狩った、克った、勝った (2020.10.25 北九州戦レビュウ)

ミクスタのバックスタンドの向こう、湾を隔てたちょうどあのあたりに、ジョー氏の生家があるんだ。

コイントスに勝ったセルジ―ニョは、逆光を嫌ってエンドを変えたね、と思いながら、DAZNの、あまり調子よくない画面を眺めておりました。

さて、ゲーム。
前半の終り際に、塚川が叩き込んだゴールを守りきって、1 – 0 の勝利。

〈ひたすら狩りまくることが奏功〉
予想どおり、前節の先発メンバーをひとり入れ替え、(塚川先発で)より攻撃的な特性を強めて、ゲームに臨んだ山雅。

前節大宮に勝ち切れなかった宿題を、次節まで一週間が空く日程(余裕)を考えて、どうしても同じメンバーで書き上げてしまうんだ。
―やっぱりこうでなくちゃあ、いけませんよ。
今節の柴田山雅であれば。

小林ギラバンツの特長は、ボール離れを速くして、小気味よくゴールに迫る潔癖さであって、そこには相対的に弱い各個の力を、連携でカヴァーしようという計算が潜む。

対し、山雅は、2列目(中盤)に、狩人(佐藤、前、塚川)を配す。
しかも、このうちのひとりが前線に飛び出していって、北九州の基底(最終ライン)にボールがある時点で、圧力をかけ続ける策に打って出た。
相手のセンターバック2人に対し、3トップ気味にして数的優位をつくり出しながら。

前半、北九州のディフェンスラインは喰いついてくる山雅最前線の強烈な追いかけまわしにいっぱいいっぱいとなって、有機的なパスを供給できない。

この策が上手く機能し、ギラバンツの守から攻への切り替えを高い位置でことごとく遅らせ、なおかつ、中盤でのボール奪取に成功する。

塚川の得点も、たしか、前が相手からボールを奪ったところが起点だった。

〈後半のガス欠も想定内〉
とにかく、はじめから攻撃的に飛ばす、が至上命題だったはず。

ゆえに、足が止まり始めた70分過ぎになって、5 – 4 – 1 の陣形を組んでガチガチに守る局面へと舵を切ったのも、やむなしだろう。

正直に自身の現在地を認めて、いちばんほしい〈勝ち〉を獲りに行くことが大事だったのだから。

それぞれのポジションにあって、連携において各プレイヤーが自分のチャレンジに打ち克った、そこが収穫。
それによって、個の技量が、すなおに表現されるようになりますしね。

繰り返しますが、こういう作戦が巧くいくのには、やはり最終ラインの強化と安定があればこその話。
(自陣空中戦勝率100%を、特筆します)
そこを忘れちゃあいけません。


〈ベンチマークの深化〉

前と佐藤を補強、活用することで見出し得た、このスタイル。
次節からは、ここに何を上手く加えていって、畳みかける得点力をまとうのか?、これがテーマでありましょう。

では。

ひたすら先手で攻めよ! (北九州戦プレビュウ)

〈あれもこれもの時間は もう無い〉
リーグ戦も、前節で3分の2を消化した。

本日は、ギラヴァンツ北九州とアウェイの地で対戦だ。

お恥ずかしいが、萬年いよいよズボラになり果て、公式ハイライト映像、それも京都サンガFCによるものを観て、適当に書く、という有り様。

というのも、リーグ戦の局面は、善戦(good fight)などはもはや必要とせず、ひたすら勝つべし、というところへ突入しているからだ。
山雅にとっては。

残り3分の1、今季の通知簿の内容をでき得る限りマトモにしなければならず、
しかも来季へと糧を残さなければならず、そのためには勝利こそほしけれ、となるわけ。

まだ次の監督も決まっちゃいないけれど、2020シーズン、すこしでも上等に帯を巻くこと。

チマチマと勝ち点1を積んではいるが、そんなでは、テイク オフする前に滑走路が尽きてしまうぞ。

で、勝つためには、(相手よりも1点でも多く) ゴールを挙げなくてはならぬ。

捨て鉢になっているわけではないが、いくら無失点で堪えてみたところで、胸はもう張れない。

〈ひたすら攻撃的であれ〉
先制点を与えることはとっくにお馴染みの光景なんだから、たとえ先制されてもひっくり返す意思と戦略、これに専念しようではないか。

ゆえに、北九州の、一途にやり切る攻撃への対処に汲々としないで、みづからの攻撃を、より意図的に鋭利なものにすることに傾注だ。

前節の大宮は、凋落の匂いさえあった。
ゆえにあれだけボールを持てて、パスも積めたけれど、今節は、そんなに巧くはいくはずもない。

かっきり構築された守備網の周りを、足元へのパスをいくら繋いでみてもおそらくは詮無くて、パスを入れるにしても、スピードダウンしない攻撃、これに特化しよう。
相手の陣形が整うまえにフィニッシュしてしまうということ。

パスサッカーに挑んでいる看板を下げろとは、もちろん言いませんけれど、ワンタッチによる意表性、そこだけは外さないでお願いしますよ。

連戦も今節で一区切り。
ならば、できうる限り前節のメンツでやれば勝てる、それを証明するぐらいの気概を望みますね。
注文をつけるとしたら、前 貴之は冒頭からサイドバックに配し、シャドウに鈴木 雄斗を置くほうがいいのでは?

