初夏に ふたつの最期。

(時候の憶え、5/24 ヤマボウシの開花に気づく)

木洩れ陽、なんて言葉が、やけに頭の中をめぐっている初夏の日……。

やがて雨の来襲があるだろう、と予報は言っていた。

さてと。

いまから407年前の今日、大阪夏の陣が開戦した。(和暦で、慶長20年4月28日)

江戸幕府  vs  豊臣家、の合戦。

前年の冬の陣とその和議を通し、豊臣側の孤立と凋落は深まっていたから、羽柴宗家の行く末が、半ば見とおせていた戦いではあった。

両者の戦力を比較すると、江戸幕府方 165,000人。対し、豊臣氏陣営 55,000人。

相手の3倍の武装勢力をもって、しかも、外堀が埋められた大阪城を攻略するなんてのは、よほどの下手を踏まない限り、これに失敗するほうが、おかしい話。

事実、2日の戦闘で、豊臣方は敗れ去り、大阪城は炎上、落城した。

この合戦において、家康本陣に二度も肉薄し、家康に自害を覚悟させるくらいの奮戦をみせたのが、真田 信繁 (1567~1615) が指揮を執る真田隊であった。

しかし、あくまでゲリラ戦を敢行したかった信繁の思わくに狂いが生じてしまい、結局は、戦死により要員を減じて疲弊した真田隊は、やむなく退却することになる。

信繁は、撤退の途中、休息していた境内で討たれて、落命した。

享年49。

……、とまぁ、(実際に見てはいないけれど)巷間伝わっているのは、こんな概要。

この合戦に話が及ぶと、いつも、
紀州九度山に隠遁を命ぜられた身であった信繁が、(豊臣家の要請があったにせよ) どうして、戦いに身を投じたのだろう?、という問いが、いままでに、幾多の人々から、繰り返し投げかけられて来た。

実際、当時ならば既に老境の身分。

亡くなる3年前には (隠居) 出家しているんです、信繁は。

真の答えはご本人に訊いてみるしかないんでしょうが、それも、無理。

となれば、ありふれた言い方にはなるけれど、いづれは朽ちるこの身であるなら、それなりにふさわしいと思う死に場所を選んだのではないか?、と今の萬年、勝手に斟酌しております。

で、死に場所、と言えば、もうひとつ。

1954年5月25日 (いまから68年前)、北ベトナムは、ドアイタン近くの堤防で。

インドシナ戦争を取材していた ロバート キャパ (写真家 1913~1954)は、地雷を踏んで爆死した。14時55分のこと。

享年 40 でした。

では。