令和の発明に 文句言い。

気象庁のお方、このキャッチフレーズの開発について、内心かなりの自信をお持ちなんではないか。
画期的な発明である、と。

なぜなら、事あるごとにお使いになる。

それは、〈いままで (あるいは 過去に) 経験したことのないような……〉、という形容詞。

なるほど、そうなのか~、と毎度聞き流すんですが、では、いったいどういうことで過去に味わったことがないのか?

それがすこしも判然としないところが、このフレーズの絶妙さ、だ。

経験などは、人の数だけあるはずなのに、ずいぶんと大ざっぱな描写ではありませんか。

要するに、聞いている者に、覚悟をしてもらうための常套句ですな、今や。

そうしたら最近……、

過去経験したことのないような感染爆発、とかいう見出しが目に入る始末。

おいおい、こういうふうに使うか?

他人に覚悟をさせたいのならば、僕たちの周囲でどんなことになるのかの結末を具体的にご教示願いたいのだが、大変だ大変だばっかりで、いっこうにラチが明かぬ。

おそらく、いろんなところ、主には医療機関で限界点の〈歩留まり〉をみているに違いなく、そのためか、掛け値なしの危機の内容が一向に伝わってこない。

仕組みがどうまわっているかを知りたいのに、医療従事者は寝る間もない、といった強制労働的なお話ばかり。

医療崩壊と騒ぎはするが、こういう数値がまづくて、これだと、出口でこうなりそうで、だからこの数値をコントロールして、ここを限界値とみる、といった科学的なお話をほとんど聞いてないぞ、大方の市民は。

かつ、これだけ人的設備的な手当てをしてきていて、現在はこう、これからの計画はこう、いつまでに、そんな説明はどうした?

染るんです、と言って言われて、早1年半。

すくなくとも、仕事のレベルとして、かなりまづいんじゃあない、これじゃあ?

この騒ぎ、鎮まるまでは3年かかるとみている萬年からすると、ようやく折り返し点を過ぎたあたり。

そんな思いで、今月末のバクシン接種に備えている。

では。

ツバメ去りて 秋を知る

相方は今年も、

熟れつつある無花果(イチジク)の実のことで、野鳥らと争奪戦に突入した昨日今日。

僕は時々、その戦果にあずかって、くちばしが一刺し二刺したやつを、フレッシュでいただいているのだ。

先月25日あたりに、職場の軒下で子育てをしていたツバメたちが、その巣からいっせいに姿を消した。

きっと、もっと大きな群れへと合流し、南方への渡りに備えるためだろう。

僕の知っている限りでも今年、3~4羽のヒナが落命しているが、それでも多くの次世代を成長させて旅団に加え、南国に向かう。

で、隣家で営巣していた家族はどうかと観察しているんだが、こちらはまだ巣を後にしてはおらず、拙宅の上空をさかんに飛び交う。

頭上高く、あるいは、僕の腰くらいの高さで、僕の立っている数メートル先を滑空しているさまは、長距離飛行のトレーニングに余念なし、とみえる。

そうこうしているうち、もはや、季節の中には秋が紛れ込んでいて、雲は空に筋状に乱れているし、月見草の花が、目につき出す。

   ツバメ去り   空に残るる  ひっそりの月  萬年

彼らの長旅の無事を祈る、そして、互いに生き延びていれば、また来年。

別れの曲、『ラ ゴロンドリーナ』(メキシコ民謡、つばめの意) をたむけに。

では。

暑さを楽しめ『Thunder Road』

ほんの数キロ先では、物凄い夕立で道が泡立つ。

ところが、拙宅の周りに来ると、空からは一滴も落ちてこない。

あるいは、その逆だったりで。

夏の盛りの午後。
雲と雨は、不思議なありさまで地上に届いたり届かなかったり。

夏を楽しめ、と若い世代に葉書を書き送っている手前、こちらもせいぜいそのように暮らしたい。

ブルース スプリングスティーン(1949年~ ) のアルバム『Born to Run』(1975年発表)の中で、どれか一曲を選べと言ったら、ラストに収まった『Backstreets』になる。

