草いきれ に久女を。

タチアオイが咲き出したら、もうすぐ、炎暑の夏。

草むらに踏み込むと、ムッとまつわりつく、あの熱気を、〈草いきれ〉と呼ぶ。

補虫網を持って山野に入って行く少年。

彼は、その草いきれの中で、虫たちの喧騒と夏の静寂に、ふと立ち止まる。

やがて、少年は大人に成った、その或る日。

夏の炎天下、路上に落ちた自分の影に、もはやこの世を去った人々を想い出すだろう。

杉田 久女 (すぎた ひさじょ、本名 杉田 久、1890 ~ 1946年) は、近代最初期の俳人。

いままでは、先駆的な、才ある女性の苦悩と人生、みたいな切り口で多く語られて来たが、もうそんな時代でもなかろう、と思う。

だから、僕の好む久女の作品も、世が代表作として拾ったものでもなくて、次のようなやつ。

草いきれ 鉄材さびて 積まれけり

この句、大正から昭和初期にかけての頃に詠まれていますが、こういう景色を採り上げる感覚は鋭くて、懐かしみさえ覚えます。

そこで、 萬年がよめる、返歌のようなものひとつ。

虫取りの 少年黙す(もだす) 草いきれ

ところで、久女が亡くなって数年後。

1952年、実父の故郷である松本市の赤堀家墓地に、分骨がおこなわれた。

今は、蟻ケ崎市営墓地に眠る久女。

で、ほんの、おまけの話ですが、

そのすぐ近くには、川島 芳子 (1906 ~ 1948年) の墓所が在ります。

では。

空は ツバメのためにある。

昨日。

帰宅すると、やけに多くのツバメらが、上空を乱れ飛んでいる。

近くのつがいでもやって来て、互いになわばり争いでもしているのか知らん?

念のため、隣家の軒下を見に行ったら、この前までは巣にあった黒い頭が見当たらぬ。

そうか!

ツバメの子らの、今日が初飛行だったんだ。

どおりで、思いつくままに、せわしなく飛び回っているわけだ。

数えてみると、ひー、ふー、みー 、3羽のヒナが飛び立った。

巣の外に出ても、引き込み線にとまった子に、親鳥が餌を運んできては与えている。

独り立ちは、まだまだ先。

ツバメは、成鳥になるまでに落命することが多い、と聞いた。

でも、これからしばらく、空は君たちのもの、大いに飛行を楽しむがいい。

田村 隆一(1923 ~ 1998年)の詩に、こんな一節が在った……。

 空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない          (幻を見る人、より)

1952年発表。

時代の暗澹を表出した詩で、僕は好む。

けれど、ツバメよ、そんな絶望には知らん顔で、ひたすら、狂喜乱舞せよ。

では。

梅雨の晴れ間の。

― もう、梅雨入りの時季なんだけどなぁ?、とか言っていると、

― 昨日、関東甲信越は、梅雨に入りましたよ。

今、麦は秋……。

いつまで経っても、70年代を忘れられないから、この曲(1972年発表) が想い出されたりする。

https://youtu.be/Z1lYCJFnxUE

では。

初夏に ふたつの最期。

(時候の憶え、5/24 ヤマボウシの開花に気づく)

木洩れ陽、なんて言葉が、やけに頭の中をめぐっている初夏の日……。

やがて雨の来襲があるだろう、と予報は言っていた。

さてと。

いまから407年前の今日、大阪夏の陣が開戦した。(和暦で、慶長20年4月28日)

江戸幕府  vs  豊臣家、の合戦。

前年の冬の陣とその和議を通し、豊臣側の孤立と凋落は深まっていたから、羽柴宗家の行く末が、半ば見とおせていた戦いではあった。

両者の戦力を比較すると、江戸幕府方 165,000人。対し、豊臣氏陣営 55,000人。

相手の3倍の武装勢力をもって、しかも、外堀が埋められた大阪城を攻略するなんてのは、よほどの下手を踏まない限り、これに失敗するほうが、おかしい話。

事実、2日の戦闘で、豊臣方は敗れ去り、大阪城は炎上、落城した。

この合戦において、家康本陣に二度も肉薄し、家康に自害を覚悟させるくらいの奮戦をみせたのが、真田 信繁 (1567~1615) が指揮を執る真田隊であった。

しかし、あくまでゲリラ戦を敢行したかった信繁の思わくに狂いが生じてしまい、結局は、戦死により要員を減じて疲弊した真田隊は、やむなく退却することになる。

信繁は、撤退の途中、休息していた境内で討たれて、落命した。

享年49。

……、とまぁ、(実際に見てはいないけれど)巷間伝わっているのは、こんな概要。

この合戦に話が及ぶと、いつも、
紀州九度山に隠遁を命ぜられた身であった信繁が、(豊臣家の要請があったにせよ) どうして、戦いに身を投じたのだろう?、という問いが、いままでに、幾多の人々から、繰り返し投げかけられて来た。

実際、当時ならば既に老境の身分。

亡くなる3年前には (隠居) 出家しているんです、信繁は。

真の答えはご本人に訊いてみるしかないんでしょうが、それも、無理。

となれば、ありふれた言い方にはなるけれど、いづれは朽ちるこの身であるなら、それなりにふさわしいと思う死に場所を選んだのではないか?、と今の萬年、勝手に斟酌しております。

で、死に場所、と言えば、もうひとつ。

1954年5月25日 (いまから68年前)、北ベトナムは、ドアイタン近くの堤防で。

インドシナ戦争を取材していた ロバート キャパ (写真家 1913~1954)は、地雷を踏んで爆死した。14時55分のこと。

享年 40 でした。

では。

遠い記憶を巻き戻す『Your Mother Should Know』

― 今回の軍事作戦は、昨年末以来脅威が増して来ていた、NATOによる祖国攻撃に対して、先制的な行動に打って出たもの。

我が国は、今、ナチズム(ネオナチ)との闘いをしているのだ 。

……某国の大統領演説。

(名指しはしていないが)ウクライナは、侵略者の先兵、という位置づけだ。

約80年前、ナチスドイツの侵攻によって味わった、民族の悲惨と苦痛。

(演説が行われた記念日の性格があるにせよ)その遠い記憶を持ち出してこないと、自分が始めた戦争を正当化できないとは、ずいぶんと辛いことだ。

第二次世界大戦における犠牲者は、ソビエト連邦が他国に比べてダントツに多く、軍人と民間人をあわせると、2,660万人の命が奪われた。
註:日本人は、310万人が犠牲となった。

全人口の14%くらいの生命が消えてしまったんだけれど、連邦を構成していたひとつ、ウクライナでは、685万人が亡くなっている。

同じ痛みを負ったはずの、かつての同胞ウクライナ。

そこに武力攻撃をすることで、彼らをふたたび戦渦に投げ入れているとは、なんとも。

歴史が強引に巻き戻されたような有り様に、こんな曲を思い出した。

では。