昔はすべて良かったのか? (リーグ折り返し直前)

残り2節をこなすと、リーグ戦も折り返しだ。

ようやく入場制限が緩まって、観客10,000人上限でのホーム連戦が待つ。
シーズンパスが、これから使用できるようになる。

ということは、パスホルダーは10,000人を大きく割り込んだ、ということ?

ひとつの見もの、ではあります。

戦績次第で入場が増減するという原理が、アルウィンでも立派に通用してしまい、山雅ファンサポーターもそれなりに月並みなのか、どうか?
まぁ、答えは既に、ここ数試合でほぼ出てしまった、かも知れない。

さて、顕在化したCOVID-19による影響の最大のものは、シーズン中のチーム構築と熟成にかなりの困難あり、これだろう。

ベンチマークの設定と修正はともかく、それを磨き上げる場がほとんど公式戦のみ、というのはなんとも辛い。
実戦的なテストマッチが組めず、内輪の紅白戦でお茶を濁す、なんて世界なのだ現場は。

となると、前シーズンからの継続性が、戦績の決定的な要素であると、今更ながら思い知る。

今季ディビジョン2の監督就任年数を並べてみると……、

4年 ➩ 2(徳島、金沢)チーム
3年 ➩ 2(愛媛、山口)
2年 ➩ 9
1年 ➩ 9                   ……、という内訳。
(註:2年には昨季途中からの就任を含む。また、京都はコーチよりの昇格なので実質2年とも)

これを、9/13 22:22現在の順位表に照らすと……、

❶監督1年目のチームは、最高で5位(京都)。
以下7、8、10、14、15、16、18(山雅)、21(群馬)位。
従来のプレイオフ圏内には京都のみ。多くは中位から下位に沈む。

❷また、前年と異なるリーグで戦うチームの順位は、
1位(北九州)、6位(磐田)、18位(山雅)、21位(群馬)。

指導ビジョンと環境の点で変化の振り幅が大きかったチームが、やはり苦戦している、と言えそうだ。

変化の中で、比較的に善戦しているのは、京都、福岡、町田、といったところか。

ここで、上記❶と❷を両方満たすのが、山雅とクサツ。
画一なスタートラインの、かなり後ろからスタートしたのがこのふたつ、というのが、どうも実際だった。

(監督年数が長いけれど下位のチーム。こちらは、もっと状況が厳しい)

山雅してみれば、歓迎できないこの順当を、これからどれだけ挽回できるか?

自他共に使うところの〈昨季J1で戦った〉という枕詞を、巧く、そして偽装的に使い分けながらやっていくのが、深まる秋の、山雅なのだ。

旗を巻くには、まだまだ早い。

ここで、ひとつだけ。
ファンサポーターの他愛のない要求は自然なものと認めた上で、それでも、スタジアムと街の雰囲気をすくなからず貶める論調にだけは注意を喚起しておこう。

手早く言うと、堅守速攻とか、高インテンシティ(強度)というチームスタイル※を、ここへ来てどう考えるのか?、ということ。
(※トレンドなスタイルという視点とは別にして)

J2のチーム数拡張の最終番手で滑り込んで、最後尾から追い抜きをかけるには、昨年まで眼にしたそういった戦術が、山雅にとっては必然だった。
資金的にも技量的にも。

そのスタイルが、駆け出しのファンサポーターの心情に訴える力があったのも事実。
倒れ込むくらいに走り回れば、たしかに、人のココロは揺さぶられます。

ただ、どこで勘違いが生じたのか、劇場の幕が開かないと山雅でない、みたいな誤解がいつしか醸された。

ただ、この期に及んで、かつての ~らしさをそのまま信奉するのは、いかがなものか?

指揮官が変わる、というのはスクラップ&ビルド、をおこなうこと。
スタイル変容を、彼が公言するしないはともかく、その転換自体を、ファンサポーターを含めた外部がとやかく言うことではない。

真剣勝負の世界ゆえに、取り組み内容は、もちろん戦績から評価される。

けれど、現在の山雅丸が、タイタニックのように浸水の瀬戸際にあるとも思われない。(もちろん、浮沈という保証もないが)

したがって(推定される)ベンチマークを基準にして、現状の良否、それとの乖離について議論できるファンサポーターでいたいものだ。

現在不満な内容は、過去も克服できなかったことがずいぶん多い。
でも、そのすべてが今季になって発生したような論調さえあるのには、いままで山雅の何を観て来たんだろう?、と驚くばかり。

得点力不足、勝ち切れない、土壇場での被弾によるドローなど、挙げたらキリもない。

いっそのこと、今年の山雅は弱い、で十分。

でも、弱い、の評価にしても、彼我の総体的な部分かも知れない。

確かなのは、J2の水がもはや2~3年前ほどには甘くないこと。

せいぜい、昔はすべて良かった、といった色眼鏡を一度点検してみたらどうか?

