答えはない、と決める覚悟。

イングランドのプレミアリーグ(1部)、直近のハイライト映像。

たとえば、リヴァプール vs マンチェスターシティ なんかだと、観客席はぎっしりで、マスクをしている人は見つけるのに苦労する、そんな様相だ。

ロイター通信による統計で調べたら、
英国の新規感染者数は、36,060人(10/8)、死者数は、124人(同)。

感染者数は増加傾向にあって、1日平均 34,542人の新規感染が報告されている。

対し、日本はどうか。

新規感染者数は、776人(10/9)、死者数が、24人(同)。

1日平均の新規感染者は、そのピークだった8月28日の4%にまで減少した。

……、これが数値的なリアル。

8月を中心に急激に増えた感染(いわゆる第5波)が、9月以降、どうしてこんなにストンと落ち込んだのか? ※ただし死者数は、5月にピークを記録。

なんとか宣言を引っ込めるにあたって、だあれも、その原因をわかるように説明してくれていないんですよね、これが。

複合的な要因が考えれらる、とかおっしゃる。
最後は、気候が幸いしたとまで。
人がコントロールできないことまで言い及ぶ、とは、要は、なにが決定的なのか?、ようわからん、ということですな。

言い方がすこしもったいぶっているけれども、不明です、と正直に吐露しているようなものだから、それはそれで、好感が持てた。

専門家、の方々の中、どなたかが、原因と結果のなんらかの因果関係を、防疫学的に、必死に追求しているのでは?、と思うが、そういう議論をほとんど聞かない。

増えた時は、会食会合の戦犯探しに忙しかったマスメディアも、事態が沈静をみせると、急に論調がトーンダウンして、乏しい。
感染数値のルーチン報告は、依然、だらだらとやっているが。

で、最近は、そもそも、決定的な答えが在るはず、という前提に立つのがおかしい、と思い始める。

専門家ヅラした連中に答えを求めること自体が間違いなのだ、と。

まぁ、せいぜい、落ち着きを取り戻した今こそ、将来的な診療体制の確保に動いてもらえれば、と、それくらいが願望。

萬年の予想によれば、たとえ、季節性インフルにおけるタミフルのような特効薬(予防的服用も可)が出現したとしても、COVID-19の騒ぎは、あと1年は続くのだから。

ここまでの感染状況(や死者数)だったら、サッカー観戦はここまでの制限、といった割り切り、というか覚悟を、とにかくすばやく。

それが、たとえ30,000人以上が毎日感染していても、ほとんど自由な観戦を許すイングランドと、同じ大胆さであるとは、すこしも思ってはいませんが、とにっかく、声を出せない状況下で、我がチームが正念場を戦うことが、なんとも切なくての発言です。

では。

ほとんどイジメ 。

― あたしから言わせれば、マスメディアの姿勢、あれはイジメ以外のなにものでもないわ、ほんと。
ま、記事を詳しく読むこともしないけど。

このところ話題を提供している、皇籍あるお方のご成婚について、家人が感想を漏らしたんです。

おおくの人に、モバイルやパソコンの画面が身近な昨今。
見ざる聞かざる、と思っても入りこんでくる、どうでもいいニュースのひとつ。

では、言わざるにしようか、と思ったが、たまたま家に来た娘に、この案件で意見を求められたこともあって、すこし記しておきます。

人間生きていれば、挫折、失敗もあるだろうし、100%品行方正でいられるものか。
どこかで、いろいろと病まざるを得ないもの。

赤の他人の自律に、いろいろケチをつけるとは、いったい何様のつもりか?

自分が正義の側に在る、と思った瞬間、人は残酷になるのであって、ゆえに〈復讐するは我にあり〉として、聖書は、人が人に報復することを禁じた(ローマ人への手紙)。
要は、報復とは、神の仕事なわけだ。

なので、西洋には、すくなくとも理念として報復は禁じ手であるが、そういった禁忌が存在しないこの国では、正義に名を借りた虐待(イジメ)には、まったく歯止めがかからない。

読む側の正義感や健全なる者としての自負心をくすぐりながら、記事は仕立てられるんだろうけれど、たかが他人の髪型をもっともらしく論じるだけでメシを喰えるって、それこそ、虚業で、マットウな商売じゃあない。

