まづはそのパスサッカーを, (琉球戦プレビュウ 前篇)

丸裸にするくらい徹底的に分析しなけりゃあ、始まるまいな、と思う。

FC琉球が、場面場面に応じて、どのスペースにどういうパスを使うのか?、を抽出、そのデータをチーム内で共有したうえで、自分たちのサッカーとすり合わせてみて、いくつかの対策にして、再現性を高めておく。

それを、昨日までに終えていなければ、とてもとても。

― 名波さん、解任にならないか、心配。

と、某氏が、真顔(顔は見えないか)でメールしてきたので、

― 生半可な意思で引き受けてもいないのでは?、と返したが、

岡山戦の敗戦で、
― あぁ、これで降格が決まったようなもんよ!、と絶叫するわ、
― 降格してまで彼、監督やってくれないでしょう、とか家人。

でも、3部から這い上がる、のも山雅の歴史に箔がつく、という観点からは悪いことでもない、辛いけれど。

それで滅びるクラブならば、その程度のクラブだった、ってこと。

おおかたの松本市民の関心は、参戦リーグによってそれほどぶれるとも思えない。

むしろ、勝ち馬に乗りたいだけの、うるさい輩が去るだけと割り切っている。

妙な驕り、これが物事において、いちばん厄介。

さて、本題。

迎え撃つ琉球は、直近、引き分け1つを挟んで、6連敗。

シーズンはじめの7連勝(引き分け1つを挟む)がチャラになってしまったが、なんとか、8位を維持。

でも、公式戦3戦3勝の山雅には、おそらく負ける気もしないから、連勝を止めんと、指揮官交代直後ではあるが、固い決意でご来松になること間違いなし。

過去3回やって、合計失点は、12。
それでもって、得点は、セルジ―ニョによるたったの 1点。

戦績からは、どうやって好材料を見つければいいの?、がホンネ。

今回は、守備面について。

琉球の持ち味は、ピッチを広く使った、軽快なパス回しで一気に攻め入って来ること。

山雅としては、前線からの守備に、中盤と最終ラインがチキンと連動していかないと、空いたスペースをミゴトに使われてシュートまで持っていかれることは必定。

かといって、引いてガチガチに守ったところで、いつかは崩されるのが時間の問題。……まるで、約4箇月前の敗戦をトレースするように。

なぜなら、当時より守備は良くはなってはいるが、劇的に改善もしてない。

岡山戦で破綻、というか、存在がまるで実感されなかった、チーム内意思疎通がどれほど回復しているのか、まづは、そこ。

端から舐めてかかってくる相手には、その攻撃に破調を生じさせるような守備をもって報いる必要があります、心理的にも。

琉球は、ピッチ内でことを進めることを身上にしているので、こうなったら、タッチライン内外を利用して、相手の攻撃リズムを絶つ、これでいきましょう。

現在の守備陣は、どうみったってその体勢でヘディングに行っても相手にスローインを与えるだろう、といった行為を性懲りもなくやるんで、むしろ、これが幸いするのではないか、と考えます。

掻きまわす守備という面では、ガムシャラに突っかけるタイプのタレントを配したいところです。

あれだけ完成したパスの連携に、対等には太刀打ちできない、という悲観的な前提から準備すべき。

琉球のドリブル回数は、リーグ最下位。

要は、ドリブラーを寄ってたかって潰す策は、あまり有用でない。
それだと、パスに翻弄され、振り回されて消耗するのが目に見えている。

再三言う。
これらすべては、あらかじめFC琉球のパスサッカーに関する緻密な分析がまづあって、それにもとづいたパスコースの予測/仮説が、全プレイヤーに共有されていること、これなくしては、どだい無理な話。

(あぁ、しかし、それをマトモにやっているんだろうか?、我がチーム)

最後、先発に関する願望。

3バックでやるならば、基底に下りてのボール起点は、前 貴之に割り当てる。

岡山戦で佐藤にその役割を担ってもらったのは、おそらく監督は、平川の守備にいまひとつ信用が置けていないためでありましょうが、いかに攻撃的にやるか、と天秤にかければ、佐藤には、ひとつ前目のポジションで、力を使ってもらいたい。

ゴール キーパーは、圍、あるいはゴ ドンミン。
岡山戦における村山のポジショニング、あれはないわ。

左から、星、橋内、大野(宮部、野々村) のセンターバック。
星が左足で難なくフィードできるなら、を前提で。

サイドバックには、左 田中パウロ、右 下川(表原)

