妻と夫をつくること。

伊丹 万作 (1900~1946 ) を、ご存知だろうか?

(もちろん、萬年の名は、彼から思いついたのではありません)

映画監督、シナリオライター、俳優にして、文筆家。

多才な御方だったけれど、戦後すぐ、46歳で病没。

奧様のキミさんのほうは、2004年に 満100歳で亡くなった。

僕は、この度はじめて、万作の著作を読んだけれど、『戦争責任者の問題』(1946年8月『映画春秋』掲載) などは、平明な文体でありながら、かなり読み応えがあった。

あれから80年経つが、この国の民として、伊丹が、この中で提議している戦争責任に関し、いまだ明快な答えを出し切っていないからよけいに、示唆に富むエッセイだ。

こういう文章を、高校あたりのテキストに乗せたらいいのに、とつくづく思う。

そういう教育が蓄積すれば、
例えば、NHKのドラマの中、主人公とその身内だけは、あの戦争について反戦思想を抱く人間だった、などという薄っぺらい平和主義など一掃されるだろう。
(機会があれば、別に書きます)

で、実は、ここまでは、前置きでして。

ついでに読んだ『わが妻の記』(18946年4月発表)には、いやぁ、参ってしまった。

最後の部分を、そのまま抜き書くと。

〈考えてみると、何とかして妻を自分の思うように変えてみたいという気持ちが私にある間、私の家ではあらそいの絶え間がなかった。しかし、そのようなことは所詮人間の力でできることではないと悟ってからはむだな努力を放棄したから、今ではほとんどけんかがなくなってしまった。
つまり、亭主というものは、妻をもらうことはできるが、妻を作ることはできないらしい.。〉

当時よりもフェミニズムが進んだ今、僕は、次のように付け足さなくてはならぬ。

― つまり同じように、妻というものは、夫を得ることはできるが、夫を作ることはできないらしい、と。

余談ですが、伊丹 十三  (1933~1997 俳優、映画監督)は、この夫妻の長男です。

では。

得点にフォーカスせよ。


(版権帰属先: オフィスウエストウッド)

鹿児島キャンプも、いよいよ明日で打ち上げ。

松本へ戻っても、かりがねの天然芝は、まだ使えないのでは?

ならば、近畿あたりで開幕に備えたほうが、効率的ではなかろうか?

さて、20日月曜日には、ロアッソ熊本とトレーニングマッチをやったのを、2日後くらいに知った次第。

19日はコンサドーレ札幌とやっていたから、連日なわけで、これだと、ほぼ全員をゲームに投入したことだろう。

相手も公式戦翌日だったので、控え中心だから、結果に一喜一憂するようなことでもないけれど、

すべてのプレイヤーの出来、技量、戦術貢献度をみられたのならばけっこう。

得点もできていて、狙った形からならば、なおのこと良い。

ロアッソの現監督は、大木氏のはず。

そのサッカーは極めて攻撃的。

で、ピッチに敢えて濃淡をつけるようにして偏りを生じさせて戦う印象がある。

ある部分では細かくパスでボールを動かしておいて、ここぞとばかりに、サイドチェンジして、大胆にサイドを割ったり、クロスで急襲したり、そんな感じ。

聞けば、2部リーグにあっても、今季前評判はいい様子。

トレーニングマッチが、そんな様相を呈したのかは存じませぬが、

大木サッカーで輝いていた、工藤、安藤、田中パウロ、そんな面々を懐かしく思い出しています。

では。

長短の 哀歓 その❷

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨のふる      子規 (1900年 作)

万葉集を、たまあに読む。

五七調で言葉が、10回くらい繰り返される〈長歌〉がデンと在って、

その後に、五七五七七の〈反歌〉あるいは〈短歌〉が、1~2首、おまけみたいに続く。

長歌は朗々と、スメラミコト(天皇)や皇子の世の、秀麗さなどが謳われる。

きっと、声に出して詠まれることを予定されていたのだろう。

対し、反歌、短歌は、長く続くフォーマルな賛辞である長歌への、お口直し的な返し、総括のようなものとして感得されるような効果を狙っているなと、1,200年後の読者にも感じられる。

忘却の彼方ではあるが、高校の国語では、こういった味わい方を習った覚えがまったくない。

今は、どうなんだろう?

