優しさと皮肉と『卒業』(1967年)

映画の原作(小説)を書いた、チャールズ ウエブは、昨年6月に、81歳で亡くなった。

監督は、マイク ニコルズ(1931~2014年)

(彼の作品ならば、実は『キャッチ=22』(1970年)のほうが好みです)

メガホンをとった当時、マイクは 35歳。

自身が既に青春の真っ盛りを過ぎていたためだろうか、自分より少し若い年代への兄貴分的な優しさが、この作品には漂っている。

そして、主人公とミセス ロビンソン(アン バンクロフト)の情事は、醒め切った眼で描かれた。

〈和解のない〉世界を、親しみと、苦い皮肉を織り交ぜて撮る姿勢。

それが作品を、魅力的なコメディーに仕立てたな、と思う。

萬年は、作品を観た当時、米国の東海岸アイビーリーグと、ウエストコーストUCLAの、雰囲気のおおきな違いを感じておりました。

原題『The Graduate』とは、卒業生のこと。
それを卒業、と訳出したのは、かなりのセンスですよ、これ。

目標のない怠惰な生活からの卒業、という結末をも暗示していて見事。

ラストシーンは、とみに有名。

バスに乗り込んだカップル(ダスティン ホフマンとキャサリン ロス)の将来がかならずしもバラ色でないことを暗示するため、監督は、カット!の発声を、敢えて遅らせることで、俳優が見せる独特の表情をとらえようとした、といいます。

主人公が画面の向こうに去っていく、ってのは、チャップリンも多用したように、もともとハッピーな終わり方ではない。

ならば、そのラストを楽しみながら、検証してみましょうか……。

 

 

では。

【挽歌】クロリス リーチマンに捧ぐ

女優のクロリス リーチマンが、1月27日に亡くなった。
1926年生れの、享年94歳。
老衰の、大往生だったようだ。

萬年が、リーチマンを認めたのは、『ラストショー』(The Last Picture Show 1971年)と、『ヤング フランケンシュタイン』(Young Frankenstein 1974年)の、ふたつの映画だった。

特に、ラストショー。

1971年はキネマ大収穫の年であったから、〈令和キネマ座〉トップ10では、たまたま選外となってはいるが、同等の評価を与えるべき作品かも知れない。

その映画の感想は、いつ(何歳のどんな時に)、どこで(または誰と)観たか、という個人的な事情に決定的に左右される。

なので、ラストショーのように、滅びゆく、ゴーストタウンに近いような、辺鄙な街の青春群像が描かれていると、評価は、なおさら大きく別れて当然だ。

たとえば、テキサスの空っ風が渡っていく、閑散と寂れたメインストリートを、カメラが、左から右へとなめていくシーン。

これひとつとっても、ご鑑賞になるあなたの年代(=人生経験の集積)によって、景色の見え方が、よっぽど変わってくるだろう。

それはさておき。
この作品の良さは、観てわかっていただくしかありませんが、
ここでは、役者陣の充実した演技に脱帽、とだけ申し上げておきましょう。

ティモシー ボトムズ、ジェフ ブリッジス、シビル シェパード、ベン ジョンソン、ㇰロリス リーチマン、エレン バースティン、アイリーン ブレナン、ランディ クエイド…、これだけ並べてみても、おそろしくなるほどの芸達者ばかり。

よくこれだけ集めたもの、と感心するけれど、実は、ㇰロリスにはゴメンナサイ。

萬年的にはここでは、アイリーン ブレナン(1932~2013年)の演技に、いちばん惹かれる。

『スティング』(1973年)で、ポール ニューマンの情婦役を演ってた、と言えば、ピンと来る方もいらっしゃるか。

アイリーンには、『プライベート ベンジャミン』(1980年)の、ルーキー兵(ゴールディ ホーン)に、さんざ振り回される鬼大尉役があって、これもおすすめ。

ラストショーは、130万ドルの製作費。
対し、2,900万ドル超の興行収入。
脚本と役者以外には、大したお金をかけていない、という意味で、模範的なヒット作なのだ。

作品40周年を記念して、監督(ピーター ボクダノヴィッチ)と4人の出演者が集ったリユニオン(同窓会)めいたパネルディスカッション(2011年頃)を観たことがある。
杖をついてそろりそろりと登場するクロリスを、皆が次々と抱擁するシーンには、泣けた、泣けた。

心の中で、老いることの魅力と迫力に大いに感涙した、のであります。

では。

或る変節を喜ぶ (寅次郎論ひとつ)

先日、居間を通り過ぎようとして、フトTV画面を見ると、『男はつらいよ』のいちシーンであった。

ドサまわりの歌手リリー、こと浅丘 ルリ子と、船越 英二郎。
とくればシリーズ第16作『~寅次郎相合い傘』(1975年8月公開) か……。

―ほお、あなたが、ねぇ。

車 寅次郎の、直情径行的な粗暴さに我慢ならず、ゆえに、この作品集も好まなかったのではないかい?、と言外に匂わせても、

―この前は、光本 幸子がマドンナの作だったわ、と平然としている家人。

―うん、それ第1作。だから初代だね。御前様(笠智 衆)の娘という設定で。

さらに、その数日後、ふとした折に、『~お帰り 寅さん』(2019年12月公開) もご覧になった、とのご託宣なんである。

―倍賞 千恵子の老けようには驚いたわ~。
でもね、根っからの寅さんファンだと、この作品の評価は、ずいぶんと割れるんじゃあないか知らん?
渥美 清はもういないんだし、ゆかりの人たちがオンパレードで出てきてもねぇ。
なぜ?、今さら、って感じ……。

―やはり、お金(興業収入)がいちばんなのかな?
松竹は、『釣りバカ日誌』シリーズが2009年で終了して以来、盆暮れのヒット作もないから、ここでひとつ、ということかもよ。
でもさ、監督の力量などからすれば、そこそこ安定した作品にはなるんだろうが、やっぱりさ、進退を賭けるようなチャレンジを、作品には求めたいな。

だいたいがね、寅の甥っ子が小説家になってる、なんて設定が、良いとこ取りで、安易に過ぎませんか?

