五月の 主役。

五月雨(=梅雨)が、つい、そこまでやって来ている。

麦畑では、矢車草の花が盛んだ。

この時季、他愛の無い語呂合わせなんだけれど、梶 芽衣子を想い出す。

メイ(May)、ってことで。

ご本名そのままの、旧芸名は、太田 雅子。

高校を卒業してすぐにデビュウした年の、『赤い谷間の決闘』(1965年12月29日公開、66年正月映画として封切り) に、たしか、桂小金治の娘役で出ていた。

(『シェーン』を下敷きにした、裕次郎、渡が共演した日活アクションの、第2弾!!)

これが、僕が彼女に、銀幕でお遭いした最初。

そこから60年、女優としての誕生から現在まで、時代的には、松本山雅とピッタリ符合する女優人生、と憶えておけばよい。

この御方、歌い手としても一流。

こうも見事に歌われた日には、歌い手のほうが困るだろうけれど、そうなったら今度は、歌手が役者としてひとつの境地に達すれば、いいのか……。

ただし。

きょう日は、歌い手、役者、どっちも三流なのが多過ぎて、始末に負えない。

では。

ツバメに のり平を。

日記にでも書きつけておかないと、忘れてしまうことだらけ。

と、いうことで、隣家のツバメ(夫婦) が、今月11日に飛来したことを記す。

庭を動いている僕の様子を、早速、電話の引き込み線にとまって上から眺めているので、

― やぁ、お互い生き延びて、また、会えたよね、と声に出して挨拶する。

野鳥にも霊はあるのだから、きちんと言葉にして伝えるのが、礼儀だ。

ところで、その4月11日とは、三木 のり平 (1924 ~ 1999年、享年74 ) の 誕生日。

だから、あのツバメは僕に、のり平を偲ぶという贈り物をしてくれたわけ。

ここで僕がわざわざ強調しなくとも、喜劇役者としての卓越は、世間がわかっていることは十分に承知。

40数年前の〈徹子の部屋〉で、司会の黒柳が、ゲストの三木を半分マジメ、半分大げさに〈喜劇王〉、と紹介しているくらいですから。

小林 信彦 著『おかしな男 渥美清』(2002年 新潮社刊)には、こういうくだりがある。

1962年のこと、小林が、渥美に、
― 三木のり平は、なぜに仲間うちで受けるんだろう?、いっときほど面白くないと思うが?、と水を向けた。
すると、渥美は、ズバリと、こう断言した。

―肩の線だね。あのなで肩の感じが、プロ(俺たち)にはたまらなく、おかしい。

肩の落とし方で、おかしみを表現できるのか。奥が深いなぁ。

でも、まぁ、いいや。

21世紀になってしばらくの今、それを超える役者に乏しいんだから、ここで称賛し直したところで、なにが悪い。

映画『あ・うん』(1989年)では、掏摸(スリ)役でご登場。

高倉 健 (主人公) のフトコロからまんまと抜いたあと、バッタリ屋台で一緒になる時の、なんともバツの悪そうな演技。

これは、以前にご紹介したか、と記憶しますが、今回は、座頭市(by 勝 新太郎) への出演場面を観ましょうか。

では。

『ふとした旅人』

原題は『The Accidental Tourist』。

1988年の米国映画。

邦題は『偶然の旅行者』で、見事なほど工夫がないんです、これ。

この作品が、この国であまり注目されない理由のひとつでなないか、と勘繰りたくもなるんですね。

で、勝手にタイトルのように訳出して見た次第。

旅行ガイドブックのライター役で主演した、ウイリアム ハートが、3月13日に亡くなった。(1950~2022年)

誕生日の7日前、との訃報。

享年 71歳だった

凶悪犯に息子を殺害された痛手から立ち直れないでいる主人公、という設定がまづあって、

その日常に、ふとして入り込んで来た、かなり奇妙な行動をとる子持ちの独身女性(ジーナ デイビスが演ずる)に、戸惑いながら惹かれて行く進行。

― となれば、ハートの持つ〈受け〉の演技の巧さが、存分に発揮されること、これはもう観ていて、一番のお楽しみなんです。

冒頭のシーン。

たしか、ベッドに置かれた空の旅行鞄に、パサッと、畳んだボタンダウンシャツが抛られる。

で、それが、ブルックス ブラザーズ。

最初に、主人公の趣味や素養をあらかたを示してしまおう、という脚本だ。

こういうところが、アメリカ映画らしい。

乗ってるクルマや服装でさりげなく、主人公の人となりを描写できるというのは、社会の成熟というものでしょうか?

1980代がだんだんと押し迫っていく憂鬱、そんな感じの映画を想い出しながら、一瞬の安逸に沈みたいものです。

ご冥福をお祈りしながら。

では。

バリバリの ’70s 『ある愛の詩』

1970年 (日本では1971年3月) 封切りの米映画。

原題は、Love Story。

これをそのまま訳したんじゃあ、アッケラカンと単純過ぎて、興行成績が危ぶまれたんでしょうね、きっと。

で、邦題はタイトルのごとしとなった(と推定)。

実を申せば、この作品、いままで観る機会を逸しておりました。

というよりも、敢えて観ないで過ぎた、というのがホンネ。

なんでかは、うまく説明できませんが、アリ マッグローはともかく、ライアン オニールが好青年を演じても面白くもないだろうに、と切り捨てた感じ。

単純な恋愛ドラマと決めつけているから、おそらくは、これからも観ないままだと思う。

たとえ、オニールのルームメイトとしてトミー リー ジョーンズが出ていようとも。

では、今なぜ、この映画なのか?

たまたま、ジャズ曲『Skating In Central Park 』を、また聴いてみようとしたら、フランシス レイ編曲のものが、この作品で使われているのを知ったんです。

ここで、ジム ホールとビル エヴァンスによる定番中の定番(1962年録音)をわざと外してしまうのが、萬年のいいところ。

曲がかかる映画のワンシーン。

曲の良さはともかく、これぞ1970年代の着こなし、ってのが満載でありまして、マッグローはもともとモデルさんですから当然として、画面に映りこむすべてが、これぞ、あの’70s なんです。

オニールが、ブラウスの襟をスエターの外に出して着てるのなんかは、着こなしとしてはアウトですが、時代感覚としては、最高だ!

風俗(装い) は滅びるからこそ記録すべし、というのは或る先輩の受け売りですけれど、実感ですね。

では。

準国歌の無い,寂しさ?

組織ぐるみの薬物使用が認定されて、国として、主要な国際大会から締め出しをくらった時、表彰における国歌使用も、差し止められることになった。

そこで、国歌に代わる曲を、なにか選定しなければならない。

それならば、お国のフォークソング、カチューシャを使いたいと希望した。

いやいや、その曲は、貴国を連想させることにおいて露骨過ぎる、ということで却下。

結局は、チャイコフスキーに落ち着いた、という経緯らしい。

この話を聞いて、国歌のように愛唱されている曲があるってことは、幸せなことだと思った。

自分の国には、そういうものが、すぐに思い浮かばないからだ。

80年くらい前までは、『海ゆかば』が第二の国歌として推奨されていて、なかなかいい曲だとは思うが、チト好戦的過ぎるし……。

読者諸氏には、準国歌としてお奨めの曲はありやなしや?

ということで、『Deer Hunter』(1978年、米)のエンディング、God Bless America が、およそ喜ばしくなく歌われるシーンを聴いている。

では。