考え方まで老け込んでしまっては、救われないぞ。

では。

流行り言葉は,意味不明。

周囲では、〈コンプライアンス〉という言葉がさかんに飛び交う。

いままでは、法令遵守と狭い視野で捉えていたが、それを改めたい。
今後は、お客様には誠実に対応し、その満足、快適、安全、安心を考えて行動するといった広い意味で理解し、これを徹底します、といったふうに。

ここまで気づいたのは結構だが、まだ事の本質には迫っちゃいない。

仮に、コンプライアンスを、広狭のいづれで定義するにせよ、
では、どうして組織(=会社)が、それに背く行動に平気で走ってしまうのか?、という切実な点があいまいだ。

例えば、営業予算の達成、という〈会社憲法〉と、買い手側の損得の衝突を、具体的にどうやって解決するのか?、ということ。

ここをクリアしない限りは、ただただコンプライアンスを唱えているだけに終わる。

飲酒運転なんてのが、コンプライアンスの文脈で語られること自体が可笑しい話だが、流行りの英語をキチンとした日本語にできない時点で、すでに思考が停滞/停止しているようだ。

コンプライアンスとは、〈世間やすべての関係先にすみやかに反応、対応すること〉、とするのが、いちばん適当。

コンプライアンスとはだから、各方面からの情報、要求や苦情にすばやく対処する 、という仕事のやり方、雰囲気、励ましを会社の文化にすること、これに尽きる。

で、その対処の根拠が、守るべき法律やルール、マナーといった社会通念。

けれど、きょうび、ルールを守るなんてのは当たり前過ぎる要求だ。

例えば、消費期限や産地やアレルゲンが正当に表示されていても、だれも感動しない。

いまから30年前だと、マック店頭におけるトークは颯爽と見栄えも良かったけれど、いまやフツーな接客のひとつになった。

4人前を注文している客に向かって、マニュアルどおりに、店内で?、それともテイクアウトで?、なんてやった日には、むしろ、お怒りを買うに違いない。

お客様の側になったら、かなり高度な対応を求めるのが日本人だから、もともと、コンプライアンスなんて言葉を持ち出さなくとも日本語で間に合うのに、なぜか、使ってしまう。

世をあげての錯覚ですな、これ。

良いこと悪いことすべてに対し会社および社員として、迅速、丁寧、誠実に対応しよう。
―まづはそこから入らないと、働く者にとっての具体的な行動がはっきりしない。

コンプライアンスを、各自のことがらとして受け取れるようになると、組織にとっては、それが、他との競争で生き残れる有力な武器になる。

面倒見の良い、信頼できる御社から買おう、頼もう、となります。

もちろん組織として、迅速、丁寧、誠実の内容を、具体的に定義しておく。

あとは、ひとりひとりの社員に、どこまでをジャッジする権限を与えるかをはっきりさせれば良い。

僕たちがその会社に好悪を持つキッカケは結局、そこの社員ひとりのチョットした行動と態度なんだから。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/15 12:44)
寅さんにとってコンプライアンスって?
わたしにはちょっと難しいが、私のイメージするコンプライアンスは、社内の不祥事を減らし、働く者により働きやすい環境を提供するものと考えるが、会社にとっては不祥事の芽を摘んで、さらにエスカレートすればその人間を排除して、結果的に会社を守ろうとするあくまで会社本位のもののように思える。
しかし、本当の意味でのコンプライアンスは、得意先、消費者に対し、正しい情報、サービス、商品を提供すると言うことでしょうか。物を売る場合、売り上げを課せられると、その物の価値以上のセールストークをしてしまうし、適正量以上の商品を押し付ける姿勢になってしまう。
営業マンが悪い訳ではない。それを課す会社側にこそ徹底してほしいのが、コンプライアンスの本質ではないのか。
お客様に対し誠実な対応こそが会社側のイメージを上げ、利益を上げる。
まずは、会社側が徹底したコンプライアンス意識を持ち、ぶれない指示を下に発信するのが、法令遵守の第一歩ではないでしょうか。
では、また。

☞萬年より (9/15 15:40)
なぜこれほどまでに、コンプライアンスを言うようになったか?
最大関心は、会社が不祥事を外に出したくない、ということでしょうね、やはり。
対応がまづいと、雪印みたいに会社が消滅することがわかったからだと思います。

寅さんにとってのコンプライアンス、とは新鮮な切り口!
堅気の世界とは一線を引き、惚れた女性も諦める、これだと思いますが、いかが?

