サイドの攻防が 鍵。 (ツエ―ゲン戦プレビュウ)


勝利の果実を味わえるのは、両者のいづれ?

【ツエ―ゲンの現在?
❶垣田、小松 蓮が去った最前線をどういうメンツで来るのか?

❷サイドから中へ、という強みの部分、特に、加藤 大樹(山形へ移籍)の抜けたポジションをどうカヴァー?

❸下川 陽太は不在 (山雅とのレンタル契約上)。
すると、サイドバックとボランチはどうなる?

❹J2屈指のGK白井 裕人。
彼の牙城を崩すには、シュートは、緩く逃げていく弾道でこそ打て。

【ゲームの力点】
❶システム4-4-2 同士の衝突。
手堅いはずの陣形、に穴を開けるための戦略で上まわれ。

❷サイド(外)から中へ、が攻撃の起点、または、仕上げ前の大仕事だろう。
つまりは、ビッグスイッチ(大胆なサイドチェンジ)か、裏のスペースを狙うスルーパス。
先手を取るには、相手DFを置き去りにするようなスピードが、鍵だ。
そのために、左右サイドバックが常に高い位置を取り、相手の同ポジションを圧迫する。
キーパーソンはゆえに、サイドバックだ。

❸相手ディフェンスをはがすには、実態的には、4-2-3-1で行きましょう。
とにかく攻撃的に。
ワントップは阪野。
2列目に左から、杉本、セルジ―ニョ、鈴木で、どこからでも撃つ。

4箇月も前の記憶(対愛媛戦)に頼ったプレビュウは、こんなです。

では。

 

自分の前で ラッパを吹くな。



善行は、他人に見せるようにしてはならない
、という教え。

聖書(マタイ伝第6章)にある。

収益と、ファン&サポーター心理の高揚のために、クラブはさまざまな取り組みをしている。

企業としてのチャレンジは、おおいに支持したい。

ファン&サポーターは、我がこころと財布に相談しながら参画したりすれば良い。

今季シーズンパスの扱いにしても、それぞれが判断して行動するだろう。

ただ、それだけのことなんだが、どうか、他人に同調を求めたり、〈べき論〉がゾロゾロと登場してこないことを切に望む。

かりがねに練習を観に行く(あぁ、懐かしい!)と、まるで自分がプレイヤーのパトロンのような口ぶりで話し続けるご婦人が居たりする。

選手をインティメートに思うのは結構だが、当方はのんびりひっそり時間を過ごしたいのに、まるで騒音だ。

こういうのも含めて、うるさいラッパは一切お断わり。

満足と誇りは、胸に秘めておくから価値が有る。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/24 17:10)
ラッパを吹かずにいられない。
サッカーから話題が離れて恐縮です。
若い頃良く映画館に足を運んだが、その帰り連れと喫茶店など入り感想を述べあうなんて事が良くあった。
しかし、私はこれが大変苦手。
本当の感動は言葉にならない。言葉にしようとすると、陳腐な言葉しか浮かばず、その真意を上手く伝える事が出来ない。なんとも歯痒い限りだ。
映画の始まる前から、その映画の蘊蓄など語られるのも閉口する。
深く椅子に沈み込み、静かにその感動を心に刻み付ける。
それが映画の醍醐味かと…。
ところで、私もラッパをふく時がある。「ゴミ捨ててきたよ」「お風呂洗っておいたよ」等々、ところが相手は「あ、そう」の一言。まさに「ラッパ吹けど、奥さん踊らず」です。
では、また。

☞萬年より  (6/24 18:15)
映画評は、我がこころに刻むもの。
思うに、暗闇の仁義は、次のふたつあたりでしょうか。
❶上映前、上映中はウンチクを語らない。
前に座るふたり連れ。男のほうがやたらと女性に映画、役者についてご高説を告げる。後ろから座席の背を蹴り上げてやりたくなります。
❷座席には、姿勢悪くどっぷりと沈み込む。
後方の観覧者の視界を妨げない配慮なり。
背筋をキリッと伸ばしているド素人様には、やんわりとご指導したくなる。ただし、最近は劇場の勾配がカイゼンされていて、グッド。

