1920年よ 自らを誇れ。

1920 (大正9)年に生まれたのが、原 節子(~2015) と三船 敏郎(~1997)。

ゆえに、この年に、日本映画は、おおいに感謝すべきなのだ。

昨年は、彼らの生誕100年だった。

記念上映のプログラムも行われたようだが、COVID-19禍によって、世間に周知されるほどには話題になっていない(残念)。

ふたりが共演した作品は、四つある。

『白痴』(1951年)、『東京の恋人』(1952年)、『愛情の決算』(1956年)、『日本誕生』(1959年)が、それ。

先日、そのうちの一本、『東京の恋人』を家で観た。

敗戦からたった数年、銀座もすこし裏へまわると瓦礫が残るような東京だけれど、人々はなかなかに洒落た服装をしていて、そのことが、家人にとっては驚きだったようだ。

これひとつ採っても、先の大戦(とその敗戦)の意味が、戦後生まれの僕らにはどうもよく実感されていない、ってことが、今頃になって痛感される。

この戦争で、日本の何が死んで、何が生き残ったのか、そして、生き残るべきものは何だったのか、ということ。

その意味で、僕らの親たちの世代は、あの戦争を上手く伝えきれなかったように思う。

戦争は悲惨なり、ばかり。
加えて、教師からは、長き侵略戦争と平和主義一辺倒の話しかなかった。

責めちゃあいないけれどね。

閑話休題。

この映画、ほろ苦いラブロマンスなんだが、三船のいかにも実直な役作りと、原の、生成りな演技が心に残った。

特に、原という女優の良さが、萬年が観た作品中では、いちばん伝わってくる。

ほかには、小泉 博(1926~2015)という役者の価値。

それに、十朱久雄(1908~1985、十朱 幸代の父) の芸の根源は、ありゃ、落語の間(会話の妙)だね、ということがよくわかった。

『荒城の月』や、跳ね上げ式の勝鬨橋が効果的に使われていて、丁寧な脚本に親しみが涌く。

東京の郊外(山の手)の、空襲による無残な跡地に、月がボーっと上がる光景。

それが、あんなにおとぎ話のように美しいのは、何故なんだろうか?

では。

球には、勇気凛々、

単純明快に、気力みなぎって前向きでありたいものだ。

ナンノ、ナンノ、クボ、クボ、とやたらメディアが騒がしい。

けれど、冷静に見つめてご覧な。

ミナミノは、なんだかんだのベンチ要員に甘んじ、タケフサは、リーガ エスパニョ―ラは1部でも、13位あたりのチーム(ヘタフェ)で、そこそこ出場機会を得ているに過ぎないのだ。

いくらスペインリーグといったところで、中位以下のチームのゲームを観れば、クオリティーで J1のそれをたいして上回ってもいない。

しかも、第20節、タケフサのヘタフェは、アスレティック ビルバオ(9位)と対戦して、1 – 5 と大敗。

きっと日本のメディアは、タケフサが得点に絡んだぞ!、とばかり報道するんだろう。
そして、申し訳程度に、なお、試合は、5 – 1でビルバオが勝利しています、とスラっと付け加える。

ヒーローやヒロインが出てくれば、それでご飯が食べやすくなるから、メディアがヨイショするのは理解できなくもないけれど、そういう大騒ぎが、かならずしもサッカー愛だとは、決して思わない。

ヒーローはみづから現われるもの。君らが大言壮語で創り出すものでもない。

……で、愚痴ばかりだと楽しくないので、背筋がスッと伸びる様な曲を聴いて、同時に、チャントを封印されているうっぷんも晴らそう。

ジョー氏には、アンサーソングとしての『五番街のマリーへ』(1973年)を紹介したことがあるが、萬年、この旋律に、どうしても『ロッホ ローモンド』(スコットランド俗謡)が想い出されてならない。

なお、『Red Is The Rose』は、ロッホ ローモンドの替え歌。

では。

【秘話】東京五輪を人質にとれ

〈かつてからの萬年の主張〉
もうオリンピックという壮大な浪費は、ヤメにしたらどうか?

