北関東の 果報者。

昨日は、学生時代からの親友K君と、関東平野の北端あたりをうろうろしていた。

ひと月前は、
― 内陸部のあの辺だと、灼熱地獄。
オッサンの干物が出来上がるのがオチだね。
とか言っていたのに、ずっと時々雨の曇天で、最高気温は26℃。

おかげで、干上がることもなく、まづまづの過ごしやすさ。

朝、桐生市を出発、国道122号をたどり、足尾銅山(日光市) まで行く。

そこから、山越えをして鹿沼へ下り、さらに栃木市を通過して、渡良瀬遊水地へと向かう。
で、栗橋駅からJRで帰京するK君を降ろして、解散。

こう書くと、なんともそっけない旅程ですな。

― 君に連れて来てもらわなければ、こうやって群馬、栃木、さいたまを巡るなんてなかったですよ、と、東京人(渋谷在住) のK君が言う。

でも、そんな寂れと朽ちれの中にたたずむ街々を観てまわるのも、今のK君には苦痛であるはずもない。

― 実はね、今度の土曜日に、婚姻届けを(渋谷区役所へ) 出しにいくのよ、大安、ってことで。

聞けば、長年のつきあいで、20歳年下のお方、とのこと。

― いろいろな事情があってさ、とおっしゃるが、いと佳き事ではないか、K君。

K君と別れ僕は、東北道へ乗ると、北関東道、上信越道へと回り、三才山を越えて松本に戻った。

サイモン&ガーファンクルを流しながら来たんだけれど、こういった一節が、なぜか心に沁みるのではありました。

And here’s to you, Mrs. Robinson
Jesus loves you more than you will know

ミセス ロビンソン、申し上げたいことがあって、それは、
神様は、あなたが思う以上に、あなたを愛して下さる、ということなんです。

では。

夏のおごり。

昨日の夕方。

東の空には、しばらく大きな虹が立ち上がると、今年はじめて、ヒグラシの鳴くのを聞いた。

もしも、平和を表現したいのであれば、

― 今日ね、虹を見たよ、とか、ヒグラシの声があったよ、なんて些細なことを、夫婦や家族、近しい人々と会話することが、それなんだろうな、と思う。

平和を、いくさのある無しで語るのは、もう、うんざりだ。

先の日曜日、所用で長野市まで行って来た。

国道19号を使ったけれど、路傍には、ノウゼンカズラの花の橙が、やたらと目についた。

家ごとに  のうぜんかずら   狂おしく      萬年

同じ頃、ジャガー氏は、蓼科山でガイドにいそしんでいたのだが、ビーナスラインの山は、ニッコウキスゲの黄が、いつになく盛んだった、と聞いた。

(すでに秋が潜み込んだ)  この夏。

自然は、黙々と奢っている。

僕等が、気づこうが見逃そうがには、おかまいなく。

自然は惜しみなく奪い、惜しみなく奢る……。

では。

たまに 一服。

気分転換する際、なにを服用するのか。

これに関しては、世の中、ここ30年くらいでずいぶんと変わりました。

煙草が第一線からご退場。

と思ったら、白い錠剤や粉は、ますます健在。

そこへ持って来て、オーヴァ―ドウズですか。

大勢は、電車内でも食卓でも、下を向いてスマフォ画面をひたすら見つめる、これでしょうかね?

そして、人は、ますます空を見あげなくなった……。

いえ、なに、本当はどうでもいいことなんです。

もちろん、若く見えればすべて善し、ってのも信じちゃあいませんよ。

では。

悩みどころが違うでしょう?