相手のファーストGK(永井 堅吾)が契約上不在であることを最大限に衝くのが眼目でしょう。

では。

むしろ有害、街の声。

〈ヤラセ〉という捏造(デッチあげ)の問題が起こるたんび、槍玉にあがったメディアの言いわけは、誤解を与えるような〈過剰な演出〉がありました、が決まり文句だ。

これって、演出がかならず在ることを認めているんだが、では、どのくらいやれば過剰となるのか? が示されたためしがない。

観る側にしたところで、事前にいろいろと打ち合わせがあって、不都合な映像や言動はカットされてんだろうぐらいに思っているから、あたかも実際そのままのように見せた〈嘘〉を、発信側と受信側の双方が楽しんでいる、と済ませてしまうのが賢明に思われる。

だいたいが、カメラを従えた若いのが、「NHKですが……」と突然玄関先に現われたら、やぁ、これは、これは、いつもお世話になります、とウエルカムするはずがない。

これだけダマシのテクニックが、周囲に転がっている当世だというのに。

あとひとつ。
主にニュース番組などで、街頭でマイクを突きつけられて意見を求められるシーン。
街の声を聞きました、とか前置きが入るやつだ。

あれこそ、メディアによる、巧妙な、出来事/事件/事故についての心象操作に違いない。

素人が、素人なりに感じていることが暗示され、そこには切り捨てられたさまざまな意見があったことなど、考える間もなく過ぎ去るしくみになっている。

そもそも制作側が望む意見が採用されるに決まっているんだろうし、街の声こそ要らないわ、といつも思う。

そうか、そういう考えもあるのか!、とハッとする意見になど、お目にかかったことないでしょう?

人の命が傷つけられた凶悪な犯罪が起こると、近隣の住人と但し書きされた、胸から下だけが映り、時々見かけたけれど、ふつうに挨拶する人でしたよ、とか喋っている。

そりゃ、そうでしょうよ、たいして関心もない他人だったんだろうし、犯罪者だって挨拶はするだろうし。

何時こういうことが起こってもおかしくない、とあたしゃ思ってましたよ、というインタビュウに是非お目にかかりたいものだ。

でもね最近、ついにやったか、やっぱりねぇ、といった人殺しの未遂事件がありまして、また別の機会にご紹介します。

では。

俺たちの最後『許されざる者』(1992年)

クリント イーストウッドによる、主演/監督の西部劇。

〈あらすじ〉
妻を亡くした初老の男。
50歳を過ぎての結婚だったから、ふたりの子はまだ幼く、このまま農作を続けてみても、貧困からは抜け出せないだろうとの焦燥。

そこへ賞金稼ぎの話が舞い込んで、かつてのアウトローの本性がよみがえる。
昔の悪業仲間(モーガン フリーマン)を誘い込むと、私的制裁(リンチ)もいとわない辣腕保安官(ジーン ハックマン)が牛耳る街へと、やって来た……。

悪人の首に懸賞金をかけたのは、この街の娼婦たち。
仲間のひとりが顔を切り裂かれた犯行の、処罰もなぁなぁだったことへの怒りと抗議のゆえだった。

年老いて身のこなしも衰えた主人公、無様な苦労を重ねるが、けれど、
さすがに、かつては鳴らしたガンさばき。
相棒を殺害した保安官一味を一掃すると、もちろん、懸賞金を手に入れて街を去っていく、というストーリイ。

当時、イーストウッドは 62歳。
著作権を買い取っておいて、主人公と同じような齢になるのを待っての、作品化らしい。

生来のしゃがれ声と、まぶしそうに細める眼が、男の加齢感に上手くハマった。
狙いどおりの演出効果と言えよう。

許されざる者 (Unforgiven) とは、結局、主人公をも含めたアウトロー(無法者)すべてを言ってるんだろうが、イーストウッドによる、俺はこの齢になったから、もう西部劇とは手を切るんだ宣言、とみなして良い。

