サッカーに,いい加減さを認めたうえで。

VAR(ヴィデオアシスタントレフェリー)が導入されるゲームだと、特に、ペナルティエリア内の反則は、厳格に採られるようになっている。

ただし。

もともとサッカーとは、かなり大ざっぱな反則認定、または、不認定が横行する競技であることを忘れてしまったら、マヅイと思っています。

たとえば、W杯スペイン戦における、三苫 薫のタッチライン上での折り返し。

精密な機器で測定すれば、たとえボールが1mm残っていてインの状態だったとは言え、ゲームの全局面において、そこまで厳密にやったら、ゲーム観戦や、愉しみ方から、余裕がなくなってしまうのではないか。

接触が実際にあったにせよ、どう見たって、力学的にみればあの倒れ方は不自然、かつ、大袈裟だろう、なんてファールが、ゲームではいくらでも採られている。

だからこそ、厳しいボディータッチ下であっても、そこを踏ん張って前へ進もうとする中田 英寿のプレイスタイルが、格別に麗しかったわけです。

ちょっとやそっとで、やたらプレイを止めさせない、といった厳しさは、スタジアムが、つまりは、観衆の反応によってプレイヤーに求めてもいいんじゃあないですかね。

オフサイドも、けっこう議論生ずる反則であって、
最近のプレミアリーグでも揉めている、とヤナさんから聞いたので、ここにそのハイライト動画をご紹介

それは、マンチェスターユナイテッド vs マンチェスターシティの、ダービーマッチで起きた。(第20節)

動画だと、01 : 50 あたりからのマンUの得点シーン。

オフサイドポジションにあった#10のプレイヤーは、結局、ボールに触れておらず、シュートを決めたのは、後方から走り込んで来た、#8のプレイヤー。

で、この得点は、認められた。

しかし、この場合、たとえボールに触らなくとも、#10の存在(駆け込み) が、対処しようとしたシティーの守備陣を走らせているわけだから、オフサイドだろう、という説も成り立つ。

素直に考えれば、これ、オフサイド(=誤審)だと思います。

ただ、これが、オンサイドと認定されるならば、こういうポジショニングを、ひとつの戦法として採用してもいいことになる。

たとえ、こういうプレイでも、楽しんでしまえなのか?

さて、読者諸氏は、いかがお考えになるや?

では。

どうする? 神戸。

ラ リーガ(スペイン1部リーグ)第17節。

レアル ソシエダ(ホーム)は、3 – 1 で アスレティック ビルバオに勝利した。

ダビド シルバからのキラーパスに反応した久保 建英は、ビルバオのディフェンダーを交わすと、チーム2点目となる、美しいゴールを決めた。(☞ DAZNハイライト動画はこちら)

これを観ると、久保がナショナルチームでいまひとつ輝けない理由は、彼を含め、けっこうなタレントが集められているものの、各個が、絶対的信頼感で使われていないことにありはしまいか?

つまり、チームとしてキッチリと彫り出されていない、そんな気がします。

さて。

(初代ダンスマネジャーは神戸からやってきたんだが)

ゲーム3週間前になって発表された、ヴィッセル神戸とのプレシーズンマッチ(2/4 土曜日)。

このゲームがセッティングされた経緯に興味は尽きないけれど、はて?、現地観戦、どうしようか?

ノエスタ。

ビジター席チケット価格は、3,000円。

いまだ、2013年10月の惨禍 ( 0 – 7 )を、心的外傷として持つ家人には、

現地行きの可能性をそれとなく匂わせてはいるのですが。

(まさか。神戸、あの大勝に、味を占めているのかいな)

山雅は、1次キャンプ(@串本町) 打ち上げ直後の、開幕までちょうど一箇月。

対し、ヴィッセルは、開幕まで 2週間。

双方、チームとしての仕上がりがかなり違うところへもって来て、当方は、キャンプで追い込んだ疲労もあることだろうから、ゲームに向けた調整など二の次だろうし。

ま、それでも、追ってトレーニングマッチも予定されているので、

チームの輪郭を造形していくひとつの過程として観るならば、それなりに価値があるだろう。

……などと、いろいろ思案の最中なんです。

では。

内容か結果か? を問うことのむなしさ。

― 内容と結果、その二兎を追い求める。

チーム山雅の指揮官が語った言葉。

まことに、ごもっとも。

というより、内容と結果、いづれかを獲るなんていう世界が、果たして本当に在るのかいな?、とつねづね思っています。

他にも、たとえば、量か?、質か?、といった二者択一論も、そう。

量を伴わない質などありませんでしたし、量は突き詰めれば、質に転化します。
僕の経験からすると。

願わくば、内容のサッカーとは?、結果を求めるサッカーとは?、それを、それぞれ示してもらいたいもんだ。

でないと、論評もなにもできないではありませんか。

素人目ではせいぜい、

こういうことを追求したかったんだけど、モノにできなかったゲームがあったり、すこしも狙いは果たせなかったけれど、ひょんなことから勝ちが拾えた、あるいは、負けを回避できた、そんなのが現実ではあるまいか。

観ている側からすれば、

サッカーとは、手が使えない以上、宿命的に、危うく、不安要素満載の戦いであって、

一体、なにをやりたいんだか?!、といった言葉が終始口をついて出てくるようなゲームでなければ、まづは、楽しめます。

それが証拠に、カネ返せ!!、と罵倒したくなるゲームは、かならずしも敗戦にあらず、です。

せいぜい、〈勝ちにこだわる〉で、いいんじゃあない?

では。

悲しき恋のはずなのに 『SUKIYAKI』

上を向いて歩こう、という日本語題名がある。

けれど、ここでは、SUKIYAKI

国境を越えて愛唱される魅力が在るらしいのだ。

それがなんなのか?、僕には、正直わかりませんけどね。

失恋の唄。

かつての嬉しい日々を、今は、泣きながら歩いては、星空を仰いで想い出す。

鼻濁音が、これほど耳に心地良いのは、この国ではもはや、かような発音が稀になってしまった、ということなんでしょう。

(ただし、あまりに鼻に抜くような歌唱法が、作詞者(永 六輔)の激怒を買ったとか)

 

では。

スローガンで 手こずる件

― なんだったけ?、あれ。脊椎損傷、ではないし、うーん……。

〇〇〇〇。 聞くに、二ノ宮 尊徳の言葉らしいですよ。

― ああ、それそれ。

……、と会話をしたのが、一昨日。

確かに、なかなか覚えられない車のナンバーを、なんとか思い出そうとしているような、要らぬストレスが溜まるコトバではあります。

こういうのを、罪作り、という。

でも、まぁ、いいや。

実際のゲームを、スローガンでやるわけでもなし。

近年の山雅、その戦績は、スローガンを裏切りまくっていることでもあるし。

いっそのこと、〈竜頭蛇尾〉とでもしておけば、シーズン終了時の無念も、すこしは笑い飛ばせるかも知れないし。

与太な話は、さておいて。

〈手鞠〉とは、考えた着想と思うけれど、地味なセンスは、山雅らしい。

僕にはむしろ、アウェイ用の、緑地に、白い三本線が、くっきりと精悍に映える。

あれが、好ましい。

購入のお許しも下りたことでもあるから、

これに 背番号 #48 (藤谷 壮) をあしらおうかしらん?、と思案中。

川鍋 良佑、星原 健太、小手川 宏基、と続いたタレントたち (from ギラヴァンツ北Q) を忘れないためにも。

では。