バリバリの ’70s 『ある愛の詩』

1970年 (日本では1971年3月) 封切りの米映画。

原題は、Love Story。

これをそのまま訳したんじゃあ、アッケラカンと単純過ぎて、興行成績が危ぶまれたんでしょうね、きっと。

で、邦題はタイトルのごとしとなった(と推定)。

実を申せば、この作品、いままで観る機会を逸しておりました。

というよりも、敢えて観ないで過ぎた、というのがホンネ。

なんでかは、うまく説明できませんが、アリ マッグローはともかく、ライアン オニールが好青年を演じても面白くもないだろうに、と切り捨てた感じ。

単純な恋愛ドラマと決めつけているから、おそらくは、これからも観ないままだと思う。

たとえ、オニールのルームメイトとしてトミー リー ジョーンズが出ていようとも。

では、今なぜ、この映画なのか?

たまたま、ジャズ曲『Skating In Central Park 』を、また聴いてみようとしたら、フランシス レイ編曲のものが、この作品で使われているのを知ったんです。

ここで、ジム ホールとビル エヴァンスによる定番中の定番(1962年録音)をわざと外してしまうのが、萬年のいいところ。

曲がかかる映画のワンシーン。

曲の良さはともかく、これぞ1970年代の着こなし、ってのが満載でありまして、マッグローはもともとモデルさんですから当然として、画面に映りこむすべてが、これぞ、あの’70s なんです。

オニールが、ブラウスの襟をスエターの外に出して着てるのなんかは、着こなしとしてはアウトですが、時代感覚としては、最高だ!

風俗(装い) は滅びるからこそ記録すべし、というのは或る先輩の受け売りですけれど、実感ですね。

では。

準国歌の無い,寂しさ?

組織ぐるみの薬物使用が認定されて、国として、主要な国際大会から締め出しをくらった時、表彰における国歌使用も、差し止められることになった。

そこで、国歌に代わる曲を、なにか選定しなければならない。

それならば、お国のフォークソング、カチューシャを使いたいと希望した。

いやいや、その曲は、貴国を連想させることにおいて露骨過ぎる、ということで却下。

結局は、チャイコフスキーに落ち着いた、という経緯らしい。

この話を聞いて、国歌のように愛唱されている曲があるってことは、幸せなことだと思った。

自分の国には、そういうものが、すぐに思い浮かばないからだ。

80年くらい前までは、『海ゆかば』が第二の国歌として推奨されていて、なかなかいい曲だとは思うが、チト好戦的過ぎるし……。

読者諸氏には、準国歌としてお奨めの曲はありやなしや?

ということで、『Deer Hunter』(1978年、米)のエンディング、God Bless America が、およそ喜ばしくなく歌われるシーンを聴いている。

では。

居残り感の 不思議 (鹿児島キャンプ イン)