ダブルボランチに、前と、佐藤。

シャドウには、山口と、河合。

ワントップは、榎本。

初期布陣は、これで、3 – 4 – 2 – 1。

で、守備にまわったら、5 – 4 – 1。

採用されること、ほぼ見込み薄か。

とは言え、このくらいやらないと、アルウィンにとても新風が吹きそうにもない。

では。

フェア について悩んで育つ。

子どもの思想は、やはり、単眼的な観点に偏りがちです。

萬年ご幼少の頃、どうしても解せないことがあって。

それは、戦争という残虐非道なことを犯していながら、どうしてその渦中へ、捕虜の正当な扱い、救護要員の尊重、武器の制限(毒ガス、鉛不使用)といったルールを持ち込めるのだろうか?、という疑問。

殺し合いの中のルール?

ならば、戦争そのものをやらなきゃあいいのに。

でも、すこし大人になれば、ジュネーブ条約などで積み重ねてきた、戦争/紛争におけるこういったルールも、結局は、武力行使の効率化、戦闘員の再生産といった、深い意味あいを持つことに気づく。

戦争を遂行したいからこそのルール、ということに。

戦争という手段を決して捨てない意思があってこその条約や、決め事。

同じように、〈フェア〉とか、公平(公正)とか、こういった正義が、もっぱら強者から出てくる主張であることに気づいた者が、分別のある成人、といえる。

この国の武道、武闘に、体格別の考えや、禁じ手がほぼないのは、弱者にも勝機を〈公平〉に与えるという思想に基づく。

宮本 武蔵の戦術など、奇襲、奇異なスタイル(二刀流)、意図的な遅刻など、弱者の手練手管がてんこ盛り。

なのに、誰もそれをアンフェアとも断罪しない。

柔道に階級別が持ち込まれてことによって、それは武道ではなくスポーツに変容した。
つまり、インターナショナルな競技になった。

でも、日本人はいまだに、競技者も観衆も、襟の獲りあいに終始するような柔道を好まないし、投げ技一本による勝ちを尊ぶ。

メンタルは、依然、判官びいき、柔よく剛を制すの世界に在る。

そのような環境下で戦う柔道選手のプレッシャーたるや相当のものと、まったく同情する。

それに比べれば、サッカーのナショナルチームの重圧感など、比較するのが、申し訳くらいではないか。
すくなくとも国民的な関心からすれば。

それをですよ、アウェイの地、手堅く向かってきたオーストラリアにやっと勝ったからといって、狂喜三昧に溺れるとは、なんとも、見苦しい光景ではあった。

と、奇襲、奇策といった勝負を打てないチームに不足を感じています。

では。

ネヴァー ギブアップの、その中身。

ネヴァーを3度も重ねるんだから、相当の意気込み、とは思う。

出来ることの限界をわきまえたうえで、それを目いっぱいやることには大賛成だ、ファン&サポーターとして。

せいぜいアルウィンに足を運んで、気持ち込めて戦士を見守るよ、いままでどおり。

ただし、これだけは、外してもらっては困る。

ため息や慨嘆の、声にならない呻きのようなもの、そういうものを我慢せよ、とか、慎もう、なんてのはお門違いの話、ってことを。

サッカーを楽しむ、自然なココロのあり様を、強制してはいけません。

誰もスキ好んで、がっかりするわけじゃない。

3点、4点の失点に、静まり返るな、というのが無理なこと。

つまらんプレゼントパスやら、まづは後ろへ逃げておけ、みたいなバックパスに、それこそ、大地真央じゃぁないけれど、

― そこに、必死の山雅愛はあるんか!?、という疑念が生じるのは当たり前ではないか。

通らなかったパス。
それが、用意した戦術的に、出し手が悪いのか、あるいはそこへ走り込まなかった受け手の怠慢なのか、そんなこと、こちらが知ることもできないけれど、それを残念がって怒るのは、当たり前のことでしょう。

3失点に目がいって負けが強烈だった岡山戦ですが、萬年的には、ホーム栃木戦の負けのほうが数十倍堪えました。

それは、ゲーム後コメントの、
―前半、栃木流ボールの行ったり来たりサッカーにつき合ってしまった。

チョッと信じられない言い草であって、つきあわないように意思統一し、具体的なやり方を決めておくのがフツーだろう、と思うんです。

決め事が守れらない?、あるいは決め事が無い?

