この春を 忘れない。

― あれは、梅でもなくて、やっぱり桜なんだ……。

沿道で、花をつけている樹を眺めては、我ながら間抜けな自問自答をしている。

3月の末、そこそこ満開な櫻花を観るのは、静岡や山梨での話、と思っていたので、どうしてもにわかに信じられないでいる。

今年は稀有な春だった、とせいぜい憶えておこう。

おかげで、西行(1118 ~ 1190年)の短歌が、当地でも同じ季節感で味わえた。

    ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ

『山家集』(巻上 春) に収められている。
詞書は、花の歌あまたよみけるに、とあり、桜を詠んだ多数の中にある一首。
(当時、和歌の世界で、ただ花といったら、桜を指した)

読みやすいように濁点などを振って、訳すと……、

    願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月のころ

(できることならば、桜の花の下、春に死んでいきたいものだ、如月(二月)の満月の頃に)

西行は、文治6年2月16日(1190年3月31日)に亡くなった。

まさに、この歌に詠んだとおりの往生は、当時の学芸世界の住人に、かなりの感動を呼び起こした。たとえば、藤原 定家とか。

大げさにいえば、文学史上の奇跡、であったわけです。

なお、昨晩は、薄曇りの中、満月の翌々日の月(居待月)がぼうっ、と浮かんでおりましたよ。

西行の没後、ちょうど831年が過ぎたその夜は。

※西行と同じ年に生まれたのが平 清盛と憶えておくと時代感がわかりやすいか。清盛は西行よりも9年早く亡くなった。

では。

ひと粒で 二度おいしい理由。

― かならず二度楽しめること、それはなにか?

答えは、孫の来訪、というのが、萬年式ナゾナゾだ。

子の子、すなわち孫は、来ても嬉しく、帰って行く時もまた、嬉しいもの。

そのワケは敢えて言わないけれど、実感をお持ちの読者諸氏は多い、と思う。

ある日、5歳になった孫に、ナゾナゾ遊びを仕掛けてみた。

― 道端に、赤い顔をして立っていて、葉書を食べてしまうものは?

こういうのは、説明を加えながら、正解にたどりつくことができる。

次に、

― 大きいものは入れて、小さいものは入れないものは?

と言いかけ、途中で言葉を飲み込んでしまう。

正解は〈蚊帳〉なんだが、きょう日、とても使えないネタなことに気づく。

ナゾナゾの古典も、いまや風前の灯だ。

では。

水は運べるんだから (2021.3.28 水戸戦レビュウ)

0 – 3 の敗戦。

来客があったり、荷物の搬出があったりする中で、DAZNの画面をちょいちょいと観る、そんな慌ただしさとなった。

前半は、なかなかの出来ではないか、風を利することができる後半が楽しみだわい、と思っていた。

しばらくして戻ってみたら、なんと、ペナルティスポットにボールが置いてあって、その向こうに圍 謙太朗が構えているではないか!

77分の失点。
水戸がボールを右サイドに散らしておいて、受けたプレイヤーが、駆け上がって来るサイドバックに渡すタイミングをみているのが自明な攻撃。

そこ、外側からクロスを入れるであろうプレイヤーに、誰も詰めに行かないの?、と思っていたら、案の定。
フリーで中に入れられて、失点。
この2点目が、ゲームの帰趨を決定づけました。

必死に両手で掬い取ろうとしていた勝ちが、無残に抜け落ちる、そんな感覚。

運動量をいとわない、献身的な中盤、つまり、有能な、水を運ぶ者はいるんだから、詰めるべきは、ペナルティエリアのラインにまで、ボールが到達した時。

シュートなのか、セカンドボールを予測したアプローチなのか、シュートを打たせるお膳立て(シュートコースを開けること)なのか。

最終の直前、黒子は誰が担うのか。

たとえば、岩間 雄大のような存在を、誰が引き受けるのか、割り当てるのか。

3分2敗。

こうなると、この世の常で、どうしてもネガティヴな雑音も湧いてくるが、チーム山雅はどうかギスギスせず、着手したことに突き進むのみ。

前 貴之の負傷もあまり重篤でないようであるし、橋内 優也は復帰できたし、さらに、平川 怜はインテンシティを有することがわかったし、篠原 弘次郎のロングフィードは、シャープで気が利いている。

その意味で、ターニングポイントのゲームなのかも知れませんよ、後から振り返った時には。

では。

道 についての雑感。

ここ数日来、せいぜいその内容はハイライト映像で観るくらいなんだが、大量得点ゲームの報せが多い。

大宮 4 : 長崎 0 (3/27)
新潟 7 : 東京ヴェルディ 0 (3/27)

