〈詩〉ではない 何か。

吾亦紅、と書いて、〈われもこう〉と読ます。

秋の日に、桑ズミにも似たその花が、風に揺れている……。

自分もこうなりたい、というネーミングは洒落ているが、

果たして、そのお方、どうなりたかったのか知らん?

 

宮沢 賢治 (1896 ~ 1933 ) の死後、遺品の中、見つかった手帳に記されたメモのひとつに、

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、で始まる、30行が在った。

この冒頭だけで、読む者を惹きつける賢治は、やはり言葉の達人。

けれど、案外、多くの人は、30行の終りまでを読んだことがないのでは?

であるなら、どこかで立ち止まって読むのも、ムダにはなりません。

僕は、その一節の、

イツモ シズカ二 ワラッテヰル、が気に入っている。

ただし。

これは、決して〈詩〉ではない。

理由は、作者が、詩として発表するつもりのなかったこと、これに尽きます。

賢治の詩に触れればすぐにわかるけれど、これを詩と認めないのが、賢治。

せいぜい、自分はこう生きたい、と書き流してみた、そんな記事です。

けれど、たとえ、

実際の賢治が、こういうふうに生きたかったとしても、

作者の生活態度と、その詩作品の価値とは、なんら関係のないのが、文芸のいいところ。

読む側が〈詩〉と思えば、それでいいだろう、って?

言葉による、気の効いた、斬新な発想や感覚の羅列。

いやいや、詩とは、それ以上のもの。

つまり、この世界を観る〈こころざし〉といったもの(補足しました)が、詠み込まれていなければなりません。

では。

間違った紐づけを,正す。

8月25日。

シナ政府が、日本産の海産物輸入禁止に打って出た。

正確に言うと、それまでは10地域に限定/停止していた日本からの海産物輸入を、日本全国へと、対象エリアを拡大した。

で、この案件を、

24日から開始された、福島原子力発電所からの処理水放出に対する抗議措置、という文脈で報道される向きがあるので、はっきりさせておきたい。

(30年以上をかけておこなう福島原発の廃炉工程において、海洋への処理水放流は必須なプロセス、ゆえに、科学的な安全性を保ちながら実施するしかない)

中国政府の今回の措置について、

処理水  ☞  危険物質  ☞  海洋汚染  ☞  そこに棲息する水産物の汚染、

となるので、日本周辺の海域で獲れた魚介は、これを自国には入れない、という彼の国のプロパガンダに惑わされてしまい、

日本人が、あぁ、そうだよな、となるのが、いちばん厄介。

かの国における農薬使用における乱暴さをみればわかるとおり、

シナ政府は、福島原発の処理水が世界的な安全基準をクリアしているのは承知していて、それ自体を問題視していないはず。

では、なぜ?

