見習うべき 危機意識。

〈勝って兜の緒を締めよ〉とは、連合艦隊解散ノ辞、末尾の一文。

1905年10月21日、司令長官東郷 平八郎が、幹部将校を旗艦に集め、読み上げた訓辞。
参謀長 秋山 真之の起草による。

― (バルチック艦隊を壊滅に追い込んだ)今回の日本海海戦の戦果を活かすためには、平時戦時を問わずその武力を保ち、いざという時に対応できる覚悟を持つべし……云々―

ある記事を読んで、この訓辞が思いだされたのである。

……先の衆議院選で、議席数を減らした野党第1党は、代表がその責任をとって辞任することに。

かたや、単独過半数を得て、政局のやりくりを絶対有利とした与党自民党。

その自民党が、他党のトップ交代に危機感を持っている、との報道だ。

党幹部、有力者という表現で、発言者の名を秘しているが、たいていこういうのは、選挙の結果に安堵している党内の緩い雰囲気を引き締めるために、懇意の記者に書かせているのだ。

が、代表選を経てもしも、新風を感じさせる、訴求力に富んだリーダーが現れ、ジリ貧の野党第1党が息を吹き返せば、それはそれで、これと応戦するのは、与党にとってはやっかいなんだろう。

特に、来年7月の参議院選挙(半数改選)を控えているから、安定した政権運営のためにも。

ということは、自民党にとっては、今回辞任を決めた代表でずっとやってもらうほうが対戦しやすいということか。

たしかに、政策の8、9割は同じことを主張していながら、異なる部分を針小棒大に、それも、単に反対するだけの、陳腐なコメントしかできないリーダーに率いてもらっているほうが、これを御しやすいかもな。

自民党の強さは、こういうところに在る。

要は、優位に立っていても、常に危機感を持ち、より磐石な態勢をめざす姿勢に。

それは、おそらくこの党が、過大なアドヴァンテージを与えたら調子づくから、そこそこの過半数でやってもらおうではないか、というおおかたの民意を察知できる嗅覚を持っているからに違いない。

……ところで、冒頭の訓示に戻るんですが、日露戦争の勝利から、ちょうど40年後、この国は、存亡の危機にまで追い込まれた敗戦を喫する。

成功、に思えたことが、いつのまにか危機に迷い込む端緒になってしまったのだ。

国として、どこか途中で引き返すなり、違う世界を生きることができなかったのかどうか?

この問いに対し、敗戦後4分の3世紀経っても、日本人はいまだ、これだ!、という解答を手にしていない。

では。

シーラカンスに生きがいを (5年後の星)

孤独な長距離ランナー、ルノワール氏。

彼はみづからを、服飾観における、ほとんど絶滅のシーラカンス、と自認していらっしゃる。

そういう氏であるけれども、なにやら新しい希望を見い出したらしく、最近、教えていただいた。

それが、不破 聖衣来 (ふわ せいら)。

2003年生れの、現在 18歳で、拓殖大学1年に在籍。

中学時代から注目されていたらしいけれど、
10月31日の、全日本大学女子駅伝では、最長〈華の5区〉9.2km を走って、前走する6人を抜き去る快走をみせた。

この距離を、28分00秒で走ったので、1kmを平均で 3分04秒で刻んでいて、これがまた素晴らしい、らしいのだ。

早速、レースの様子をユーチューブ上で観たのだが、体軸がぶれない、実にスムーズな走法が美しい。

他のランナーだって大学年代では日本有数の実力者のはずが、不破ひとり、次元が違う印象を受ける。

ルノワール氏は、5年たてば、日本のエースとして記録を塗り替えるであろう、とのご託宣なんである。

こういうのを、太鼓判というんだろう。

とにかく、故障をしないように精進を続け、輝く星に成長してもらいたいと望むばかり。

でも、5年後、その雄姿を生きてみられるか、それが心配ですけどね、僕の場合は。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (2021.11.7 11:43)
トラック競技1500㍍の
田中希美選挙には
トラックでメダル獲得の力がある
不破さんはトラックよりもマラソンで日本記録を更新して貰いたい
廣中選手(郵政)と切磋琢磨して
野口みづき選手の日本記録
2時間19分を更新する日が来ると思います。
話はズレるけど11月28日
はクイーンズ駅伝
日本郵政の連覇が、大いに期待されます!

アメトラは シーラカンスなのか?

ルノワール氏 曰く。

きょうび、アメリカントラディショナルのいでたちを重んずるなんてぇのは、せいぜい戦後ベビーブーマー世代(~1964年生れ)までのお話。

要は、(化石化した)シーラカンス的な存在、なんだそうだ。

半世紀前は、若人の遊び着としてもてはやされたものが、いまじゃぁ、爺いのご趣味。

今の若い世代には、見向きもされない、とか。

確かに。

なんとかビズが定着、タイを締めないのが当たり前になって、レギュラーカラーだと襟がつぶれてしまう首元のだらしなさを避けるため、ボタンダウンシャツが主流だ。

けれど、そこでは、やってはいけない無分別な、襟まわりの配色やら、色ボタンの使用やらが横行しているからなぁ。

……とか、こんな苦言を呈しているからこその、シーラカンスなんだろうね、きっと。

すると、1960年代末におこった、かの国の流行は、みづからのトラディショナル(伝統) からの息抜きだったんだろうか?