引き分け上等、魅せ場なし (2020.9.13 栃木戦レビュウ)

雨中のゲームは、追いついて、1 – 1 のドロー。

〈見出しのココロ〉
①あの内容じゃあ引分けも止むなし、②たとえ先制されても、引き分けに持ち込めるようになったね、というふたつの意味で、引き分けを、まぁ良しとしよう。

ある程度割り切って、田坂サッカーに付き合ったのは予想どおり。
4バックを採り、ポジション対抗の意識を高めておいて、たとえば、センターライン手前の位置からでも、フリーキックは単純にペナルティエリアへ抛り込むとか、ロングボールで相手最終ラインの裏狙いの長いボールを多用するとか。

ただし、栃木程度の得点力が乏しい相手ならば、多少は守備労力を軽くしてでも、もっと攻撃面に独自のアクセントをつけるべきだった、という意味で魅せ場なし、と断じてしまうわけです。

付き合っても良いが、どこかに突き放す策を耽々と仕込んでもらいたい。

〈攻撃における物足りなさに 手当を〉
特に、サイド攻撃にもっとこだわり(=反復性)が必要だったのと、ペナルティエリアまで侵入した時の、後方からの畳みかけ(=波状性と厚み)に欠けた。

もともと個人技ではかなりの優位性があるので、随所に魅せるプレイはあったものの、単発感が否めない。
あとひと手間とひと工夫の連動性不足が、かえってあぶり出された格好でした。

これは交代カードの切り方への不満に通じていて、あと2枚を残したのは大いに疑問が残ります。
例えば、①息吹に変わって、久保田を2列目の右に入れ、4 – 1(米原) – 4(セルジ―ニョ、阪野、杉本、久保田) – 1(服部)にする。
あるいは、杉本をボランチに落として、イズマを2列目に入れる(阪野と入れ替え)とかで、超攻撃的にしてしまう、なんてのを観てみたい。

②服部のところで、空中戦を担保するのならば、セカンドボールを手中にするために、地上戦に堪えうるメンツを衛星のように配置すべきであり、そのためには上記①くらいやってみてはどうか?

で、服部の運用ですが、彼が囮と化して、その外側にサイドバックが上がっておいて後方に収める、といった狡猾さも織り込んでしまいましょう。

……、以上、悲観的になる必要もないけれど、攻撃部分でズルさある深まりが要るでしょう、というレビュウです。

ただし、守備陣の成長が随所に見られたことは指摘しておきます、感嘆の声が漏れたくらいに。

では。

遺言の完成 (後編)

遺していく財産をどうこうせよ、といった生臭い話は別にして、
死者葬送のやり方なんてのは、遺された者たちが、どういう体裁を望んだか?、で決まる。

前編で紹介した魯迅の、遺言(めいた信条)がはっきり在れば別だが、故人の意思など反映していない場合がほとんどだろう。

対外的に何も執り行わない場合、もっぱら本人の意向で、という理由づけが多いけれど、これだって、本当の事情なんか他人にわかろうはずもない。

ところで、雑文『死』で魯迅は、七つの信条に続いて、こう書いている。

―熱があったとき、西洋人は臨終の際によく儀式のようなことをして、他人の許しを求め、自分も他人を許す、という話を思い出し…た。
私の敵はかなり多い。もし新しがりの男が訊ねたら、何と答えよう。
私は考えてみた。そして決めた。勝手に恨ませておけ。私のほうでも、一人として許してやらぬ。―

人生最後の約10年間、シナの社会と民衆の後進性に苛立ち、ペンで激烈な悪口を叩きつけては、論敵を吊し上げ続けた魯迅。

その彼にまっことふさわしいこの文章に出逢い、自然に笑いがこみ上げてきた。

最期まで闘争する姿勢を崩さないとは、さすがだったな、と。

では。

〈コメント〉
☞つー さん より (9/13 10:36)
知らぬは仏ばかりなり。
もし私が遺言を書くとしたら、「全て許すから明るく楽しく生きなさい」と書くかな。
多分、私が亡くなった時、残された者はひどく悲しむだろう。多分悲しむはずだ。生きる気力も失くすかもしれない。多分失くすはずだ。
しかし時が経てば悲しみの記憶は、心の奥に沈んで行くだろう。また、笑える日々が必ず来るものだ。
もしかして恋をする事もあるかもしれない。再婚さへ有るかも。
そんな時、君が「私はこれでいいのか」と、ふと私の顔が浮かんだ時、遺言を思い出してほしい。
笑って生きていいんだよ。楽しんでいいんだよ。もちろん再婚もOKさ。
そんな遺言を残そうかと思うが、いざとなったら書けるかどうか。
それに、そんなことを書いても「余計なお世話よ、私は私で楽しくやってるわ」と一蹴されるのが、関の山(今時使うのか)だろう。
もちろん、それでいいと思う。
では、また。