これらは、同じリーグの話ゆえに、けっこう胸が高鳴るけれど、むしろ大量失点した側の心情が思いやられてしまう。

海外に目を向けると、リーガ エスパニョラ (スペイン1部)では、

レアル ソシエダ 1 : FCバルセロナ 6 (3/21)

ダビド シルヴァを擁し5位あたりで健闘しているソシエダがまさか、とは思ったが、このゲーム、シルバはベンチ入りさえしていなかった。

6点も獲れば、最後のほうは得点時のセレブレーションはごく醒めたものになるもんだが、全員がきっかりとひとつに集まってくる律義さ。

入れて当然、といったスタープレイヤーの驕りを、全く感じさせないバルサには、感動する。

こういうゲームが気にかかるのは、おそらく得点産出に苦しむ我がチームのことが、抜けないトゲのように、いつもココロの底に在るからだ、きっと。

4~5年来ずっと、得点の乏しい山雅であるから、ここへ来てことさら気にすることでもないはずだが、〈新生〉に、いつかしら得点力の向上、を勝手に描き込んでいる自分がいる。

本日のアウェイ水戸戦にしたって、自分を失わずに平常心でプレイすれば良く、出口の勝敗をあれこれ気にするな、とチームには申し上げたい。

雨中、水戸へ出向くチームとファンサポーターには、心から感謝します。

こんなことを寝転がって考えていたら、ちょうど今から100年前に書かれた短編の末尾が、胸に去来した。

〈希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る〉(『故郷』魯迅  井上紅梅 訳)

では。

その後方を攻略せよ (水戸戦プレビュウ)

〈懐かしき日々よ〉
ホーリーホックとは、いままでに、14回対戦して 8勝5分1敗。

たった一度の負けは、2017年6月11日のホームゲーム。

水戸には、前田 大然がレンタル契約上ピッチに立てないハンディもあって、山雅が放ったシュート20本は、相手の倍。ボール保持はこちらが 56%だった。
けれど、たったひとつのセットプレイから失点して、0 – 1の敗戦。

……、それから4年の歳月が流れ、あの日ピッチにいた山雅戦士は、(出場機会があれば) 田中 隼磨と橋内 優也のふたり。

むしろ、当日水戸戦士として先発した、佐藤 和弘、外山 凌、浜崎 拓磨の3人が、いまや山雅のユニフォームを纏ってプレイするかも知れない、ってことに、なんとも感慨は深い。

ただし、ゲームの様相は、決してあの日には決して帰れないものとなるだろう。

〈水戸攻撃の ダイナモは?〉
ホーリーホックは、4 – 1 – 2 – 3 の布陣を採る。

4バックの前に、アンカーを基底にして逆三角形の格好で、3人の中盤。
そのまた前のトップには、フォワードが3人、ピッチに開く。

攻撃的な体勢を、モットーとする感ありの、水戸。

となると、どうしても、まづは3トップに目が行きがちになる。

もちろん最前線の強力さは間違いないが、攻撃を厚く、迫力あるものに仕立てているのは、実は、中盤3人に負うところが大きい。

攻撃時、この3人は連携を取りながら、グッと上がってくる。
まるで、フォワードの枚数が 5~6枚くらいになったように……。

さらに、これに連動して、サイドバックも猛進してくるので、センターバックふたりを残して、あとはすべて攻撃参加、といった趣き。

3トップは、横一線でなく、斜めに位置を取る。
おそらくは、相手守備を交わして、パスが通せるようにする狙いからだ。

互いの距離感さえ巧く保てれば、素早く、かつボール配球の選択肢を多くして、相手ゴールに迫れる、という寸法。

〈水戸の中盤後方を 攻略せよ〉
攻撃時は、まるで3トップをも追い越すように突進、で、守備にまわるとセンターバックをフォローするために背走。
水戸中盤は、基底ラインと最前線の間を、実に精力的に行ったり来たりする。

前節の千葉ほど露骨ではないにせよ、ボール保持にそれほどこだわらない水戸ならば、こちらがボールを持って組み立てるシーンを起点、と考えよう。

水戸がボール奪取に出て来る時とは、すなわち、その中盤が競り上がって来る場面だ。

この時に、相手中盤の後方、すなわち、センターバックの前、あるいは左右両端に生まれるスペースを狙うのだ。

そのためには、ワントップ(阪野)にして、2列目に、河合、佐藤、前の3人を並べれば、かなりの機動性が確保できると思います。
サイドは、外山(左)、表原 or 田中パウロ(右)とし、アンカーに平川。
そして、3バックの、3 – 3 – 3 – 1 といった塩梅に。

相手3トップに、こちらは3バック。

となれば、同数対決といった守備面での切実さ、辛さはあるけれど、とにかく、まづは得点しなくちゃあ勝利できないのだ。

前節の宿題を片付けつつ、活路を見い出して進むとなれば、これでいかがなものでしょうか?

では。