すべては 過ぎ去る〈All Things Must Pass〉

……、と言いながらも、次の世が在る、と思っている人がかなりの割合を占めるのが世界の民族のおおかた。

だから、彼等は、現世でおしまい、を信奉する極東アジアの某民族ほどには、この世の命に汲々としない、ように見える。

いや、もっぱら生物的な命に執着しているようなこのお国であっても、実際のところ……、

いまだ、検査によって判明した! 感染者数、死者数を、ルーチンでマジメに報道はしているが、保健所等のマンパワーも追いつかなくなっているらしくて、接触者の追究の範囲は、同居の家族まで、となっているらしい。

クラスター?、だから、どうしたの?、って話。

要は、言ってることは、仰々しく立派に見えて、その実、やってることは、いままでのインフルエンザと大して変わりないように、対応がだんだんと骨抜きになる。

なに、僕はそれを責めているのでは決してなくて、そうであって当たり前、いや、むしろ、どんどんそうすべき、と思っている派。

政治リーダーにしても、立場があるから深刻ぶって語っているだけで、およそ迫力もあったもんじゃあない。

処置できる医療機関を限定したままで、高波が来るたんびに、現場は大変だ、疲弊している、をいつまで繰り返すんだろう?

職場の同僚がふたり感染した、と聞いた。(で、ここ数日は離職)

発熱以外の詳細な症状は不明だが、結局は自宅療養であるならば、風邪や季節性インフルエンザと、対応のどこが違うんだろう?

あと何年後、生き残ったら、こっちを振り返って僕たちは、この3年越しの騒ぎを、どのように語っているんだろうか?

この曲だって、ジョージ ハリソン (1943 ~ 2001) が発表してから、51年。

半世紀なんて、過ぎてみれば、束の間さ。

では。

恋の成就を 望むなら。

或る友人 (=女性) が、(おそらく今よりはずっと) 婚活に熱心だったころのお話。

その日、初めて会った男性。

彼の運転する乗用車に同乗して、どこか(地名は忘れた)へと出かけた。

狭い道に来た時、どうもすれ違いがスンナリいかなかったらしい。

その男が、行き交った車の運転者に、それはそれは聞くに堪えないような暴言を吐いたそうな。

― その瞬間ですね、あっ、これで(この人とは)おしまい、と思いました。

ねんごろになりたい相手には、羊の皮をかぶってでもそれなりに装ってみせても、デートの途中で、ほんの瞬間かかわる人々に対して、無礼で優しさに欠けた振る舞いをしてなんら恥じることもなければ。

(唖然!) はい、それまで。― という見事な事例でありましょう。

一緒に行動する際、利用したお店のスタッフに敬意を払う、ふと行き過ぎる人へ道を譲る……、といった配慮。

そういうことに、人となりは、もっとも露わになることを忘れてはいけません。

イエスキリストだって、言っている。
〈わが兄弟なるこれ等のいと小さき者の一人になしたるは、すなわち我(王)になしたるなり〉(マタイ伝25章40節)

もちろん、初回ならば、すばやく助手席にまわってドアを開けて差し上げる、ってこともよろしいかと存じますけれど、大方の日本人女性は、そういうことは期待していない。

そもそも、そういう社会で育っていませんしね。

他人と何気なく交わる、飾らないそのやりかた、それが試されているのです、案外。

もちろん、それでだけで恋が成就するわけでもないけれど、それができなきゃあ門前払いが相当か、と。

ま、今回もまた、じじいによる大きなお世話、ですけれどね。

では。

それでも 図書館は使える。

この前、某公共放送だったか、
熱中症対策として、涼しい図書館で過ごすのもひとつの手、とか言っていた。

そういう発想は、否定しない。

けれど、個人個人の都合を知らないでおいて、軽々に電波に乗せて、こういうアイデアを推奨するのは、マヅイでしょう。

僕が、個人的に友人に話すのとは、わけが違う。

誰もが、図書館の近くに住んでいたり、気軽に自動車などで移動できるわけでもないし。

炎暑の中、ライブラリーにたどり着くまでに体調に異変をきたしたりしたら、どうするの?

