快挙の報に接して (松本山雅レディースの)

松本山雅レディースが、

皇后杯長野県代表を決めるゲーム(決勝戦)に勝利した、という朗報。

メンバーを観る限りだと、

20歳代を中心とした、社会人チーム

そこが、創部2年目で、長野県予選を制した、のは、

個々の技量と生活上の節制、それと、指導者に恵まれた賜物で、あったろう。

U-15の経験者であるなら、サッカーの基本は、かなり身についているはずであって、それが一番の強みか。

おそらく、このカテゴリーでは、最大のライバルは、いわゆる強豪の高校生チームと思われるが、

社会人となれば、学生の部活動よりかは、練習などの時間確保もむづかしいだろうし、生活のやり繰りをしながらの、この勝利には、価値がある。

さてと。

小林 陽介監督には、お逢いした時には最大限の感謝をお伝えするとして、

次は、リーグ戦でも闘っているチームとの対戦もあるだろう、

北信越大会が、今月31日から。

行けるところまでいって、この大会を楽しめ。

では。

いい加減さを,おそれるな。

サッカーナショナルチームは、スペイン代表に敗退した (0 – 3)ようだ。

フルも、ハイライトも観ていないが、スコアだけをあげつらえば、ワンサイドのゲーム。

読売新聞オンラインの記事タイトルが、

見た記憶がない「相手を背負うプレイでオフサイド」云々とあり、興味を惹かれてざっと読んだが、実に〈聡明な〉書きぶりに、感心してしまう。

〈見たことがない〉の表現でもって、ジャッジへの不満、疑問を、読者の心象に刷り込もうとするけれども、

文中のどこにも、VARが介入した、ジャッジの不適切なこと、疑問などは一切文字化していない。

まぁ、匂わせるが言質を取らせない、印象操作の巧みさ、これぞ、プロの仕事です(署名入り)。

パスがでた瞬間、日本FWの右足の一部(かかと)が、後方に背負ったスペインディフェンダーの身体よりか、ゴールに近くにあった、ということ。

非常に酷な言い方をすれば、フォワードとしての迂闊。

その体勢が、〈待ち伏せ〉の意図が皆無であっても、ルール イズ ルールの前には抗弁できまい。

いづれにせよ、

現行ルールに照らせば、観ていて、すかさず介入したVARは当然の仕事、とされるべき、と思う。

……僕は、オフサイドを取られた側も、採った側も責めはしない。

要は、サッカーとは、もともと〈いい加減な〉ものが紛れざるを得ない競技、と皆が認めていることは間違いなくて、

そういうグレーゾーン(人間の視力の限界)と、VARという、絶対的な定規が共存することに、そもそも、紛糾のタネが仕込まれている。

あれだけ接触プレイが連続するなかで、ファール、非ファールを一瞬にして選別しなくてはならないとしたら、

不完全な〈人間の眼〉のみでジャッジしたほうが、一貫性はあります。 

でも、一旦導入してしまったものは、後戻りもできず、このまま事あるごとに、論争を繰り返すしかないでしょうね。

テニスにしたって、

プレイヤーのチャレンジによって、ジャッジによるインアウトがくつがえることはあっても、

それが誤審とは責められないし、チャレンジしなければ、そのまま過ぎ去るではありませぬか。

いい加減とは、もともと、良い!!加減なのだから。

では。

Don’t Think Twice , It’s All Right (1963年)

ボブ ディランが、61年前に発表した曲。

日本発売では、タイトル(英語)を、〈くよくよするなよ〉と変えてある。

二度思案するな、それでいいさ、って感じか。

破局した恋人に向かい、未練、皮肉を込めて、けれど、まぁ、自分は自分で生きていくよ、と見栄を切るような内容の歌詞。

その曲を、

半世紀を超えて今、20代の才能が、飾り気もなく、素直に歌って魅せると、こうなる。

ビリー ストリングス(1992~ )というのは、ずいぶんと人を喰った芸名ですけどね。

では。

山雅やま部を,ひそかに応援する。

たまあに見舞っていた(寝たきりだった)、中学時代に担任だった御方が、この6月に亡くなった。

訪問の約束をとろうと電話して、そのご逝去を知った。

ご自宅に弔問にうかがい、遺骨を前に、奥様と、亡き人の想い出など話す中、

― わたしね、蟻(あり)高の山岳部だったのよ、とおっしゃる。

なるほどね。

故人は、大町山岳博物館長を務めたくらいに、

山々や、高山植物には造詣が深かったから、初耳ではあったが、連れ添う女性との出会いが、なんだか鮮烈に、腑に落ちた。

ただし、僕自身は、師に違背したわけでもないが、

登山を趣味にすることもなく今日まで至る。

ま、今の住処と暮しが、玄関を一歩出たら、即、高原のようなものだから、

庭にシート敷いて寝っ転がれば、それが、そのままアウトドアアクティビティさ、と広言している。

たとえ、ちょっと近くの野山に出かけるにしても、アウトドアの本質とは、

〈何を持っていかないか、または、何を捨てて自然に入っていくか〉に在ると思っているので、

快適で、至れり尽くせりの道具に囲まれた活動には、無縁でいたい。

で。

この度の、山雅やま部 (登山部ではない) の発足。

その趣旨には、したがって、おおいに賛成。

けれど、独行好みの萬年ゆえに、秘かに応援することになりそう。

では。

TV画面よ,TVよ (パリの憂鬱)

始まってみて、思い知ったけれど、

毎朝、TV画面がもはや、出勤前の時計がわり、とならない。

パリでやってるオリンピック中継に番組が占拠されていて、現在時刻がつかめないのだ。

……この不都合が、しばらく続くのは、どうしようもないか。

サッカーは、フルタイムのゲームを観るほど興味が湧かないけれど、

ハイライトシーンは、自然と、眼に飛び込んでくる。

男女ともに、グッドゲームを闘っているようだから、喜ばしいことだ。

僕が、特に印象深いのは、

男子の場合だと、23歳を超えるプレイヤーを何人か使える制度(オーヴァーエイジ枠)があるはずだけれど、

今回のナショナルチームは、そんな、ケチな手段を採用していないらしいこと。

ゲームの勝敗そのものより、OA非招集に、

世代を追ってタレントが次々と出現している事実が証明されていて、嬉しくなります。

(といっても、もしも戦績が芳しくなければ、メディアは、非招集の責を追及するんだろうから、なんとも)

ついでに、女性の、対ブラジル戦のハイライトを覗くと、

ゲーム終盤に、絶妙なロングシュートが決まっての勝利(しかも逆転)。

サッカー人生にあって、そうは(2度と?)ないような美しいゴールだろうが、

決めた時間帯などから、これを観て、

最後まで諦めない好見本、みたいな言いようが予想される。

けれど、おそらく。

プレイヤーは、引き分け(ゲームプランとして)で終わろうとしていない限りは、笛が鳴るまでは、勝つために闘っているわけだから、

諦めずに観ていて良かった、という観戦者の感情を投影するあまり

あたかも、それを、やっている者の(必死な)心理として表現するのは、いかがなものか?

こういうのは、原因と結果の法則、の吟味されない当てはめ、に過ぎないから、事実の歪曲にも、つながりかねない。

まぁ、しかし。

すべてのプレイヤー達には、ゲームに没頭できる限り、時間を楽しんでもらいたい。

あいも変わらぬ、メディアの〈メダル病〉的な報道など、どこ吹く風で。

では。