新宿のオールナイトではカストロジャンパーのオッサンが、舞台に上がり寝てしまう。それはそれでよかった、古き良き時代のお話です。
では。

 

 

 

喜劇の元素とは。

喜劇とはすべて、他人の悲劇を描いたものである by  萬年

笑われる題材はすべて、登場人物の失敗、苦しみ、無様さ、疎外だ。

サー チャールズ(1889~1977) は、主演作の中で、自らを徹底して笑い者に描く。

ジェントルマンであるかは、ボクシングでダウンを喰らい、テンカウントを宣せられるその瞬間でも、自分を笑って眺められる精神を持てるかどうか、らしい。

自分を笑い者にすること、これにはかなり高い精神性を要す。

(他方、他人を笑い者にすることは、かなりお楽な道)

なので、チャプリンの作品を観ていると、いつしか単純に笑えなくなってくる。
自分を笑い者にできる人格の孤高が、胸に沁み込んでくる、と言ったら良いのか。

英国には、自分(=役柄)の拙さや愚かさを、冷ややかに演じられる役者が目立つ。
ふたりのピーター、すなわち、ピーターオトゥール(1932~2013)、ピーター セラーズ(1925~1980)は、その中でも萬年のお気に入り。

今回は、セラーズが、ひとり三役を演じ分けた『博士の異常な愛情』(Dr.Strangelove or:~ 1964年、英米合作) 中のワンシーン。

ナチスドイツの科学者(車椅子の)と米国大統領(禿げ頭)が、セラーズでございます。

世界の破滅、という大悲劇が題材の喜劇。

これを大笑いするのが、作品への敬意/礼儀でありましょう。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/23 17:22)
他人の不幸は蜜の味。
松本清張の小説のテーマに良くあるエリートの転落ものが好きだ。何かをきっかけにして、人生の奈落に転落する。日常に潜む落とし穴に自分は落ちる事はないだろうと言う根拠のない安心感と、所詮小説の中の話だと笑って読んでいられる。
しかし現実の人間には、他人の痛みが解る人と他人の気持ちに全く無頓着な人がいるように思う。人間は感情的な生き物、残念ながらその時の気分でどちらの人間にもなり得るように思う。
せめて、チャップリンの笑いに隠れた心の悲しみの解る人間ではいたいものですね。
では、また。

☞萬年より  (6/23 18:47)
他人の失敗=自分の成功、みたいなのも人間。
清張では、『霧の旗』を思い出しますね。
弁護士による無関心の罪……と復讐。
弁護士モノから、『事件』(原作:大岡昇平)を思い出し、テレビでは若山富三郎が弁護士役。
そしたら、共演した草野大悟、を思い出す。
なんとも……。では。

健さんがやりたかった仕事『ジャコ萬と鉄』(1964年)

雨降る休日に、DVDで(ひとり)鑑賞。

いちばんの感想。
あぁ、高倉 健という役者は、こういう作品で仕事をしたかったのか……。

逆説的には、高倉 健の影ばかりが作品全体を覆う作品ではなくて、と言ったらよい。

丹波 哲郎、山形 勲、南田 洋子、高千穂 ひづる、大坂 志郎、江原 真二郎、浦辺 粂子。
※うち生存するのは、江原ひとりになった。

これだけ達者な役者が揃い、かつ、ガッチリ演じれば、高倉 健はその中に在って、気ままに軽やかな演技に没頭しているようだ。嬉々として。

本来、こういった自由闊達さが、役者高倉の生地だった、と強く感じる。

そうか。
『あ・うん』(1989年) で高倉 健は、他人の女房に純愛を秘めながらも、女性問題で妻を泣かし続ける男の、虫の良いいい加減さをこそ、演じたかったのだ。
そこに、高倉の挑戦が在ったはず。

