ネヴァー ギブアップの、その中身。

ネヴァーを3度も重ねるんだから、相当の意気込み、とは思う。

出来ることの限界をわきまえたうえで、それを目いっぱいやることには大賛成だ、ファン&サポーターとして。

せいぜいアルウィンに足を運んで、気持ち込めて戦士を見守るよ、いままでどおり。

ただし、これだけは、外してもらっては困る。

ため息や慨嘆の、声にならない呻きのようなもの、そういうものを我慢せよ、とか、慎もう、なんてのはお門違いの話、ってことを。

サッカーを楽しむ、自然なココロのあり様を、強制してはいけません。

誰もスキ好んで、がっかりするわけじゃない。

3点、4点の失点に、静まり返るな、というのが無理なこと。

つまらんプレゼントパスやら、まづは後ろへ逃げておけ、みたいなバックパスに、それこそ、大地真央じゃぁないけれど、

― そこに、必死の山雅愛はあるんか!?、という疑念が生じるのは当たり前ではないか。

通らなかったパス。
それが、用意した戦術的に、出し手が悪いのか、あるいはそこへ走り込まなかった受け手の怠慢なのか、そんなこと、こちらが知ることもできないけれど、それを残念がって怒るのは、当たり前のことでしょう。

3失点に目がいって負けが強烈だった岡山戦ですが、萬年的には、ホーム栃木戦の負けのほうが数十倍堪えました。

それは、ゲーム後コメントの、
―前半、栃木流ボールの行ったり来たりサッカーにつき合ってしまった。

チョッと信じられない言い草であって、つきあわないように意思統一し、具体的なやり方を決めておくのがフツーだろう、と思うんです。

決め事が守れらない?、あるいは決め事が無い?

これ、組織の体をなしていない。
……、とまぁキリもないが、琉球戦は、そこのところをゲームの中で注視しますよ。

諦めない、というならば、そう言えるサッカーをするのかどうかを。

こちらは表現された範囲で感じるとるしかありませんが、
もちろん、それは覇気とか、なりふりかまわず、といった精神論でない部分、つまり戦略、戦術の徹底をどれほど追い込んでいるか、ということ。

では。