どうしたら自分が自分になりきれるか、

それを知ることが、この世でいちばん大切なこと。

……とは、モンテーニュ(1533~1592年、フランスの哲学者) の言葉。

きのう、職場からの帰り道、後ろから、

― 〇〇さん、良い年を!、と挨拶されたので、振り返って、とっさに

― えぇ、来年こそは。

なかば、口ごもって返したはいいが、

いったい何が来年こそはなんだ、とこころに独り言しながら歩いていた。

安っぽい踏み絵で決して他人を試さず、飾らず、自分を偽らず、自然に自分を表現する。

しかも、8歳の子にも理解できるような平明、簡潔な言葉が、いつも口から出てくれば、なおさら良い。

いつかできることはすべて、今日でもできる ― これもモンテーニュの言葉です。

では。

それくらいでいいよ、英語は。

その年代の子を持っていないので、目的や、詳細なプログラムは知らない。

が、現在、〈英語〉(英語? or 米語?)は、小学生から必修の科目らしい。

児童諸君には、この科目をなんとか好きになってもらいたいが、

こと外国語については、否応なしに使わざるを得ない環境に投げ出されないと、駆使できるようにはならない。

この国に生活する限り、不幸にしてそういう環境に曝されるのは、100人にひとりも居ないだろう。

なので、日本の街角で、日本人が当たり前のように英語を操っている光景は、幸せなことに、これから100年経っても、おそらく出現はしない。

どうしても、そういう世界を求めたいならば、

そうだな。

高校生より上級の、日本語を除いた教科はすべて、英語を母国語とする教師を雇い入れて、英語オンリーで教えるくらいにしないと無理な話。

つまり、明治初頭の、旧制大学の授業を再現すれば、万事よろしいかと。

これを暴論と言うのなら、将来、ほとんど(日常会話として)使わない外国語の習得に、幼い子のエネルギーを、それも世代全体で大量に、費消させることのほうが、よっぽど、乱暴な話ではないか。

『More Than I Can Say』は、バディー ホリイ(1936~1959)が、生前準備していたが、急逝。

残されたバンド クリケッツが、バディーの死後 1960年に発表した曲。

歌詞は、こう始まって、それが繰り返される。

I love you more than I can say

I’ll love you twice as much tomorrow ……

比較級の表現を覚えて、辞書を片手に、こういう秀歌を楽しむ。

〈英語〉教育の目的は、そのくらいにするのが、身のため世のためだと思うんです。

僕はこの曲を、柳ジョージの (泣ける!) 歌唱で知った。

けれど、こういうのも、なかなか味わいがある。

では。

無題。

21日に埼玉県の某市で投函された葉書が、きのう届いた。

叔父(母の弟)からのもの。

ご無沙汰しております、で始まって、改行。

妻〇〇が今月15日に永眠し、18日に葬儀を執り行いました。
以下……、年末の移動のさまざまのリスクを考え、事後報告とさせていただきますのでご理解ください、生前賜りましたご厚情に感謝いたします……、と続く。

この叔母とは、数えるぐらいしか逢ったことがなかった。

照れ隠しに違いなかったろうが、

自分よりも年上で、当時は婚期を逃がした(と世間でいうような)年齢の女性を妻に迎えたことを、

― 人助けだよ、とか叔父が言うのを聞いて、(たしか高校生だった) 僕は、

― よく言うよ、救われたのは、叔父貴のほうだろうが!、と内心思った。

叔父の家には二度ほど泊めてもらった覚えがあって、叔母の上品な柔和さ、穏やかな家庭の雰囲気に触れると、

将来、こういう女性と巡り合えれば……などと夢想していた。

要は、僕にとっての憧憬の女性だったわけだから、

その訃報に、食事の味覚を感じないほど、かなり応えている。

最後にお逢いしたのは、かれこれ20年近く前にもなるのか。

不義理なやつよ、これ以上後悔しないためにも、早々に、叔父を弔問しなくちゃならない。

では。

時に無言で、

過していたい日もある。

 

ザ バンドによる、最後のスタジオ録音アルバム『The Islands』(1977年発表) は、なんの熱意も感じられない仕事( = 駄作 ) と評されているらしい。

たしかに、そんな印象が否定できないが、

やっつけで演っても、これだけできてしまうのなら、それもまた良いではないか。

……でも、何故、アイランズ、と複数形なんだろう?、と思いながら、黙って聴いている。

では。

このタイミングこそ。

外交上、かなり巧妙に計算されていた、とは言え、

時季といい、出向き先といい、歓迎されないはずがない

このほど、ここ10箇月間、侵略者との苛酷な戦いを続ける国のトップが、米国を訪問した。

西欧的な価値観を同じくしたい者として、友人の地へみづからが赴き、彼への感謝を表すには、絶好のタイミングに違いなかったのだ。

この友人にとっては、家族が集い、愛と平和について心を向ける、そういう季節なのだから。

なんとなく贈り物をし、なんとなくおごった食事をするだけの極東の僕等には、そこらの心情など、心底わかるはずもなかろう。

黄と青の配色をみると、これ、ウクライナ国旗だね、と子供が憶えてしまった年。

これもまた、辛い話ではないか。

では。