たまにはプロテストする。

ゴルフやボクシングなんかの、プロとして認定されるために受けるテストのことではなくて。

世の中の大勢や体制がおかしいんじゃあないか?、と抗議する歌、プロテストソングを、たまには聴いているというお話。

プロテストソング、と言っても、結局は聴く方がどう捉えるか?、のことなので、たとえば、ビートルズのエリナ リグビー だって、そういった趣きで受け止める向きもあるかも知れない。

今回は、『Waiting on the World to Change』(世界が変わるのを待っている)。

ジョン メイヤー(1977年~)が、2006年に発表した3作目のアルバム『Continuum』の冒頭に、収められている。

2008年当時、僕は富士市(静岡県)に単身赴任していたが、このアルバムをば、殺風景なアパートの部屋でよく聴いていた。

僕や友人たちは皆
定見もなく なんにもできはしない と思われている
世界とそれを牛耳る者たちが すべてを悪いほうへと導いていて
それを乗り越え叩きのめすのは  とうてい無理と感じる

体制を打つのは むづかしい
そういったところから離れた場所にいる僕たちであれば なおさらのこと

だから 世界が変わっていくのを待ち続けるんだ

僕らに力があれば
隣人たちを 戦場から戻すこともできるし
クリスマスを家で一緒に祝えるだろう
ドアに黄色いリボンを掲げることも要らない
テレビを信じてみたところで
映っているものしか見えないし
好きなように情報が捻じ曲げられているんだぜ

戦いはとてもフェアでないことは承知しているが
そんなことは かまっていられない

いつか  僕らの世代が  大勢を占める日が来る

だから 世界が変わっていくのを待ち続けるんだ

もちろん、プロテストなどと構えたりしなくとも、ステキな曲に変わりはないことが、こんなカヴァーを聴くと実感されます。

では。

カエルの子はカエル、

などと口走ったら、諺を知らぬ子に、

―カエルの子はオタマジャクシでしょ。

と言われてしまうかも知れない。

TVを観ていた家人が、
― この犯人役の男性、蟹江 敬三の息子よ、たしか。ずっと前に朝ドラに出ていた時に知ったのよね。

昔々、蟹江 敬三が凶悪犯といった、凄みのある犯罪者役に精を出していた頃、子供が友だちから、お前の親父は大悪人といじめられるので、ずいぶんと悩んだ、という話を聞いたことがあった。

切なく辛い思いをした幼な子が、父とおなじ道を進んだことを知って、なんともいえない気持ちになった時、フト思い出した諺だった。

夏、かならず思い出す曲を、今は聴く。

では。

 

最上の音楽と……。

たまたまビル エヴァンスの、ダニーボーイが、車内に流れている時のこと。

― いいじゃない。こういう曲なんだよなぁ。とおっしゃる。

― いやいや、これに限らず常に極上のモノをご提供しているではありませんか。

― そうかしら? ねぇ。

……、ときたもんだ。

昨日まで再生していたのは、エヴァ キャシディ。
それにご不満があろうとは。

人の好みは、単に数十年を近くに暮らしているだけでは、合一、せめて、ごく近しいものへ、とは決してならないのが、現実ではありますな。

今度、こういうのを聴かしてみようか?、と思案する夏。

では。

朝顔と訃報。

おや、今年最初の朝顔の花、と庭を眺めていた日。

夜になって明日は七夕か、と思っていたところへ、友人からの電話。

敬愛すべき先輩が昨日亡くなった、という報せだった。
どうも、癌だったらしい。

久しぶりの連絡が訃報というのはまったく恐縮ものです、という挨拶だったので、

いや、これも〇〇さん(故人)の功徳のなせること、と思いますよ、と返す。

今夜、星が見えても見えずとも、どうでもいいけれど、ただ、こんな曲を聴いて過ごそうか。

では。

どこに『鷲は舞い降りた』(1977年) のか?

前回記事の末尾。

7/3の夜、アルウィンに待望のゲームが舞い降りた、と書いた僕の心底には、
ジャック ヒギンズ著『鷲は舞い降りた』(原題:The Eagle Has Landed 1975年発表) が在った。

小説は早くも翌年、英米合作で映画化。

日本では、1977年8月13日に夏休み映画として公開されている。

ドイツ空軍空挺部隊の精鋭による、英首相ウインストン チャーチルの拉致作戦(とその挫折) を描いたストーリー。

原題(英文)は、パラシュート兵が、作戦遂行の地、英国ノーフォークの田舎への降下に成功したことを、本国(司令部)に伝えるための暗号、という仕立て。

ドイツ軍人を、魅力と人間味に溢れた人物として描いているところが、なにより新鮮。

主人公のクルト シュタイナー中佐は、プラハでユダヤ人少女を助けたことが軍規に触れ、懲罰的な任務へと追放されていたところを、その能力を買われて作戦実行のリーダーに起用される。

対し、連合国側(米英)の軍人が、無能と唾棄すべき人格として描かれるのは、作者のサーヴィスだろうね。

映画では、クルト シュタイナーを、マイケル ケインが演じている。

彼のベストな演技とは言えないけれど、すこし前の『探偵スル―ス』(原題: Sleuth 1972年)では、ローレンス オリビエと堂々渡りあった演技を魅せて、名だたる英国俳優の地位を築きつつあったケイン。

その彼が、敵国ドイツの腕っこきの軍人を演じたことを、当時(終戦から30年後)のグレイトブリテン人の観客は、どう感じたんでしょう?

例えばですよ。
これ日本ならば、高倉 健が、国民党軍の辣腕スナイパーとして、東条 英機(大戦当時の首相)狙撃作戦に投入される、そんな設定ではありませんか。

(まぁ、これくらい奇抜なシナリオで撮ってしまうようなエナジー、今の日本映画にはないでしょうがね)

マイケル ケインでいえば、『サイダーハウスルール』(1999年)の演技は良かった。
望まれない出産や堕胎に手を染め、その憂さをドラッグで紛らわしては、看護師と関係を続けるような日々を送る、孤児院の医師の役。

実を申せば、『鷲は~』では、作戦の立案責任者である、ドイツ国防軍情報部の中佐マックス ラードルを演じたロバート デュパルを真っ先に推したいのが、萬年。

いままでも、どこかで書いたような記憶がありますが、怜悧なまなざしのドイツ将校を演ったらピカいち、と思います。

小説のほうは、菊池 光の訳で(1976年 早川書房 刊)ハードカヴァー版を読んだような覚えがあって、今回、本箱を探してみたがどうしても見当たらず。

はて、果たして映画だけを観たのか知らん僕?、と、実にいい加減なことです。

でも、本箱を眺めたおかげで『破滅の美学』(笠原 和夫著 2004年ちくま文庫)に再会。
すこし読み始めていますが、ちなみに著者は『仁義なき戦い』などのシナリオライター。

では。