人間性というやつに変わりはないが、風俗は生まれ滅びる。ゆえに、風俗は記録して保存されなければならない。 (by 不詳)

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (2021.10.31 13:36)

恋人は底抜けの笑顔で
街角で楽しんだものよ♪
アイビールックの2人連れ♪
byシンシア

アメトラは街着なのです。アメトラスーツを着て自動車で移動ってのは🆖
電車で移動して
街を楽しむのがルーツ
晴れの日のタウンアンブレラ(グリーンのブラックウォッチターン
懐中時計、黒縁のメガネ
は欠かせないアイテム
 ↑
だからシーラカンスなのかも?
シーラカンス は絶滅危惧種
だが生き伸びて欲しい!

足許を見習え (マックイーン流)

最近になって、

アメリカン トラディショナルの着こなしの最高の見本は、スティーヴ マックイーン(1930~1980) だろうな、と思うにいたった。

50歳そこそこで他界したから、若々しい画像しか残っていないことも彼に有利なんだろうが、段返り三つボタンのフランネル スーツを、襟のロールもしっくりと着こなしている姿は、一級品です。

アメリカン エスタブリッシュの出身でもなく、反体制派だったのに。

特筆は、パンツの丈。

それがスーツであっても、綿パンであっても、常に絶妙な短さ、これです。

マックイーンは、身長175㎝ (一説には 177㎝)、ウエイト 73㎏ だった。

アメリカ人、しかもスターとしては、決して押し出しがいいとはいえない体格であったがゆえの、パンツの短さへの配慮だったはずだ。

この身長は、日本人と大差ない。

ゆえに、アメリカントラッドを装うならば、ぜひマックイーンの着こなしを参考にすべきだろう、と、特に、若人にはお奨めしたい。

なお、首が細い若年層の骨格を考えれば、アンソニーパーキンス (1932~1992) の襟ロールの作り方、カラーの高さを取り入れると、破綻がないように思う。

パーキンスは60歳で亡くなっているので、こちらも若々しさに富んだ着こなし例が多い。

まぁ、いちばん大切なのは、上から下までが、傍から見ていて気づまりするようなガチガチ感を避けること。

どこか抜いた肩の凝らなさ、気障りのない平静さ、それが、トラッドの基本でしょうね。

そして、なにかに一段落したら、ニット タイをばグッと緩めて、こんな曲でリラックスしましょうよ。

では。

【コメント】
☞ルノワール氏より (2021.10.26 21:04)

パンツ丈にもこだわりを持つ萬年さん
流石です!
アメトラの基本は
⭐
パンツ裾幅23㎝
3、5㎝幅のマッキン付です
裾がダブルの為パンツ丈は後で修理不可
よって、とても気を遣います。
⭐
また靴によってもパンツ丈は、変わります
プレーントゥ、ウイングチップの場合はタッセルやコインローファーより1㎝長いパンツ丈が綺麗です。
こだわりこそがアメトラの醍醐味ですね。

フェア について悩んで育つ。

子どもの思想は、やはり、単眼的な観点に偏りがちです。

萬年ご幼少の頃、どうしても解せないことがあって。

それは、戦争という残虐非道なことを犯していながら、どうしてその渦中へ、捕虜の正当な扱い、救護要員の尊重、武器の制限(毒ガス、鉛不使用)といったルールを持ち込めるのだろうか?、という疑問。

殺し合いの中のルール?

ならば、戦争そのものをやらなきゃあいいのに。

でも、すこし大人になれば、ジュネーブ条約などで積み重ねてきた、戦争/紛争におけるこういったルールも、結局は、武力行使の効率化、戦闘員の再生産といった、深い意味あいを持つことに気づく。

戦争を遂行したいからこそのルール、ということに。

戦争という手段を決して捨てない意思があってこその条約や、決め事。

同じように、〈フェア〉とか、公平(公正)とか、こういった正義が、もっぱら強者から出てくる主張であることに気づいた者が、分別のある成人、といえる。

この国の武道、武闘に、体格別の考えや、禁じ手がほぼないのは、弱者にも勝機を〈公平〉に与えるという思想に基づく。

宮本 武蔵の戦術など、奇襲、奇異なスタイル(二刀流)、意図的な遅刻など、弱者の手練手管がてんこ盛り。

なのに、誰もそれをアンフェアとも断罪しない。

柔道に階級別が持ち込まれてことによって、それは武道ではなくスポーツに変容した。
つまり、インターナショナルな競技になった。

でも、日本人はいまだに、競技者も観衆も、襟の獲りあいに終始するような柔道を好まないし、投げ技一本による勝ちを尊ぶ。

メンタルは、依然、判官びいき、柔よく剛を制すの世界に在る。

そのような環境下で戦う柔道選手のプレッシャーたるや相当のものと、まったく同情する。

それに比べれば、サッカーのナショナルチームの重圧感など、比較するのが、申し訳くらいではないか。
すくなくとも国民的な関心からすれば。

それをですよ、アウェイの地、手堅く向かってきたオーストラリアにやっと勝ったからといって、狂喜三昧に溺れるとは、なんとも、見苦しい光景ではあった。

と、奇襲、奇策といった勝負を打てないチームに不足を感じています。

では。