……、とまぁ、いまや我が家では、当シリーズに関するかなり深~い評論が飛び交っている。

思うに、これも、つーさんや、ジョー氏の映画通から、インスパイアをいただいたゆえ、と感謝しているんです。

ところで、前回記事では、1920年を持ち上げたんだが、ミヤコ 蝶々(1920~2000)を失念してしまったので、ここに追記しておこう。

蝶々は、この寅さんシリーズで、寅次郎と生き別れになった実母を演じた。

で、渥美は、1928年生れ(~1996)であるから、このふたりの実年齢差は、たったの8つ。
そのふたりが、親子を演じてみせたわけ。

果たして、蝶々が老け役に徹していたのか、あるいは、渥美が若く見えるのか

そんなつまらんことで悩んでいる。

では。

1920年よ 自らを誇れ。

1920 (大正9)年に生まれたのが、原 節子(~2015) と三船 敏郎(~1997)。

ゆえに、この年に、日本映画は、おおいに感謝すべきなのだ。

昨年は、彼らの生誕100年だった。

記念上映のプログラムも行われたようだが、COVID-19禍によって、世間に周知されるほどには話題になっていない(残念)。

ふたりが共演した作品は、四つある。

『白痴』(1951年)、『東京の恋人』(1952年)、『愛情の決算』(1956年)、『日本誕生』(1959年)が、それ。

先日、そのうちの一本、『東京の恋人』を家で観た。

敗戦からたった数年、銀座もすこし裏へまわると瓦礫が残るような東京だけれど、人々はなかなかに洒落た服装をしていて、そのことが、家人にとっては驚きだったようだ。

これひとつ採っても、先の大戦(とその敗戦)の意味が、戦後生まれの僕らにはどうもよく実感されていない、ってことが、今頃になって痛感される。

この戦争で、日本の何が死んで、何が生き残ったのか、そして、生き残るべきものは何だったのか、ということ。

その意味で、僕らの親たちの世代は、あの戦争を上手く伝えきれなかったように思う。

戦争は悲惨なり、ばかり。
加えて、教師からは、長き侵略戦争と平和主義一辺倒の話しかなかった。

責めちゃあいないけれどね。

閑話休題。

この映画、ほろ苦いラブロマンスなんだが、三船のいかにも実直な役作りと、原の、生成りな演技が心に残った。

特に、原という女優の良さが、萬年が観た作品中では、いちばん伝わってくる。

ほかには、小泉 博(1926~2015)という役者の価値。

それに、十朱久雄(1908~1985、十朱 幸代の父) の芸の根源は、ありゃ、落語の間(会話の妙)だね、ということがよくわかった。

『荒城の月』や、跳ね上げ式の勝鬨橋が効果的に使われていて、丁寧な脚本に親しみが涌く。

東京の郊外(山の手)の、空襲による無残な跡地に、月がボーっと上がる光景。

それが、あんなにおとぎ話のように美しいのは、何故なんだろうか?

では。

超預言作! 『家族ゲーム』(1983年)

― 家でもね、マスクをするべきなのよ。

ついに、家人がこう言い出すところまできたか、このパニック。

誘導された騒擾によって、なにがなんでも感染防止、がはなはだしいけれど、角をたわめて牛を殺す、って領域に入りつつあるかも知れない。

コロナ怖しの一辺倒でやったあまり、生活そのものが崩壊する、ってこと。

もう相手はウイルスそのものではなく、人間の描いた幻想っぽいな。

やる/やらないの限界点を一向に明確にせず、限界に近い困った困った、などと言ってオドすばかり。
だから、ナショナルおよびローカルのリーダーは、ますます信頼を失くす。

いまや、拙宅では、スーパーマーケットへは敢えてふたりして行かない。

テーブルの片側に、ふたり並んでの食事ですよ。

この前など、間仕切りを作って置こうか、なんて話にまでなった。

あぁ、これ。
映画『家族ゲーム』が、40年も前に透かせて見せてくれた、互いの信頼を喪失した家族が向かう、食卓風景そのもの、ではありませんか。

深刻な話題になると、家から出て車の中に座り、前を向いたまま相談する中年夫婦(伊丹十三、由紀さおり)の姿もまた、預言的だった。

ホンネのところですでに破綻している家庭に、大学7年生の家庭教師(松田 優作)が入り込んできて、トドメを刺すさまを描いたコメディ。

萬年ランキングでは、11~20位あたりに入っています。

松田のコメディアン的な要素が、新鮮。

だが、オロオロと定見なき母親を演じた由紀さおりの演技に、いちばん惹かれる。

では。