これ、組織の体をなしていない。
……、とまぁキリもないが、琉球戦は、そこのところをゲームの中で注視しますよ。

諦めない、というならば、そう言えるサッカーをするのかどうかを。

こちらは表現された範囲で感じるとるしかありませんが、
もちろん、それは覇気とか、なりふりかまわず、といった精神論でない部分、つまり戦略、戦術の徹底をどれほど追い込んでいるか、ということ。

では。

アンフェアな物語をどうする?

宗教とか信仰について、キチンと教えられる教師が中高にはほとんどいないこともあって、
「目には目、歯には歯」というハムラビ法典の字句を、復讐に関する掟と理解してしまったのが、大半の日本人。

バビロニア帝国を興した王と官僚たちが、そんな浅薄なことをやるはずもなく、
これは、賠償についての法文であった。

つまり、他人の身体や財産を損ねてしまったら、同等な内容で償うこと、と言っている。

これ、現在、世界や日本の賠償法の根本的な思想であって、たとえば、交通事故では(互いの過失割合で差っ引くにせよ)、相手車両を原状復帰するための費用を保険でまかなう。

元どおりにして落着、だ。

それは、ユダヤの律法でもまったく同じだから、ヘブライとイスラムの宗教観は双子みたいな部分が多い。

この論法によれば、民話『かちかち山』は、現在の語り口ではアンフェアなところが多い。

図書館で童話集を手にとってみると、
お婆さんを転倒させて怪我をさせたぐらいで、タヌキは、ウサギの計略にハマり、浸水する泥船とともに最期を迎えることになっている。

でも、たかが人に怪我をさせたぐらいで命をとられるなんてのは、あんまりだ、と子供に問われたら、親は、はたして、どうやって返答したらよいのか。

そうね、お婆さんはね、これで寝たきりになってずっと介護を受ける身になったから、死んだも同じことでしょ、と逃げるのも一案だが、

もともとは、たぬきがお婆さんを撲殺後、その遺体を煮込んで、これをタヌキ汁と偽って、お爺さんに食させたという非道をおこなったというお話。

それを、残虐な描写を避けたから、ウサギの敵討ちがアンフェアに映るに過ぎないのです。

他人の生命を損ねたら、みづからの生命で償う、やはり、苛酷であっても幼い者に、キチンと伝えないといけないんじゃあないか。

では。

そつのない仕事に感謝。

チーム練習が公開できないご時勢だと、公式サイトで、練習やトレーニングマッチの様子を垣間みるのが、以前にもまして待ち遠しい。

ほぉ、彼、怪我から練習に復帰しているんだ、とか、ゲームには出て来ないけれど切磋琢磨しているらしいとか。

そんなことがうかがい知れるような、意識した画像選びには大いに感謝したい。

特に、地元の日刊紙を購読しない僕のような者にとって。

昨日の栃木シティフットボールクラブ、先日のFCマルヤス岡崎、これらテストマッチの報告では、かつてクラブのために尽力してくれた元山雅戦士の姿をひろってあって、その配慮がありがたかった。

マルヤス戦では、岩波 俊介、多々良 敦斗、三島 康平。

中美 慶哉は前日にゲームに先発していた関係で、来松しなかったんだろう。
なお、ここには村瀬 勇太も在籍している。


さて、栃木シティでは、なんたって、工藤 浩平。

かつての山雅#10は、現在、#8を背負っているのか。

いまの山雅には、工藤ちゃんのような、相手をダマせるテクニックとハートを持ったプレイヤーが、つくづく少ないよなぁ。

栃木シティが参戦している関東1部リーグは、1週間前に2021日程を全消化。
栃木は、シーズンを4位で終えている。

ところで、各地域リーグの勝者が、JFL昇格を目指して戦う〈全国地域リーグチャンピョンズリーグ〉の季節がやってきた。
かつての〈地決〉ってやつですが、12チームが3組に分かれて1次ラウンドを戦い、決勝ラウンドに進出した4チームによる決着がつくのが、11月28日。

ここには、北信越リーグからは、福井ユナイテッドと、アルティスタ浅間のふたつが参戦していて、#14玉ちゃんには、チャンスを是非ものにしてもらいたい。

11月28日……か。

その日山雅は、第41節アウェイ相模原を迎えているはず。

ホーム栃木戦で落とした勝ち点3を、この日に拾えているんだろうかしらん。

では。