ところで、この作品評に、西部劇の虚飾をはぎ取った名作、とあったがそれは言い過ぎというもんだ。

西部劇にはすでに、『真昼の決闘』(1952年)の頃から、銃による統治といった米国社会を痛みとか、歪みとして批判してみせることで、カタルシスを仕込まれて作られている。

(作品に接しての浄化作用はあるだろうけれど、米国社会が銃を捨てることは決してなかった)

『シェーン』(1953年) 然り、『明日に向かって撃て』(1969年)も、また然り。

もしも、『許されざる者』が真に西部劇の虚飾をはぎ取った作物だったとしたら、1993年度オスカーをあれだけ(作品、監督、助演男優,編集) 獲っているはずがなかろう。
※主演男優にもノミネートされたが、賞は『セントオブウーマン』のアルパチーノがモノにした

イーストウッドが西部劇とおさらばする、その功労の含みがある受賞であったにせよ、もしも、この作品が、米国人がアメリカの恥部を不快に描いたと感じさせるものであったら、オスカーなど与えられなかった、と思う。

たとえば、『ダーティーハリー』(1971年) のように……。

ゆえに、この作品は、ごく正統な西部劇なのだ。

そして、これからも、米国のフロンティア時代を、皮肉りながら回想するような西部劇は、いくらでも撮られるに違いない。

おそらくは、米国がその成り立ちを見つめたくなった時に応じて。

でも、そんなことにお構いなしに、この作品は観る価値を持つ。

イーストウッド、ハックマン、フリーマン、そしてエド ハリスといった面々が総出で、自分たちが演じてきた西部劇をみづからの手で埋葬した、ということにおいて。

では。

これで勝てなきゃどうするの? (2020.10.21大宮戦レビュウ)

1 – 1。やっと追いついてのドローゲーム。


頂を忘れるな (徳本峠2,135mより望む穂高連峰2020年10月撮影 版権所属:オフィスウエストウッド)

〈これこそ猛省ものでしょう〉
❶現状考えられるベストのメンバー。(ゆえに交代カードを全て切らず)

❷途中加入の前 貴之(シャドウ→後でサイドバックへ配転)、佐藤 和弘(アンカー)がほぼ申し分なくフィットしてしまった。

❸塚川 孝輝の攻撃性が、チームに帰還。

❹危ない場面はあったものの(サッカーは本来そういう局面が入り交ざる)、そこそこ攻撃にかける時間は持てた。
ディフェンスラインの落ち着きがその根底にはあり。

❺攻撃の方策が整理されてきて、シュートは 久々の16本。

❻ボールを持てた分、さらに気候的にエネルギー消耗が少なかったせいか、後半もパフォーマンスにかげりがあまりなかった。

以上のことから、ホンネは、見出しのとおり。

このメンツ、ゲームの様相、対戦相手の迫力からすれば、これで勝ち点 3 を手中にできなければ、なにをか言わんや。

いまだボールを手放したい、逃げの気持ちが垣間見えるのはどうしたものか?
手中にしたら常に突破をもくろむ者、あるいは、もらいたくてうずうずしている者よ、もっと出てこい。

ただし、今季のテイタラクにつきあってここまで来ると、当方にも変な耐性がそなわっちゃたったから、まぁ、こんなもんかな、で終わってしまうんですよね。

前と佐藤の加入が吉と出たから、良しとするか?、などと言い聞かせて……。


〈時の流れはかくもチームを変える〉

しかし、観衆の臨場感、スタジアムの熱気はべつにしても、
山雅 vs 大宮、2年前に比ぶればなんとまぁ、それなりのチーム同士の対戦に落ち着いてしまったことか、と感慨深く観ておりました。

昨夜のゲーム、このリーグにあってそれほど凡庸なゲームではなかったが、けれど、両チームに備わる迫力が、かつてより数段落ちている。

特に、アルディージャ、守備はもともと褒められたもんじゃあなかったが、攻撃面が格段に恐ろしくなくなった。
メンツなのか、戦法なのか?
喰いつかせておいて裏(中央またはサイド)をとる、あるいはカウンター攻撃、こういう明確さはわかるけれど、なにしろ脅威に欠けた。
イバも強いが、新鮮味が乏しいし、黒川 淳史は思ったほど目立たないし。
#10背負ってあれじゃ、まさか本人も満足してはいまい。

結局は自分の心の中、どうやってゲーム評価の落としどころを捜そうか?、と悩むことがいちばんしんどい。

それと、しんどいついでに指摘しておくが、主審のジャッジの笛が遅すぎたのには、閉口。
この人どうやら、ファールかどうかを、プレイヤーの倒れ方や痛がり方で判断しているんだろう。
アルディージャのほうがたんと痛がっていて、これも戦略だったに違いない。

こういうのはご勘弁願いたいな、まったく。

では。