風の強い日に 想ふ。

おとといは、終日晴天の下、強い風が地表を渡っていた。

あれは、やがて落ちるべき金木犀の葉っぱを、いさぎよく落としてしまうために吹いた、春何番かでありました、僕の周りでは。

庭で空を見上げていたら、ベン シャーン (1898~1969) には、風の強い日、という題の画があったな、から連想が始まり、

ジョン メイヤー (1977~ ) の
『Waiting on the World to Change』(2006年発表)が、想い出される。

2008年頃に、この歌が収められたCDを手に入れて、よく聴いていた。

世界が変わるのを待つ

僕や友達はみな 誤解されている
信念もなく  手立ても持っちゃあいない って
でも 世界と先頭に立っている者を見てみろよ
すべてが悪いほうに向かっているんだ
で それを叩くに 僕らは無力を感じているんだな

だから 世界が変わるのを待ち続ける

体制を叩くのは  むづかしい
中枢から遠くにいれば なおのこと
だから 世界が変わるのを待ち続けている

もし 僕たちに 権力 ってものが有れば
戦場から隣人を連れ戻そう
誰も 寂しいクリスマスを過ごすこともなく
ドアのリボンもなしさ
テレヴィジョンを信用するのかい?
連中は情報を独り占めにして
好きなように捻じ曲げているんだぜ

戦いはフェアじゃあない って
誰もが思っている
世界が変わるのを待ち続けながら

いつの日か 僕らの世代が
この世を治めるだろう
それまで 世界が変わるのを待ち続けるんだ

楽曲としても秀でていて、かつ、社会へのメッセージ性に満ちた曲。
ウクライナで起きている事態で、なおさら切実に迫る。

音楽と政治、といったらとても硬い話になるけれど、

音楽に、社会を動かす力を託すのは、聴く者(=受容者)の主体性が否定されないかぎり、成り立つ話だと思う。

では。

聴いていない 孤独。

一軒おいた隣に住まう、ご高齢の婦人。

4年ほど前、旦那さんが急死して以来の独り暮らし。

おそらくは、 80歳前後でいらっしゃるはず。

もう付き合い切れないと、町会も脱退した、とのことなので、

毎月の広報〈まつもと〉をポストに投げ込んだり、玄関ドアがレールから外れっちゃった際は、ご婦人からSOSがあるから、チョイとでかけて行って、直してあげたり。

で、詮索もする気もないから詳細は不明なるも、お子さんが遠方にお住まいらしい。

万が一、ご婦人の身になにかが起きて、お母さんと連絡が取れなくなってしまうのも切ないだろう。

差支えなければ、我が家の固定、または、萬年の携帯を、お母さんから娘さんに伝えておいてもらい、いざとなったら、娘さんが、ちょっと見て来てくれないか?、と当方にアプローチできるように提案しておくのも手よ、と家人に言われ、たしかに、そうだよね、となった。

或る日、僕が畑で鍬をふるっていたら、ご婦人、上の田んぼ道をこっちに歩いていらっしゃる。

まづは挨拶で始まり、どうでもいい話がしばらく続き、

やおら、これが良い機会と、万が一の緊急連絡網の準備について、それはそれはやさしい言い回しで 相手の反応をみながら、何度かくりかえして提案してみる。

こっちの言い方が柔らかすぎたのか、そのことについての乗り気、賛否のお答えはなくて、そのかわり、

実は、夫の死をいまだ彼の家系には伝えていないから、いまだに、亭主あてに年賀状が3枚届く、とか、親しい人が近くに在ってたまに行き来はしている、車の運転も少なくしたいからできるだけまとめ買いだ、そんなような話が続いた。

焦点のテーマに、今は、真正面から答えたくないのだろうか、つまりは態度を保留したいのか?、この御方、と考えあぐねはしたが、この場では認否の回答は出て来そうもないから、適当なところで、
では、気をつけてね、で世間話は打ち切り。