国語の教師はあいかわらず、現国では中途半端な文学趣味を織り交ぜ、

古文では、受験対策みたいな現代語訳ばかりさせているんだろうか。

 

で、本来はオマケ的存在だった短歌が、万葉の頃に既に独り立ちしてしまったから、

日本においては、叙事詩の伝統は途絶えてしまい、

詩とはそのまま、抒情詩を志向するようになった、というのが僕の考え。

小説の隆盛で隅に追いやられてしまったとは言え、この国ではもともと、詩と詩人が尊ばれない大きな理由が、ここにも在ると思われる。

短歌は、叙景と叙情(感慨) は掬い取れるかも知れないが、社会を撃つ武器としては、とても弱い様式だ。

だから、或る情景を詠んだ短歌を、これはこういう情景を描いてはいるが、背後には作者の、こういう社会的、時代的欲求、関心が隠されている、などといったもったいぶった、ホントかいな?、と言いたくなる解説を読まされる憂き目に遭う、僕たちは。

では。

長短の 哀歓 その❶

 寝て解けば 帯ほど長い ものはなし (柳多留より)

江戸時代の川柳です。

あと30年、一世代も過ぎれば、感覚的には 死滅する風情でありましょう。

露国大統領が演説をおこなって、それに 2時間を要した、という。

ひとりの人間のスピーチに サッカーゲームと同じ時間をまるまるつきあうとは、さぞかし聞き手にとっては、苦痛なことに違いない。

画面を観る限り、メモをとる者は皆無だから、これといって新鮮な内容でもなさそうなんで、まさに、儀礼的なお付き合いのために、そこに居るわけだ。

こういった主に国内向け宣伝のための手続きが、為政者の仕事であるなら、独裁的な体制も時には、民主制と同じように非効率な一面を持つ。

さて。

昨年のワールドカップでは、ゲーム中断が厳密に計測されたおかげで、アディショナルタイムが、多くのゲームで 7分間以上、というのがザラだった。

VAR(ヴィデオアシスタントレフェリー)の導入と同じように、人間の能力(たとえば、視覚)の限界をおぎなうといった考え方がその根底に在ると思う。

よりフェアなジャッジを、というのが狙いだとしても、僕は、この流れには懐疑的。

(人種差別に聞こえると心外だけれど)だいたいがこういう発想は、潔癖な日本人がしていればいいんであって、世界的スタンダードに取り込もうってのが、ある意味、独裁的ではないだろうか。

それより先に手をつけるべきは、レフェリーの笛に対する、プレイヤーやベンチによる、公然で露骨な抗議の風土を失くしていくことだろう。

アディショナルタイムにしても、かなり意図的な中断を許容しているからこその、帳尻合わせの、消極的な仕組みであって、

ラグビーやバスケットボールでは、ジャッジへの不満表明でゲームが〈止まる〉ってことがあるのをあまり観ませんが、何故でしょうかねぇ。

では。

ひょっとしたら,今がベスト?

まさか。

でも、半分冗談で、半分本気、ってところでしょうか?、このタイトル。

リーグ開幕まで、あと2週間。

今だったら、勝手にどんな画も描けるし、自由な想像に浸ってもいられる。

休みの前日がいちばん嬉しいのと、一脈通じます。

 

― 奈良は、どうします?、と職場でヤナさんに訊かれ、

― 行きますよ!!、修学旅行以来、なんてね。

山雅のはじまりは、アウェイ3連戦。

なので、ファン&サポーターにしてみれば、財政および日程と相談しながらの、取捨選択となるだろうから、
あおによしの地には距離からして、そうだな、1,000人くらいの参戦でしょうか。

今はただ、アウェイ、ホームを問わず、自分に、ふたつの姿勢に陥ることを禁じようと思っております。(再三の繰り返しで、申し訳もありません)

❶ややもすると、印象として美化されやすい先祖帰り(過去への郷愁) には与しない。
現状の身の丈から、どれだけクオリティを高められるのか?、がチームの自己に課した使命ならば、ひたすら、称賛と批評によって、それを支える。

❷〈勝った者が強い〉といった、思考停止の一元論には逃避しない。

地力とか、(発揮するのが可能と思われる)能力と呼ばれるもの。
そこにおける彼我の差はたしかに在ることを認めたうえで、では、どうやってこのゲームをモノにするのか?

山雅はリーグで決して見劣りはしないけれど、3部リーグの各チームは、凄まじい速さで、成長もしている。

持てる力と、その発揮、といった、いわば二元論に立つ。

昨季の轍を踏まないためには、とにかく、このふたつの齟齬を減ずるゲームコントロール(初動と修正) が、冷静に遂行されねばなりません。

38ゲームすべてにおいて。

とにかく、あと2週間。

では。