多額の?一時金にしたって、たとい本人から辞退の申し出があっても、支給すればいいではないか。

その出所が税金云々とか、なんという了見の狭さ。

なになにの名誉総裁とかに担がれて、退屈な仕事の数々につきあってきたことに報うのは、当たり前でありましょう。

皇室の周辺、そこに妙な完璧を求めることが、そもそも間違っている。

彼等が〈国民の象徴〉であるならば、負債、被差別、心身の貧困と向き合わざるを得ない多くの日本人とは断絶した世界観を、その言動に期待することのほうがよほど不自然。

バリバリの有望な若き外務官僚が、皇室に浸かった途端、メンタル不調になって数十年を費やしてしまう。

それが、不変で、リアルな皇室の姿、と思うところから始めないと、判断を誤りますよ。

では。

見上げる空の 心。

子どもは?、といえば、畑の中さ。

トマトの添え木の先端。

そこでトンボを捕まえようと、補虫網持ち、さかんに行ったり来たり。

おいおい、すこしは上を見あげてごらんな。

気がつけば、蒼空に、大群のアキアカネの乱舞よ。

秋は人を詩人にする?

いや。

流れる時は、一体どこに向かっていくのか?、そんなことを一瞬思うだけ。

では。

 

遥かなるフクアリ と嘘。

非常事態なんとかが、昨日で一斉に解除された。

早速と、ガイド人ジャガー氏には、この週末、東京発、1泊2日の登山ツアーが入って、まことに慶賀の至り。

ところが、フクアリの千葉戦は、やっぱりアウェイ席なしで実施されるようであるから、JR電車で千葉駅から蘇我駅へ、そこからスタジアムまで歩く愉しみ。
これは、今シーズンもお預けなんです。

観客収入にあくせくする必要のないクラブの鷹揚さ、なんでしょうね。

ところで、電車と言えば、立ちんぼが大義そうな御方には席を譲るように心がけているんだけれど、
相手にもよるが、その方の恐縮と場の硬い雰囲気を緩和しようと、こんなことを言って席を立つ。

― いや、なに、ちょうど次の駅で降りるものですから……。

そして、駅で停車したら、一旦ホームに降りて、別の車両に移る。

僕については〈ウソ〉が多い、という家人の指摘はかなり的を得ているんだが、ならば、こんな嘘はいかがでしょうか、と今度訊いてみようかな。

そうしたら、きっと、

― なにも、そんな芝居じみたことはしないの!、そのまま自然に吊り革につかまっていれば いいのよ。

……、とおっしゃるに決まっている。

では。

啓示は 朝に舞い降りた。

土曜日の朝6時前、某公共放送は、亡き人(往年の有名人)を偲ぶ番組を流している。

萬年、そろそろご出勤となる時間。

食事などしながら、時計代わりに画面を見つめていることが多い。

先週は、たまたま、小林 亜星(作曲家、1932~2021年5月30日) の番であった。

けっして達者でなく、むしろ下手と思うけれど、テレビドラマにも役者(主演級)として出ていたっけ。

そのドラマ、当時の僕は、娘役の梶 芽衣子 観たさにチャンネルを合わせていた、遠い記憶が蘇える。

番組では、対談などにおける亜星氏の発言が、時々、挟み込まれる。

その中の、この言葉。

― 曲 というのはね、作ろう作ろうとしてはダメなんだ。ふと湧いてくるのが良いんです。

おぉ!、これ、僕にとっては、まさに天啓でありました。

ためしに〈曲〉のところを、たとえば、〈笑顔〉に置き換えてご覧なさい。

― 笑顔というのはね、作ろうとしてもダメ。自然に湧いてきてこそ価値がある。(by 萬年)

家人には、数十年来、何かにつけて、あなたのはね、とってつけた云々、と言われ続けてきた僕。
要は、誠実さに欠ける、ってわけ。

ゆえに、笑顔に限らず、残された人生を活かすためにも、おおいに有り難いお言葉なんでありました。

ところで、北へ向かう、帰る、の言葉には、なぜ、こうも悲しい響きを感じるんだろうか……。

亜星氏の名作『北の宿から』から連想されたことですけどね。

では。