☞萬年より (9/13 17:00)
亡くなったら成仏しないといけませんよね、知らない仏になるためには。
忍者武芸長のラストのセリフは、たしか〈モノを作り出すのは生きている俺たちさ〉だった、と記憶しますが、現世のおこないとは、まさにそんなところでありましょう。
生きている今は、せいぜい仏の顔も三度まで、を教訓に暮らしたいものです。

倍速の瞬殺,に立ち向かえ (栃木戦プレビュウ)

順位はともかく、甲府とは対戦成績でトントン、甲府が3バックを採用、ということもあって、このプレビュウは、第15節 栃木 vs 甲府 (8/30、1 – 0 で栃木が勝利)を下敷きに書いています。

〈栃木が 一気の瞬殺サッカーで来る理由〉
❶全員がハードワークしてゴールに向かうサッカーが信条であること。

リーグ最少失点は、単に田代 雅也キャプテンを中心とした最終ライン(4バック)だけの勲章ではなく、前線のファーストディフェンスから手を抜かないことの賜物なのだ。

❷(おそらく)昨季20位で土壇場ギリギリ残留したという危機感、攻撃力不足と個のクオリティなどからして、チンタラやって胸を合わせたら勝負できない、という田坂 和昭式の計算が在るはず。
なにせ、得点のほうはリーグで下から2番目。(ただし、攻撃回数では上位)
相手に合わせることなく、スキを衝いて攻め切るに限る、という判断だろう。
攻撃の様相はカウンターだが、受けて立ったところからでなく、圧迫し続けておいてボール奪取と反転、という感じ。

❸山雅ディフェンス陣の主力が、近年の栃木ディフェンスを熟知していること。

服部 康平は、2018年にほぼDFとして、38ゲームに出場。
2019年は、森下 怜哉が27ゲーム、乾 大知が19ゲームに先発だった。

手の内を知られていればこそ、考える余裕など与えず、むしろ処理しにくいようなボールを入れて、守備網に穴を開けにかかるのではないか。

……、こう書いてくると、田坂氏がかつてコーチであった(2016年)、どこぞのチームを描写している錯覚に陥るんです。

〈方向性を信じ、さらなる深化をめざせ〉
ようやくリーグ前半終了間際になって、まだフルスピードとは言えないけれど、山雅式が整って来た感あり。
前節山口戦での仕込みを無にすることなく、山口と同様、一途に向かってくる栃木をどうやって攻略するか?

❶ゲーム開始から、でき得る限り栃木の勢いに押されない工夫が要る。
イーヴンで蹴り込まれるボールのはね返りを手中にするには、ディフェンスラインとその前の2列目(ボランチ)間のスペースをコンパクトに締めること。
甲府は、5 – 2 – 3 の、2と3の間が間延びて、そのスペースを良いように栃木に使われていた。

相手を前に向かせない、となれば、当方も同様にロングボールを使ってもかまやしない。
ハッキリとした狙いで中途半端なボールを入れ、栃木DFを背走させよう。
バタバタと落ち着かない、忙しいサッカーにも手を染める勇気を持って、そのためのメンツを先発として配置するのが良い。

❷攻撃を厚くするためには、中盤でボールを動かながら人数を増し揃えていくこと。
だからこそ、それに挿し込むシンプルな攻撃も効いてくる。― これぞ、山雅式攻撃の眼目。
しかも、栃木の失点をみると、ショートパスからが、全体の40%。
ゆえに、長短のパスを駆使した攻撃がますます有効なのです。


それには、セルジ―ニョ、杉本、久保田、鈴木らをどういうタイミングと組み合わせで投入するのか?、ここが采配の妙でありましょう。

❸フォワードへの割り当てを綿密に。
それぞれの強みの発揮を含んだ仕事をハッキリさせ、ピッチで各自に与える時間的なプランを伝えるくらいに徹底しても良いのでは?

現在、チームトップスコアラーは塚川 孝輝(5点)。
彼の攻撃的なプレイスタイルの結果、とも言えるけれど、今節こそは、フォワード陣が、スコアを刻むことを望む。

で、ボランチは、アウトサイドハーフと連携して、栃木サイドバック(溝渕、瀬川)を封ずることと、セカンドボールの回収に、まづは、注力したい。

では。