本国内においてコロナワクチン接種後、急に発症し、医学学会で報告された疾患〉(2022年 4月~ 7月) ……とある。
要は、この社長、ワクチン接種は止めたほうがいい、と勧めてくれたんだが、
― あら、でも、2回目まで受けちゃったんですよねえ、と家人は答えたらしい。
でも、(3回目以降の)ブースター接種については、思いとどまっているのが、我が家。
対COVID-19 施策については、2年半が経過しているのに、いまだフラフラとしているし、かつ、怪しいことが多過ぎる。
(後年振り返った時は、知見に乏しいがゆえのことであった、と言い訳が入るだけか?)
気がつけば、集団免疫、なんてことは、いつの間にか誰も言わなくった。
あまり公言されないけれど、厚労省の資料をのぞけば、新規感染者のうちで、3回接種済みの者が、多数。
こういう数字はもっとキッチリと報道すべきなんだが、そうしないのはワクチン接種にブレーキがかかることを怖れて?
もはや、社会全体が免疫力を獲得するんてことは、非現実なのだ。
地域的、年齢的なバラツキがあるにせよ、日本人の12人に1人は、感染済みなんですよ。❶
この流行り病で騒ぎ出してから約900日。
で、亡くなった方は、累計 30,000人。
一日平均だと、30人の死者。❷
これは、(基礎疾患などによる)二次的な死因でカウントしたのではなくて、COVID-19感染していれば、すべて、〈COVID-19による死〉にぶっこんだ数字なのだ。
従来の季節性インフル死者を、そのようにして計算し直すと、年間最大10,000人、という推計をどこかでみた。
ということは、なんだかんだで、後遺症うんぬんといってみたところで、所詮究極の指標であるところの〈死亡〉視点からして、社会的にそれほど重いことか?
厚労省は、〈日本の1日〉という統計を発表していて、その平成28~令和2年版だと、1日あたりの死亡原因別死者は、
がん ☞ 1,034人
心疾患 ☞ 562人
脳血管疾患 ☞ 291人
事故 ☞ 104人
自殺 ☞ 58人
COVID-19とのつきあい方も、こういう観点から見直す必要もある、というのが先の社長のご意見なのであった。
医療界は、なにかと言うと、現場崩壊を盾にした見解しか示さず、政治リーダーは、行動制限はしない、としか言わず。
現在、感染しても、よほど重症化しなければ、家に居て治せ、ということでしょう。❸
だから、上記❶❷❸の理由で、僕は、新型インフルエンザとは、もはや風邪と同様なつきあい方をすべき、と思っている。
宣言は出ないが、社会だってその方向に進みたいのは、明らか。
日本人はもともと、風邪と一年中慣れ親しんでいる。
ここのところの感染者急増は、ようやく欧米並みの感染状況になったまでの話。
ただ、向こうは既にマスク無しの生活、こっちはいまだ自主規制だのみの生活。
このまま、ワクチン接種を何回させれば、気が済むのだろう。
弱毒化した?異物を、この大人しい民は、これから幾度、体内に注入するのか。
いろんな規制緩和や基準引き下げを、仕方なくやっているようなフリはせずに、こうなったら、こうします、とキッパリと何故言えない?
向こう(ゴール)から観た発言や〈画〉の提示は一向になくて、ただ、国がやると言うから、民もそれに粛々と従う。
80年前のいくさでも、やはりこんな感じで流れていったのか?、その頃の大人に訊いてみたいのは、僕だけ?
もしそうならば、敗けた後で、自分は反戦主義だった、嫌々協力したなどと、後出しで平和論はぶたないことだ、特に、これからのシーズン。
では。
死者を鞭打たない、というのが礼儀、とは思っている。
すくなくとも、やがて時が経ち、歴史的にその人の評価が定まってくるまでは。
弔い方をどうやろうが、そのことで、逝った御方の人生の重みが変わるわけでもありぁしない。
そもそも葬儀なんてのは、生きているこっち側が、内外の区切りをつけるためにやることであるから、眠っていらっしゃるご本人からしてみれば、腑に落ちないこともあるんじゃあないか?
だから、他人の告別式についていろいろ語りたくもないけれど、ただ、ひとつ。
畳みの上でフツーに亡くなったら、はたして国葬、などと言い出したのかね?
あの犯罪ひとつで、どうこうなるような民主主義ならやめたほうがいい。
(本来、ふらふらしながらやっていく政治的妥協の手続きが、民主主義なのだ)
お国のために殉じたのならともかく、幹部政党内の割り当てとして現場に出向いたのではないか。
不慮の死を、国を挙げて悼むとしたら、アルトイン セナ級でないと〈国葬〉の二文字が泣く。
まぁ、秋風が立つくらいに、どうでもいい話ですけどね。
では。
註;画像はセナ搭乗機にはあらず。
昨日は、学生時代からの親友K君と、関東平野の北端あたりをうろうろしていた。
ひと月前は、
― 内陸部のあの辺だと、灼熱地獄。
オッサンの干物が出来上がるのがオチだね。
とか言っていたのに、ずっと時々雨の曇天で、最高気温は26℃。
おかげで、干上がることもなく、まづまづの過ごしやすさ。
朝、桐生市を出発、国道122号をたどり、足尾銅山(日光市) まで行く。
そこから、山越えをして鹿沼へ下り、さらに栃木市を通過して、渡良瀬遊水地へと向かう。
で、栗橋駅からJRで帰京するK君を降ろして、解散。
こう書くと、なんともそっけない旅程ですな。
― 君に連れて来てもらわなければ、こうやって群馬、栃木、さいたまを巡るなんてなかったですよ、と、東京人(渋谷在住) のK君が言う。
でも、そんな寂れと朽ちれの中にたたずむ街々を観てまわるのも、今のK君には苦痛であるはずもない。
― 実はね、今度の土曜日に、婚姻届けを(渋谷区役所へ) 出しにいくのよ、大安、ってことで。
聞けば、長年のつきあいで、20歳年下のお方、とのこと。
― いろいろな事情があってさ、とおっしゃるが、いと佳き事ではないか、K君。
K君と別れ僕は、東北道へ乗ると、北関東道、上信越道へと回り、三才山を越えて松本に戻った。
サイモン&ガーファンクルを流しながら来たんだけれど、こういった一節が、なぜか心に沁みるのではありました。
And here’s to you, Mrs. Robinson
Jesus loves you more than you will know
ミセス ロビンソン、申し上げたいことがあって、それは、
神様は、あなたが思う以上に、あなたを愛して下さる、ということなんです。
では。