しかも、ナショナリズムを殊更に煽ってどうする。

どうしてもやりたければ、開催地固定で十分、それで経費も抑えれらるし。
名乗りを挙げ、ゼニをかけての誘致競争など、調子づいた見世物だ。

〈潜行するプランとは〉
一年先送りしたものの、COVID-19蔓延の状況下、とてもじゃあないが開催できないから、中止にすべき、という議論があちこち湧き起こっている。

日本医師会(=政治的な圧力団体)も、おら、知らね、と言い出した。

そんな中、日本政府や実行組織の幹部が、あくまで開催準備を怠りなくやる、と発言するので、一斉に反論、批判の集中砲火となる。

実は、こういう批判の高まりこそ、政府の思うつぼであり、その狙っているところ。
裏で手を回して、医師会にも悲観論を発言してもらっているのだ。

演説や会見の揚げ足取りばかり、さも、支持率が政権の生命線のごとくに吹聴する、アホなメディアには、この件、中止、中止と騒がせておけ。

もちろん、某公共放送には、五輪を目指すアスリート特番をさかんに打つよう、総務省をとおして手配を怠らない。

惜しむらくは、東京都トップが、あまり開催決意をアピールしないことか。

やりたくもない緊急事態宣言を発令して尻ぬぐいしてやったんだから、その義理を果たせ、と電話しないと。

東京(と日本国)の立場からすると、止めるなら、あくまで〈返上〉というのがスジ。
中止うんぬんは、国際オリンピック委員会が決済する権限を持つはず。

で、日本としては現状、安全な開催には自信のカケラもないのがホンネ。

数万人規模の渡航者の監視手続きと収容などは、非現実的だ。

けれどですよ、ここで自分から返上を言い出してしまうと、膨大なお金が動く権益構造のゆえに、中止による多額の賠償を引き受けなければならない。

ならば、最後まで決して音を上げずにこのまま進み、IOC自身に、残念ながら開催が不可です、を言わせねばならない。

リーダーたちの、一見優柔不断、硬直的な発言は、こういう青写真の存在のほかに説明のしようがない。

あなたが日本国民なら、かような秘匿のストーリーをキチンと理解したうえで、あたかもそれを知らぬかのように、行動しなくてはいけませんぞ。

でないと、更なる税金を、この茶番に投入しなくてはならないのだ。

なお、ここだけの極秘話なんだが、
開催国として、あくまで万全の体制をつくるので、ワクチンを日本に優先的に回せ、と裏交渉していることも付記しておこう。

五輪を人質にして権益を引きこもうとは、したたかな外交ではないか。

こんなこと、老いた君の母さんだって、知ってるはず。

では。

恐怖のレントゲン。

 

メンテナンスなどで、定期的に歯医者にお世話になっている。

診察室の椅子に座るたんび、
―痛くさえなければ、それこそ、どんなことをしてもらってもかまいませんから、と言うので、呆れられている。

生活習慣病予防健診を受ける時期が迫ると、歯医者の予約日と同じように、だいぶ気分が滅入ってしまうのは、なぜなんだろうか。

前回の健診の時のこと。

自分の名が呼ばれたので前のほうに出て行くと、中年の男性が、満面にこやかな笑顔をたたえながら、

―は~い、〇〇さん、恐怖のレントゲンです。

おいおい、冗談にもほどがあるだろう、と一瞬思ったがすぐに、そうか、胸部のレントゲンのことね。

採決時の、チクっとしますよにも、いやいやのココロは、ふと耳に入る言葉にも過敏に反応するらしい。

では。

挑発には 報え (レアンドロ ぺレイラ移籍)

今季も、ゴール裏で掲げるつもり、某選手のゲートフラッグ。

そのユニフォーム部分を、2021仕様に塗り直して完成させた。

準備も、あとは、オーセンティックユニフォームくらいか……。

実は、ホームのデザインがかなり気に入らなくて、購入をためらっている。
どうしても、ということならば、アウェイだろうな。

たとえば、アスレチック バルビオ(スペイン1部)のユニフォームを、ご覧あれ。

赤白のストライプで、ブラックのパンツとあわせて、100年間ほとんど不動だ。

毎シーズンの変化は、ストライプの太さ(本数)、襟スタイル、ストッキングの差し色の入れ方、といったごく細部のみ。

我が山雅も、毎季ほとんど違いがわからないくらいの路線でいけば良い、と思っている。

それでこそ、100年構想のクラブでありましょう。

萬年の押しは、クラブ創設時に戻って、緑と白の縦ストライプとすること。

ホームはほぼ不変にして、お遊びならば、アウェイ用でやってもらいたい。

自動車のデザインなどもそうだけれど、日本人はとっかえひっかえが早すぎる。

さて、ついに、クラブ公式で、レアンドロ ぺレイラがガンバ大阪に完全移籍することが発表された(1/22)。
結局は、クラブ予算50億円超のところが争奪戦を制する、ってわけだ。

ぺレイラを活かせなかった山雅が、どうこう言えることでもないか。

前々からの報道があったから、今さら感が否めないが、コメントが洒落ていて気に入った。

J1のステージ、アルウィンで山雅と対戦する、それがぺレイラドリーム、だと。

たとえ、リップサーヴィスであったにせよ、こういう挑発に報うためにも奮戦だ。

来年、その対戦が実現するように。

では。