仕事について その❷

―どうして、そんなに頑張るんだ?、と訊かれ、イチローはこう答えたらしい。

―僕が、一体いくらもらっていると思っているんです?

自分の価値を高める、という仕事の本質が、気の利いた表現で返されている言葉だ。

この発言がちっとも傲慢に聞こえないのは、ひとつの真実を衝いているからに違いない。

つまり、お金をくれるから働いてやるんだ、というのは大いなる間違い。

でなくて、働いたからこそ、お金がもらえるという原理。

ここのところを勘違いしていて、時間から時間まで働いているばかりで職場における信頼と存在感がいっこうに高まらない人々は多い。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/25 16:22)
一人で生きていける人間はいない。
以前の職場で、いじめにあっている同僚がいた。家族のため簡単に辞めるわけにはいかないから、兎に角我慢すると言い張る。仕事の本質以外で気をつかう職場は多い。私にも突然挨拶を返さなくなった同僚がいる。何度か再生の努力はしたが、相手が変わらないので再生の努力をやめたら却って楽になった。人が一人君との交わりを断ったのだぞ、君はさびしくないのか、そう心の内で投げ掛けた時もあったが今はどうでもと言う感じ。
職場で純粋に仕事に集中している人は見れば解る。自分も見習ってと思うが、どうもなかなか…。
では、また。

一糸乱れないことの 異常。

TVで、高校野球の試合をやっていた。

COVID-19で中止になった夏の甲子園の代わりにせめて、ということか、〈交流試合〉との見出し。

それなりの強豪同士の対戦らしいが、改めて〈甲子園の偉大〉に思いが及ぶ。

おそらくは、某新聞社の宣伝が動機で始まった年中行事。

が、いまや、野球部が在れば、いかなる進学校といえど、その階層的な勝ち抜き戦に組み込まれ、そこに疑問も感じないところが、すごい。

もちろん、仕掛けた新聞社のほか、あらゆるメディアが報道してくれる。

応援部や吹奏楽部、夏はほとんど、野球部の私設応援部の体だ。

ラジオ体操は、だらだらやると見苦しいけれども、かと言って、一糸乱れぬ整然を強要されてもカチンとくる。

青年の家に泊まってるんじゃないのだから、タオルの畳み方ひとつを、とやかく言われたくないんだが、しかし、交戦は避けたい平和主義者の萬年。

家人への口ごたえは止め、布の耳を丹念に揃えるのであった。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/14 15:50)
小さな心遣い 忘れずに。
一糸乱れぬと言えば、北朝鮮やナチスドイツ、最近では、日体大の行進を思い出すが、あれはプロパガンダであり、見せ物と言ったもの。
現実を生きる上で、一糸乱れぬはいけません。
私は、家事が結構好きで食事を作る以外何でもするのですが、わざと完璧にはやらない。そうでないと奥さんも困るし、家の中が整然とし過ぎては空気が和まない。丸く掃いてなんて文句を言われる位が丁度いい。
文句を言われれば頭を下げて、髪を切れば褒め称え、料理を食べれば旨いを連発、重い買い物袋提げて帰宅すれば玄関に駆け付ける。
会社ではなかなか出来ない、小さな心遣いを家では見事に実践している。
これくらいの事で、我が家は平和が保たれている。
では、また。

☞萬年より  (8/14 17:09)
直近、ある事実に気がつきました。
COVID-19への対応が比較的に上手くいっている国の政治リーダーのほとんどは、女類出身の方々であることを。
つまり、明快な単純化による政治手法、の勝利ではないか?
これをジャガー氏に話したら、
―だったら、東京都の場合は、どう説明するの?
と言われ、この方の政治手法は、極めて男類的思考によるんですよ、と苦しい返答をした次第です。

ふたたび 鳥類 vs 女類。

―また、今日もひとつ ! 、と家人。


いちじく(無花果)の樹になった実を、鳥が来てついばんでいる、と嘆く。

野生の敏感は、人類の始祖が前を隠した大きな葉陰の果実をも見逃さない。

たしか昨年のいまごろも、同じように憂いていたっけ。

それを収穫して生計を立てているわけでもないから、とは思うが、実ったものは、ひとつでも惜しくなるらしい。

年を追うごとに実は立派に成るから、なおさらか。

先手を取っていくつかもいだが、いまだ未成熟だったようで、家の中で熟すのを見守る覚悟。

バナナじゃあるまいし、と思ったけれど、どうも追熟はなかなか難しい模様。

―こうなったら、来年は(樹全体を)ネットかなんかで覆わなきゃ、と息巻いている。

裏庭における収穫闘争は、いましばらく続きそうだが、どちらに軍配が挙がったにせよ、自然の恵みを独占する仕業はあまり感心しない。

あれほど長期間、地球を占有した(と科学者は主張する) 恐竜でさえも、(200万年かけて)滅亡したそうだから、ひとつの類が地上を支配し続けるなんてことはあり得ない。

その恐竜の末裔である鳥類と、女類の覇権争いを、出来るならば我関せずにいたいと願う、この頃。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/13 15:04)
支配される振りして 妻を支配して
長雨のせいか、今年の果物は甘さが足りないようだが、我が家でも先日戴いた桃が程よく熟成するのを待っている。
長年の観察と経験から、女性は確かに独占欲が強いように思う。
男としては、人間的に程よく熟成した女性に独占されるのは、いたって心地よいものであるが、
最近では明らかに熟しすぎた我が身内、その独占欲はいつの間にか支配欲に変わってしまったようだ。
では、また。