けれど、こんな空模様を考えて、今回は『Thunder Road』に。

アルバム冒頭に置いた、という重みのある曲です。

雷鳴の道

玄関の網戸がパタンと鳴ると、そのドレスが目をかすめる

ラジオの曲に合わせ踊りながら、ポーチを横切って来るメアリー。

ロイオービソンは、僕のような孤独な連中に向けて歌っている

そう、今夜共にいたいのは君、僕を家に追い返さないでおくれ

ひとりで自分と向かい合うことは とうていできそうにないんだ……

と、恋人を誘い出すシーンから始まる歌詞。

その中には、卒後式に着たガウン、が出て来るから、おそらく、この6月にハイスクールを終えたばかりの若者なんだろうか。

最後、

さぁ、メアリー、車に乗り込んで

敗残者であふれたこの街を  僕らは出て行くんだ

勝利を手にするために……

スプリングスティーンのコンサートでは、歌詞を暗記した観客が、歌手と一緒に歌う、ってのが定番。

いかに詩が重んじられているか、ということの象徴でもありますが、2018年にはこの曲に啓発された同名の映画が公開されていることを知った。

亡くなった母親が、この曲がお気に入りだった、という設定らしい。

テーンエイジャーの頃に、ブルース スプリングスティーンにハマった母とは、米国式の、それこそ鉄板な世代論ですなぁ。

機会があれば、観てみましょうか。

では。

午後の殺戮。

……1920年に発表された詩がある。

草の  一本橋
あお空  高い
太鼓  たたいて
てんとうむし  渡れ。     ( by 都築 益世)

益世(1898~1983年)は、KO大学医学部卒のドクターだった詩人。

しかし、〈続きますよ〉とは、ずいぶんと人を食ったペンネームではありませんか。

てんとうむしが、葉の先までつたっていって、ついに行き場所がなくなると舞い立つ習性を観察して、はじめて生まれる視点。

ずいぶんと前に、日本の詩人は〈詠う〉ことをやめてしまったので、最近は、詩というものから力がなくなってしまった。

ところで、ここ10日ほど、ニジュウボシテントウムシを相手に、あまり勝ち目のない戦いを続けているのが、我が家。

ナスやトマトの葉を喰いつくす草食性の害虫として、目の仇となっている。

哀れにも葉脈ばかりが残るまでに、葉っぱをなめ尽くす。

家人などは午後ばかりでなく、朝昼晩と畑に出ると、一回で数十匹はひねりつぶしまくるのが、日課。

―この野郎、この野郎、とあまりお上品でない言葉を発しながら、この仕事に精を出す、殺戮の天使として生きている毎日、というわけ。

で、ナナツボシテントウのほうは、肉食性だからと見逃している、これまた、まことに勝手な、人間本位のお話。

こうなると、詩的な気分など微塵もないことです。

では。

オリンピックを観るか?

もともとがオリンピックにほとんど必要性を感じない僕であるので、観るかも知れないし、観ないかも知れない。

すくなくとも、楽しみに座して放送を待つ、ってことはなくて、時計がわりのTV画面を見つめる、あるいは、ハイライトをチラ見するくらいか。

ま、インフルエンザワクチン接種を、やってもやらなくともかまわない、と思うのと、同じような気持ちでいる。

ここへきて、観客を入れる入れない、といったことで騒がしいようだ。

で、サッカーの日程をみてみたら、会場は分散しているんだが、ゲーム終了時刻が、22:00 とか、23:00 が目白押し。
註:開始17:00とあるが、数ゲームがまとめて書かれてあって、最終ゲームの終了時刻のこと。

こうなると、観客の帰宅時間を考慮した国内リーグ等の運用ルールからは大きく逸脱していて、同じ日本で開催する同じスポーツ興行との整合性が取れない。

なんだったら超法規的な措置で、強引に有観客とする判断もあり、とは思う。

けれど、そもそも、観客を入れないとする根拠が、ただただ首都圏などにおける現下の感染増加傾向のようだけれど、ただ、それだけのことかいな?

上のようなゲーム時間の設定も含め、1年という時間があったにもかかわらず、催行方法の条件出しを、ほとんど真剣にやっていなかったことがうかがわれる。

時の過ぎ行くままに、成り行きまかせにやるんだったら、はじめからそうアナウンスしておけばいいのに、策も無いのにもったいぶるから、見苦しくなるわけで。

まさか、80年前戦争に突っ込んで行った時もこんな感じだったのか、とか疑ってしまうような白々しさが、なんとも辛い……。

ただし、たとえ国民の声に頬かむりしてもですよ、なんとかしてIOCとの約束を果そうとしている現政権を、僕は責めるつもりはない。

某国に対しては、国際的な約束事を守れ、と断固言い続けている立場であり、

なにせ一国のトップが仮装までして乗り込んだ調子づいたカラ騒ぎの結果としての招致なんだから、その尻ぬぐいはしなくてはなりません。

現首相の苦衷を思うと泣けてきます、まったく。

では。