長短の 哀歓 その❶

 寝て解けば 帯ほど長い ものはなし (柳多留より)

江戸時代の川柳です。

あと30年、一世代も過ぎれば、感覚的には 死滅する風情でありましょう。

露国大統領が演説をおこなって、それに 2時間を要した、という。

ひとりの人間のスピーチに サッカーゲームと同じ時間をまるまるつきあうとは、さぞかし聞き手にとっては、苦痛なことに違いない。

画面を観る限り、メモをとる者は皆無だから、これといって新鮮な内容でもなさそうなんで、まさに、儀礼的なお付き合いのために、そこに居るわけだ。

こういった主に国内向け宣伝のための手続きが、為政者の仕事であるなら、独裁的な体制も時には、民主制と同じように非効率な一面を持つ。

さて。

昨年のワールドカップでは、ゲーム中断が厳密に計測されたおかげで、アディショナルタイムが、多くのゲームで 7分間以上、というのがザラだった。

VAR(ヴィデオアシスタントレフェリー)の導入と同じように、人間の能力(たとえば、視覚)の限界をおぎなうといった考え方がその根底に在ると思う。

よりフェアなジャッジを、というのが狙いだとしても、僕は、この流れには懐疑的。

(人種差別に聞こえると心外だけれど)だいたいがこういう発想は、潔癖な日本人がしていればいいんであって、世界的スタンダードに取り込もうってのが、ある意味、独裁的ではないだろうか。

それより先に手をつけるべきは、レフェリーの笛に対する、プレイヤーやベンチによる、公然で露骨な抗議の風土を失くしていくことだろう。

アディショナルタイムにしても、かなり意図的な中断を許容しているからこその、帳尻合わせの、消極的な仕組みであって、

ラグビーやバスケットボールでは、ジャッジへの不満表明でゲームが〈止まる〉ってことがあるのをあまり観ませんが、何故でしょうかねぇ。

では。