ここ数日外気温が落ち着くと、途端に、電力不足が言われなくなってしまう。

かわって、某通信会社が、いいように叩かれる。

でも、暑さが戻れば、きっと、また蒸し返すのだ。

なんとまぁ、僕らの時代は、浅薄で、移ろいやすい論調で溢れていることか。

節電が求められると、
いやいや熱中症はそれこそ命取り、困って追い詰められた国民をどうしてくれるのよと、マスメディアは、あたかも(弱い)民の味方を装いながら、為政者やリーダーを批判する。

けれど、この事案の出口は、原発再稼働でしかあり得ないことは、ちょっと考えればわかること。

でも、いままで脱原発の流行りに乗っかって論陣を張ってきたメンツがあるから、容易に原発にまで言い及べないメディア。

なんとも切ない光景、ですなあ。

でなくて、メディアがすべき主張は、政治的リーダーに対し、いかに計画的、かつ、日本技術の巧緻を結集して、限りなく安全に原発を稼働していくのか、その道筋を明確にさせることでしょう。

この点は、為政者も同罪で。

今回の国政選挙で、国家の存立の視点から、エネルギー安全保障を最大論点にしないのは逃避以外のナニモノでもない。

家計やりくりの悩みにとって、電気料金が低減、安定するのは、相当な仕合せでしょうに。

こうなったら、高騰しつつある電気代は、脱原発論者が負担すべきでは?、とさえ思うが、どうだろうか?

僕は、化石燃料を使った発電に背を向ける必要は決してない、と思っているけれど、効率と環境へのダメージからいけば、原子力が総合的に優れる、と考える。

自然エネルギー、たとえば、太陽光の利用は、家庭レベルで風呂の湯わかしくらいならば罪もないが、これを大規模にやって、現在どのくらい、山野、畑、隣近所の住人にダメージを喰らわせていることか。

太陽光、風力などの非効率で一定しないエネルギーのために、いままで膨大な資金が投入されてきている。

けれど、そのお金を、原発の安全立地や、運営/稼働技術に投じていれば、ヨーロッパの戦争や、外気温上昇などでこれほど右往左往しなくても済んだはず。

東北大地震から10年も経って、こういう観点からの総括は誰もしていないし、今後もしないような気がする。

そういう仕事では、決して人気や誉れは獲れない。

というのは……、

大衆はいつでも、耳ざわりの良い言葉を好む  (by  萬年)   から。

でもね、たとえ不人気のそしりを負ってでも、責任をキチンと引き受けるリーダーが、時間をムダにせず、マジメで地道な議論に取かからないといけない。

戦争はイヤだ、平和は大事、を繰り返すだけでは、夏目 漱石が『三四郎』(1908年発表) で予見したとおり、この国は終わる。

では。

なぜ、回りくどい話になるの?

久しぶりに、塩尻市図書館に出かけた。

ほぉ、以前やってた、ご利用の1時間制限はもはや廃れている。

調べもので少々ボーっとしたアタマを休ませようとして、給水するためロビーに降りてみると、
ホール壁一面に、スカイブルーと黄色の短冊が張り付けてある。

〈ウクライナ支援〉寄せ書きコーナーなんですね、これ。

おいおい、支援の気持ちを表明することより、今やるべきは、侵攻している側を(言論でもいいから) 痛烈に叩くことだろうに。

戦争は、明らかに侵略の様相なのに、被害者に同情を寄せよう、みたいな発想が一体どこから出てくるのか、正直、僕には理解できない。

虐待(いじめ)する側を成敗せずしておいて、被害者に、お前にも落ち度はあるよな、でも頑張れ、って言うのと、どこが違う?

そう思いながら覗き込むと、何百枚もの紙片の中には、〈プーチン、戦争止めろ〉という書き込みが多々あるので、気分が少し救われた。

おそらく、ウクライナが今欲するのは、気持ちよりも具体的な支援、つまり先立つモノだろうと思って手許のテーブルをみたら、小さいなりに募金箱が在ったので、ますます救われた。

77年前の手痛い敗残と辛苦、それに加え、西側陣営で割り当てられた役割とアジア情勢のゆえから、幸運にも! 日本人は、国家の名において人を殺めたり他国を侵したりすることなく過ぎてきた。

けれど、それ以前の40年間は、東南アジア地域に対して、今の露国と同様な、非難を受けるにふさわしい武力行使をしたことを、僕たちは都合よく忘れてはならない。

だから、武力侵攻の見本としてパールハーバー突入を引き合いに出すことはいたって正当であるし、これに反論することなど、到底できやしない。

では。