☞萬年より (8/13  15:30)
アリストテレスは、
絶対的権力は、絶対的に腐敗する、と言っています。
ですから、絶対的に限りなく近いけれども、絶対的でない支配。
そういう境地をめざすべきでしょう。 
いや、絶対的でない隷属、と言うべきでしょうか。

意味なきルーチン は聞き飽きた

感染者が何人、という事実は、それを淡々と知れば良い。

どこにいったら、統計的な数字を確認できるのかがわかっていれば十分。

やれ最多とか、連続何日とか、煽るような形容詞はそろそろ止めにしないか。

国民もそれほど阿呆じゃないから、数字の羅列ばかりが続くと、お上や報道の上っ面なのが透けてきてウンザリだ。

感染者数を数えているステージはとうに過ぎて、もっと深い分析によって僕たちの生活の方向を探さなければいけない。

……似たようなことは、数日前に、専門家が発言したらしいが。

感染者数の意味することと、目標から導かれる対策、それを知りたい。

対策といっても、家庭と社会生活の決まり事を超える高度な内容だ。

民の理解力をナメてはいけない。

この数字でいけば、医療体制がどうなるのか、集団感染を突き止めてつぶす今のやり方の有効度はどうなのか、どこに流行り病と生活の調和点を置くか等々。

国として、COVID-19を、いかほどの病として定義するのか?
季節性インフルエンザと重篤性をどのように分けて考えるのか?

重症化がある程度抑えられていれば、一定の感染推移を、社会戦略として許容せざるを得ない、という考えだってありだ。

感染数が少ないに越したことはない、というのはもはや答えにもならぬ。

そこまでを突っ込んで、地方政府はキチンと発信すること。
感染状況の感想で終わるような今の会見は、リーダーの無能オンパレードではないか。

いよいよ困ったら、非常事態宣言を持ち出してくる?

国民の自発的な自粛意識に頼るしか手がないのならば、その前に、事実分析に基づいた戦略と戦術の説明をしっかりしてくれよ。

これが病災だからまだしも、次は砲弾が飛んでくる厄災だってあり得るんだから。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/10 15:46)
我が青春の呻きを聞け。
今から45年ほど前、高校3年の秋季体育祭での話。
大変暑い日だった。体育祭終了後、生徒達は校庭の隅にある水道の蛇口に殺到した。翌日から腹痛、下痢で休む生徒が続出した。原因は赤痢であった。地域の人に伝染させないため休校の措置はとられず、普段通りの授業となった。その合間に、1日2回保健室で検査となる。保健室でパンツを下ろし、前屈みの姿勢をとらされ両手で肛門を拡げる。不埒にも、クラスの女の子もあんな格好をさせられるのかと妄想したこと、若気のいたりとお許し願いたい。そこでの検査で陽性となると即、隔離病棟へと、連れていかれた。(今は隔離はない)
検査は、ガラス棒を肛門におもむろに差し込まれると言うものだった。すると思わず「あっ」と呻き声が出てしまう。情けない限りである。
私は感染を免れたが、その後秋は深まり冬を迎え、翌春、東京に出て本格的に大人の階段を昇り始めるのである。
では、また。

☞萬年より  (8/10 17:30)
青春時代とは、アッケラカンというのは稀で、むしろ暗鬱なものですが、それにしても、すざまじい集団感染でしたね。
上水は、次亜塩素で殺菌してあって、蛇口から出る水質は自治体で保証してあるはずですが、もしや、井水だったんでしょうか。
貴重というべきご体験かと存じます。

心地よく働くのは、

なかなか無理です、というお話。

どこかに自分に適した仕事が在る、というのは幻想で、ダブダブの制服にやがて身体が馴染むように、自分が仕事に見合うようになるのだ。

責任とか貢献にフォーカスしないと、まるで仕事=人間関係の、荒廃した職場になるが、それでも、心を奮い立たせる。

―こんなことは当たり前過ぎるので、誰もあえて口にしない。

だから世の中は、将来の夢、とかでことさら若い魂をアオるな。

その道を究めた人、みたいな老爺が出て来て、これが自分の天職、とか述懐するインタビュウをみる。

これは、他の道を切り捨てて一点集中でなんとかたどり着いた感慨に過ぎない。

仕事にも馴れてきて、余裕を持って臨める、つまり、ルーチンが居心地よくなる時期が、きっと来る。

そしたら、ほんのちょっとでも、より高い視点、深い角度から仕事をしようと自分を駆りたてられるか。

仕事の選択よりも、そういう習慣を身につけることのほうが大切だ。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/8 16:38)
人生堪える事が肝要。
全く同感です。新しい仕事についたら先ずは我慢そして努力、それを続ければ必ず廻りが自分を認めてくれる日がやって来る。そして、仕事の面白さも見えてくる。そうなればしめたものだ。
しかし、世の中見えたつもりが実は全く見えてなかったと言うことがある。恋愛の末の結婚がそうだ。一緒に暮らし始め、さほど時を経ずして、恋愛の影に隠れて見えなかったものがあるのに気が付く。が、時は既に遅し、婚姻届は出してしまったし、逃げ出すわけにもいかない。諦めて生きるか…。自分の蒔いた種は自分で刈るしかない。
しかし、そんなに悲観する事はない。20年乃至は30年我慢すれば良いのだ。そうすれば、世間からおしどり夫婦なんて呼ばれるようになる。
もちろん、結婚当初からうまくいく夫婦も沢山いる。
かく言う我が家もそんな夫婦だ。
では、また。