また、COVID-19感染防止のため、図書館によっては、滞館時間を、例えば 1時間程度に制限している場合もあるのだから、ダラダラと涼まれても困るだろう。

……ところで、このように他人の冷房の恩恵にあずかる場合は多く、開架図書、つまり、書棚に並んでいる書物を抜いて来て、どこかに座って見て時を過ごすことになろう。

けれど、僕のようにこの先短い年齢になると、ただ漫然と目についた本を手許に取って楽しむ、という時間が惜しい。

したがって、図書館には、あらかじめ読みたい書籍を確保するために出向くことがもっぱらだ。

だから、むしろ書庫に仕舞われてある本を調べ、それをオーダーすることが多い。

さらに、図書館の利便はもっと他にあります。

❶地元の図書館に所蔵していない書物であっても、それを所蔵する他の図書館から、〈現物〉を取り寄せてもらうことができる。

これを、図書館間貸し出し、という。

特に、郷土資料、特定地方の歴史を読みたい、なんてのには使える。

そのような書物は、館外貸出をしていないものが多いけれど、この制度を使えば、取り寄せてもらった図書館内での閲覧はできるし、(ルールに従った)複写が可能。

❷さらに、多くの(中央レベル)図書館は、国立国会図書館デジタルコレクションにへのアクセス権を持っているから、申請さえすれば、館内のパソコンに案内され、画面から簡単に、稀少な書物を閲覧、複写できるというわけ。(註:個人的にアクセス登録も可能)

上記❶❷については、相談窓口へ行って、その旨を尋ねてご覧なさい。

ほとんどの場合、親身になって対応してくれる(というのが僕の経験)。

これを、総じて、レファレンスサーヴィス、と呼ぶ。

以前、メールでもって、ある資料の所在有無などを尋ねたら、それに関し、丁寧な返事を手紙でもらった。

それくらい、少なくとも!!、長野県における司書の方々は、仕事熱心で礼深く、有能でいらっしゃる。

たとえ一時であってもですよ、職業的な専門家に、まるで、自分専用の秘書のごとくに働いていただく、ってのは、かなりの贅沢ではありませんか?

もちろん、そこには秘訣がありまして、当方も丁寧、かつ、平明に要件をご説明申し上げるのがコツ。

鐘は、叩き方次第で、美しい音も出すし、不快な音で鳴ることもある、ってことです。

……、しかしです。

マイルスデイビスのトランペットは、いつ何時聴いても、陶然となりますね。

これ、1952年あたりの録音。

いまから 70年前ですぞ。

だから、それがどうした?(So What ?)、でいいんですけどね、これも、図書館から借りているんです。

では。

居残らない者よ。

息子の息子は6歳になる。

彼がしばらく留守にすることになって、その間、育てているアサガオをあづかっている。

朝晩の水やりはともかく、毎日、いくつ開花したのかを記録するように頼まれた。

通っている小学校で、ひとり一鉢が与えられたらしく、夏休みの課題のひとつなんだろう。

アサガオの花は、朝咲くと、その夕べにはしぼむ。

ひとつひとつが、一回こっきり、いち日だけの人生だ。

なので、眼前で咲いている数が、そのまま本日の開花数を意味している。

世の中にこんなにわかりやすいことがあるなんて。

と、やけにありがたく思っている。

一期一会、という言葉を思い出しながら。

では。
(画像は、別のアサガオです)

パーフェクト ワールド。

すべての事がふさわしくおこなわれる、完璧な世界。

この世がそんなものでないことは、わかってはいる。

わかっちゃあいるが、高温な季節には決まって、幼い命が炎熱の車中でむざむざと命を落とす。

亡くなった幼子は、かならず天国に行くから、そのことを心配はしない。

けれど、この子から、現世での経験を積む機会を奪った者こそ、自分がこの世に生まれてくるべきではなかった、と思う。

こういう時、『A Perfect World』(1993年、米映画) を、かならず想い出す。

幼い時の体験から、子供に対する暴力や虐待を潔癖なまでに憎む脱獄囚(ケヴィン コスナー)。

8歳の少年を人質にとって逃避行を続けるこの男と、それを追う警察署長 (クリント イーストウッド)。

イーストウッドの撮る(監督) 映画は、どれも〈苦い〉が、本作はまた格別だ。

その意味で、イーストウッドでは、僕がいちばん推したい作品かも知れない。

完璧でない世界、しかも、そこで生きざるを得ないのが人間。

これって、いわば、僕等の究極のテーマなんだろうな。

では。