聴いていない 孤独。

一軒おいた隣に住まう、ご高齢の婦人。

4年ほど前、旦那さんが急死して以来の独り暮らし。

おそらくは、 80歳前後でいらっしゃるはず。

もう付き合い切れないと、町会も脱退した、とのことなので、

毎月の広報〈まつもと〉をポストに投げ込んだり、玄関ドアがレールから外れっちゃった際は、ご婦人からSOSがあるから、チョイとでかけて行って、直してあげたり。

で、詮索もする気もないから詳細は不明なるも、お子さんが遠方にお住まいらしい。

万が一、ご婦人の身になにかが起きて、お母さんと連絡が取れなくなってしまうのも切ないだろう。

差支えなければ、我が家の固定、または、萬年の携帯を、お母さんから娘さんに伝えておいてもらい、いざとなったら、娘さんが、ちょっと見て来てくれないか?、と当方にアプローチできるように提案しておくのも手よ、と家人に言われ、たしかに、そうだよね、となった。

或る日、僕が畑で鍬をふるっていたら、ご婦人、上の田んぼ道をこっちに歩いていらっしゃる。

まづは挨拶で始まり、どうでもいい話がしばらく続き、

やおら、これが良い機会と、万が一の緊急連絡網の準備について、それはそれはやさしい言い回しで 相手の反応をみながら、何度かくりかえして提案してみる。

こっちの言い方が柔らかすぎたのか、そのことについての乗り気、賛否のお答えはなくて、そのかわり、

実は、夫の死をいまだ彼の家系には伝えていないから、いまだに、亭主あてに年賀状が3枚届く、とか、親しい人が近くに在ってたまに行き来はしている、車の運転も少なくしたいからできるだけまとめ買いだ、そんなような話が続いた。

焦点のテーマに、今は、真正面から答えたくないのだろうか、つまりは態度を保留したいのか?、この御方、と考えあぐねはしたが、この場では認否の回答は出て来そうもないから、適当なところで、
では、気をつけてね、で世間話は打ち切り。

この提案、結局、どうなるのか、あまり切実に考えても詮無いが、

ふと、この婦人、人が話している時、それを聴いているのではなくて、その間、次に自分が話すことをひたすら考えているんだろうな、と思いついた。

つまり、目の前に居る者は、時に自分の発声をさえぎる鏡のようなものであって、終始、喋りつづけている自分が在る。

そういう時こそ愛が必要、とは思うが、会話が成り立たないのは、辛い。

では。