この提案、結局、どうなるのか、あまり切実に考えても詮無いが、

ふと、この婦人、人が話している時、それを聴いているのではなくて、その間、次に自分が話すことをひたすら考えているんだろうな、と思いついた。

つまり、目の前に居る者は、時に自分の発声をさえぎる鏡のようなものであって、終始、喋りつづけている自分が在る。

そういう時こそ愛が必要、とは思うが、会話が成り立たないのは、辛い。

では。

奈良で 泣かないために。

― いよいよ開幕ですね!!、とスーさんに、

― 山雅、今年はどうなのよ?、とヴァンさんには、声をかけられる。

たとえ、話のつなぎにせよ、関心をお寄せくださるのは、まことにありがたいことではあります。

でも、未だ、新しいチームを目の当たりにしていないので、なんとも返答しがたいところがあり、努めて平常心をたたえながら、

― すくなくとも、昨季(4位) 以上の戦績を待望。
で、それが 2位内ならば、文句なしです、とお答えしている。

地元紙を一切購読していない僕のことだから、番記者情報にも疎いので、ポジション競争の実相などは、皆目霧中。

ただ、レンタル身分は、たしか、滝 裕太(from エスパルス) ただひとりのはず。

滝にしたって、選手生命を賭けるところまで自分を追い込んでの、山雅移籍に違いない。

そこにこそ、ここからの継続性を重視する編成意図を感じていて、やがて積み上がっていくチーム資産(タレント、練度、一体性)を、来年、雲散霧消はしまい、とするクラブの意思を感じます。

ここ数年山雅をウオッチしていない御方すれば、すっかり別チームでしょうし、変わるなら、とことん変われ。

で、日曜日の奈良行き。

人口40万人を抱え、観光が売り物の街のことだから、全体としての駐車スペースには余力があるんだろうけれど、

どうも、スタジアムへの(駐車場を含む)アクセスには、あまり自信がないような印象。

奈良 泣くよ (794年平安遷都) じゃあないが、

現地で憂いなくゲームを楽しむ第一歩が、より良好なアクセスの確保でありますから、どうやって辿り着こうかと、いろいろと思案の最中です。

では。

なんだか呑気過ぎないか。

夕食時、TVが点いていたので、これ、なんの番組?、と訊ねたら、

―今のは再放送。今年は、徳川家康を扱っているのよ、と家人の返事。

あぁ、一年かかって歴史物をやるNHKのあれね。

― 今年こそは観ようと思っていたんだけど、やたらと怒鳴りまくってる物語で、もううんざり。

なんだ、たった2箇月で、食傷ですか?

見映えはちょんまげを結ってはいるものの、現代人がそのまま出て来て動き回るんだろうから、僕は、それだけでもう、あまりつき合う気にもなれない。

というより、ウクライナ戦争が続いているようなご時勢では、

当初のシナリオは、当然見直さざるを得ないはずであろうし、

よほど巧く〈合戦〉を描かなければ、白々しい嘘事が、余計に見え透いてしまう。

では。

積雪は どれほどだったのか?

1936年 2月26日。

今から、ちょうど87年前の早朝、

陸軍の若手将校の一群が、 1,500名の指揮下部隊を使って、東京府下、霞が関、永田町辺りで武装蜂起。

政財界の要人(複数)を襲撃し、これを殺傷するテロリズムを敢行した。

クーデータによる国家改造をめざしたものの、〈叛乱軍〉として鎮圧される。

テロの騒ぎは3日間にわたり、結局は、クーデターは未遂に終わる。

叛乱軍との決めつけは、昭和天皇の(激怒をともなう)明確な裁定であったから、結果、首謀者は自決した者をのぞけば、処刑された。

さて。

この事件の描写はおおかたが、東京が大雪を見舞った、その朝という書き出しで始まったりする。

これだと、前夜にドカっと降雪があった、となんとなく頭に入ってしまうんですが、では、実際はどうだったのか?

いまわかる範囲では、次のようなもの。

(まるで2014年2月の甲信地方のように)この年の2月、東京は、史上稀な大雪であったことは確かで、

2月4日、32㎝の積雪。
ついで、23日にも大雪があって、積雪 は 36㎝に。

で、事の起こった26日朝には、12㎝の残雪の上に、再度の降雪があって、最深で22㎝の積雪となっていた。

(前夜から)26日朝の、実際の降雪は、これだと、10㎝程度か。

その雪を踏んで、叛乱軍が要人殺害に向かって移動した、ということになる。

事件の頃、東京は、大雪の 2月を過していた、で間違いはなく……、

それが、どうした?、と言われても、ただそれだけのこと、なんですけれどね。

では。