いろいろと一段落する日の入り頃に、山雅公式ページを確認したりしているけれど、

リリースされて数分後の動画に、すでに数百人がアプローチしている。

こういう熱量、誰が誰に誇ることでもないが、開幕前の期待感が高まっているんでしょうね。

昨日から、鹿児島キャンプがスタート、来月6日まで、3週間の長丁場。

チームとスタイルが巧く仕上がることを望むわけだけれど、明後日にはトップチームが開幕するなか、どうしても、独り居残り、の印象が強くてやり切れない部分がある。

だいたいが、仕上げに向かっての確認作業であるテストマッチは、どことやるのか?、とか要らぬ心配が頭をよぎってしまったりして。

せめて、鹿屋体育大学さんクラスとやらせてもらえるんだろうか?、とかね。

3部に居て開幕に備えるというのは、こういうことなんだ、とはじめて知る、これも学習なんだろう。

こうなったら、三遊亭 圓生 (六代目 1900~1979年) の『居残り佐平治』でも聴いてみようか。

古今亭 志ん朝 (三代目 1938~2001年) のやつもいいが、あれは巧過ぎて、むしろ心地良い軽妙さに流されてしまっていけません。

と、ここまで来たら、居残り佐平治のスジを取り込んだ、映画『幕末太陽傳』(1952年 川島 雄三 監督)へと、ひとっ跳びしたくなる。

南田 洋子の秀麗さが懐かしくなる春の雪……、とか言いながら。

では。

雪に……、 

愉快を感じて勇み立つようならば、きっと精神が若いあなただろう。

追慕、忘却といった気分に沈むようならば、十分に齢を重ねた証拠に違いない。

こうなったら、雪とはあまり縁のない世界のことを偲ぼうと思い、ライ クーダーのことを想い出したので、この曲を聴いてみる。

もともとは映画『The Border』(1982年米) のために作られたようだ。
サウンドをライが担当していて、この曲は、ジョン ハイアットらとの共作。

ジャック ニコルソン(主演)が、メキシコへの出入りに絡んだ組織的な腐敗に挑戦する 国境警備隊員を演じた。
ハーベイ カイテルが汚職に手を染める同僚役で、なかなか魅せる。
アメリカの不機嫌、みたいなものが通俗的にリアルに描かれていた。

国境を越えて  〈Across the Borderline〉

ずっと聞かされてきた場所がある
街の通りが金で舗装されている とか
そこは 国境を越えたところにあるんだ
自分に その順番が回ってきたら
やがて 君は知るに違いない
見い出せるどころか 失うことになるってことを

約束の地に着いたはずなのに
希望のすべてが 両の手から滑り落ちてしまえば
思い返そうとしても 時すでに遅し と悟るのさ
こんなに遠くやってくるための労力を報うため
ただ この場所で またやり直すだけ
そう 君は 国境を越えてしまったんだから

リオグランデ河を 行ったり来たり
砂に刻まれた無数の足跡は 
誰にも わかりはしない物語
大河は  僕たちの生きざまと死にざまを映しながら
吐息のごとく 流れ下る
次に国境を渡るのは誰かって 教えておくれ

悲しみの暗闇にあって
僕たちは 今日越えなければならぬ
もっと先へ、と名づけたこの河を

けれど プライドを捨てたところに 希望は残る
それは君を  国境を越えよ と 突き動かし続けるんだ……

生きているといいことがあって、こういった、最近のカヴァーに触れることができる。

では。

最良の目利きに薦めたい『ヤング フランケンシュタイン』

ことキネマに関して、

作品に対する、いちばん冷徹なる批評家とは、たとえば、家人のような鑑賞者に違いない。

時間があるから映画でも観るか……、という接し方が、それ。

観るにあたって、無理をしてまで作家の美点、特長を探そうとはしないから、実に客観的にその出来不出来を評価できる。

まぁ、端的にいうと、途中で眠くなったり、飽きてチャンネルを変えてしまうか否か、それが作品に対する、もっとも正当なる報い。

すこし前になるけれど、

― なに観てんの、と訊くと、

―うーん、『ヤング シャーロック ホームズ』(1985年米) とかいう題名。
たしか、スティーブン スピルバーグ総指揮、となってた。

ふむふむ。
若き日のホームズが、寄宿舎に入寮するらしきシーンが画面に映っていた。

で、翌日。

― あれ、どうだった?

― 途中で寝ちゃったわ。

まぁ、その程度の出来だったんでしょうね。(僕は観たことがない)

そこで、つまらん作品の監督を調べると、へぇ、バリー レヴィンソンなのか。

『レインマン』(1988年)でオスカー(監督賞) を獲ってますね。

1984年には『ナチュラル』、1987年は『グッドモーニング ヴェトナム』を撮っているから、この頃、ノッてたんですな。

これら、3本は、けっこう僕のお気に入りなんです。

扱う時代背景は三つがすべて違っているけれど、80年代だからこそ撮れた作品、と言う感が深い。

で、このお方の映画デビュウは、メル ブルックスが撮った『サイレントムーヴィー』(1976年) の、脚本執筆への参加だったとは、はじめて知りました。

となると、同じ『ヤング~ 』ならば、今度は、家人には是非とも、

メル ブルックス監督の『ヤング フランケンシュタイン』(1974年)を観てもらいたいものです。

まぁ、こういうパロディやら、人を喰ったお遊びを、あまりお気に召さないだろうことは、予想してはおりますけれどね。

では、そのさわりの、アイゴール登場シーンだけでも、すこし。

しかし、昨年の今頃は、クロリスリーチマンの訃報を語っていましたが、ここに顔を出す役者は、インガ役のテリー ガー(1947~ )以外、すべて鬼籍に入ってしまった。

なんだか、切ない。

では。