作品が上品に仕上がっていることで、僕はいままで目を眩まされていた。

僕たちが何となく持ってしまっている〈健さん〉幻想の出所をいまさら追究しようとも思わない。

けれど墓の中で、「自分のことを伝えることにも、不器用なもので……」と呟いている高倉 健がいるように思ってしまう。

註: 画像は高倉健が気に入ってしばしば訪れていた、山峡の温泉場。萬年の秘湯でもある。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (6/22 7:19)
雪の中、耐える男であってほしい。
高倉健の大ファンを自認しながら、彼の一方の側面しか見ていなかったような気がする。むしろ軽妙な演技をする彼を見るのを避けている。
私の心は、寡黙で不器用でじっと何かに耐える彼に執着している。
私人としても、真面目で腰が低く思い遣りのある人だった。
しかし、大ファンを自認するなら、彼が軽やかに自由闊達に演じる映画も、恐る恐る観なくてはならないだろうか。
では、また

☞萬年より (6/22  11:24)
雪中の孤高なスキーヤーへ
この映画は、高倉 健が1946年の同名作品に惚れ込んだあまりリメイクを訴えて製作されているので、どうしてもやりたい役だったと思います。
と同時に、彼に話が持ち込まれたものの、出演ならなかった作もあったでしょうね。
ひとつの道を選ぶということは、他の可能性を棄てることでもありますが。
では。

真打の登場『第三の男』(1949年)

友人のK君によれば、モノクロ映画の極致、の作品。

第二次世界大戦直後のヴィエンナ(Vienna、英語読み。ウィーンとも)は、英米仏ソの四か国分割統治下。
この物語の舞台だ。

作品の公開当時は、さぞかし同時代の匂いに満ち満ちていただろう。
ことに、敗戦国日本の映画館では、なおさらだったはず。

英米の共同製作、となっているが、英国(軍人)側に正義が宿り、米国人が悪役(密売人)と、三文小説家(その友人)を演ずるとくれば、カテゴリーは、英国映画。

作中、死んだと思われた主人公(オーソン  ウェルズ)が、夜更けの街で酩酊した友人(ジョセフ コットン)の前に現われる場面が秀逸。
史上、これほど完璧な主役の登場シーンはない。

オーソン ウェルズがライトに浮かびあげった瞬間に始まるテーマ曲。
これも、有名過ぎる。
某国では、ビールのCM曲にまでなった。

いくら傑作とはいえ、犯罪映画の曲を、製品のCMに使うとは……。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより (6/21 8:48)
地震のない国なのだろう。
確かに、あの登場シーンは、秀逸でした。
地下道を逃げる彼の緊迫感を光と影で表現し、さらに場面を傾ける事でそれを増幅させる。
特に印象に残るのが、マンホールの鉄の隙間から出ている彼の指のアップ。自由を求める彼のあがきを見事に表現している。
友人を裏切った男を許さず、毅然として立ち去るアリタヴァリの、あの有名なラスト。女性とは、なんと意志が強い生き物なんだとこの時学んだ。
どの場面を切り取っても、絵になる、そして緩急を付けたチターのメロディで盛り上げる、これぞ映画は総合芸術だと思わせる名作でありました。
それにしても、戦争で破壊された跡が残りながらも、下水道が整備され、電柱も無く、石造りの建物が整然と並ぶ街並みは、さすが歴史の古いヨーロッパの都市計画の素晴らしさを感じますね。
では、また。

☞萬年より (6/21 16:23)
非合法活動のことを地下に潜る、というのは直接的な表現なんだと、この映画を観て実感。
大戦時、レジスタンスが成立したのも、こういう都市構造が在ったからでしょうね。
ただ、オーソン ウエルズは下水道シーンの撮影を拒絶して、スタントマンを使ったらしいです。
では。