子どもの思想は、やはり、単眼的な観点に偏りがちです。
萬年ご幼少の頃、どうしても解せないことがあって。
それは、戦争という残虐非道なことを犯していながら、どうしてその渦中へ、捕虜の正当な扱い、救護要員の尊重、武器の制限(毒ガス、鉛不使用)といったルールを持ち込めるのだろうか?、という疑問。
殺し合いの中のルール?
ならば、戦争そのものをやらなきゃあいいのに。
でも、すこし大人になれば、ジュネーブ条約などで積み重ねてきた、戦争/紛争におけるこういったルールも、結局は、武力行使の効率化、戦闘員の再生産といった、深い意味あいを持つことに気づく。
戦争を遂行したいからこそのルール、ということに。
戦争という手段を決して捨てない意思があってこその条約や、決め事。
同じように、〈フェア〉とか、公平(公正)とか、こういった正義が、もっぱら強者から出てくる主張であることに気づいた者が、分別のある成人、といえる。
この国の武道、武闘に、体格別の考えや、禁じ手がほぼないのは、弱者にも勝機を〈公平〉に与えるという思想に基づく。
宮本 武蔵の戦術など、奇襲、奇異なスタイル(二刀流)、意図的な遅刻など、弱者の手練手管がてんこ盛り。
なのに、誰もそれをアンフェアとも断罪しない。
柔道に階級別が持ち込まれてことによって、それは武道ではなくスポーツに変容した。
つまり、インターナショナルな競技になった。
でも、日本人はいまだに、競技者も観衆も、襟の獲りあいに終始するような柔道を好まないし、投げ技一本による勝ちを尊ぶ。
メンタルは、依然、判官びいき、柔よく剛を制すの世界に在る。
そのような環境下で戦う柔道選手のプレッシャーたるや相当のものと、まったく同情する。
それに比べれば、サッカーのナショナルチームの重圧感など、比較するのが、申し訳くらいではないか。
すくなくとも国民的な関心からすれば。
それをですよ、アウェイの地、手堅く向かってきたオーストラリアにやっと勝ったからといって、狂喜三昧に溺れるとは、なんとも、見苦しい光景ではあった。
と、奇襲、奇策といった勝負を打てないチームに不足を感じています。
では。