7/23から、米国に同調して日本が実施している、シナへの先端半導体の製造装置等の輸出規制、

これに対する報復措置に、処理水事案を利用しているに過ぎない。

要は、タイミングをとらえただけの話。

〈法、国際ルール〉による統治、という概念がなく、思想による規範を棄てて久しい国なので、

すべて、モノの分野で相手に応酬する、という行動は、シナの十八番。

これまでも、

豪州、リトアニア、台湾、フィリピン、日本(レアアース)と、相手が自分にとって好まざる行動に出ると、ブツの出入りや購買の分野で、やりたい放題だった。

だって、真に日本産がヤバい、と思うならば、

自国の漁船が、日本近海における強奪的漁業をおこなうことを禁止するに違いない。

日本政府のリーダーたちが、〈遺憾〉表明を繰り返すのは、シナのこういった手法が、いまさらの定例であることを知っているからなんだろうが、

せめて。

海産物は、国内消費するか、あるいは、他の輸出先を開拓するよ、だから、

お前のところの船舶に、日本近海での漁業をやめさせよ、と言うべきだ。

既に、通告していれば、それでいい。

では。

加担者が名乗り出ない。

朝から、疲弊した草花に水やりをしている萬年ですが、

まったく炎暑だった8月が、終わろうとしている。

1945.8.15 という重い転回点があったから、

今月は、大戦にまつわる話が聞こえてくるのが、この国のならわし。

戦没した方々の霊を慰める集会も、いぜん続いていて、今や、参列者の平均年齢は、70代らしい。
多く、当事者の、息子娘の世代なんだろうか。

こういう折、式典に、勤勉に顔を出しては、

箸にも棒にもかからぬような、空疎な慰霊文を読み上げる御方には、ホントに頭が下がる。

こういう苦行を淡々とこなすには、聡明と、よほどの忍耐心を要します。

思うに。

語るほうにも、聞く方にも、あたりさわりのないお言葉、これが重宝されて、そして、それでその場を済ましてしまうのが、私たちの美徳なのだ。

海の向こうに出て行っておおく他国を荒したけれど、同時に、使わなくても済んだ殺傷爆弾で無益な被害を被った。

……と、どこかでは言っているはずなんだが、場所と言葉を使い分ける術は、一級です。

年を追うごと。

古い世代が、おおかた死に絶えている事情もあって、

俺があの戦争を起こした、そこに加担した、先導した、という発言がほとんど聞かれなくなり、

自分は、周囲の者は、ただただ辛酸をなめた被害者、あるいは、悲惨な光景の目撃者、そんな話につき合わされるのには、うんざりだ。

みずから戦闘機を駆って、そのまま敵艦に突入する〈特攻〉についても、あたら若い命を……、といった語り口。

戦いがすすみ、練達のパイロットが多く落命していって、

技量の低下が著しいのが背景にあったとしても、あの戦法は、かなり生産性の低い悪手。

それに、搭乗者は結局、(同じように徴兵された)敵国兵士の殺害を目的としているのだから、悲劇が、こっちの専売特許でもなし。

長ずれば、兵隊になって、天皇陛下バンザイで死ぬのだと教育され、それを信じ込んでいた自分(それを責めてはいません) についてはダンマリで、ただただ被害者ヅラするのは、フェアじゃあないですよ。

敗戦の直後に書かれた、伊丹 万作 (1902~1946年)の著作には、

― このたびの戦争遂行について、自分はだまされたのだ、と言う者ばかりで、だましたと名乗り出る者は皆無である。
が、そうじゃあ、あるまい。
日本人全体が、新聞、ラジオ報道の愚劣からはじまって、町会、隣組、警防団、婦人会といった民間の組織は、自主的に熱心にダマす側に協力していたではないか

―とあるが、どうも、そういった反省がうやむやにされたまま、こんにちまで来ている、と思ったほうがよさそうだ。

話はかなり飛躍しますが、

いまだにところかまわず、たとえひとり乗車の運転席でも、マスク着用、なんていう情景をみると、

こういう思考停止、自省の無さ、無批判が、戦争遂行にとって、いちばんありがたいことだろうなぁ、と思う、きのう今日。

では。

残暑の無念,ふたつ。

秋が立った日、

逝く夏はこれで〆よう、と思い立ち、

7歳の男児を連れて、

数十年来、夏季限定で営業の、かき氷屋に出かけていった。

あがたの森に駐車して、歩く。

店に近づいていくと、あれ?

しっかりとシャッターが下りているではないか?

通りを渡って、貼り紙を読むと、

〈ケガの為 休業〉

なんということだ。

ヒマラヤスギの緑陰で食する、という目論見も、一瞬ですっ飛んで、
事実上、今夏の店じまいを覚悟しなきゃ

同じころ、海の向こう。

ロビー ロバートソン (1943年7月5日~2023年8月9日)が、ロサンゼルスの自宅で亡くなった。享年 80。

ザ バンドが創り出した音楽を通して、ずいぶんと楽しませてもらったし、いまでも時折、車中で聴いています。

今回は、映画『ラストワルツ』(1978年7月日本公開)から、一曲。

『The Weight』(人生の重荷、とでも訳す)

ステイプルシンガーズとの共演で、リードギターを奏しているのが、ロビー。

では。

無題。

先日、高校卒業〇〇周年記念集会への案内状が、届いた。

こういう便りは、20年ぶり。

みると、会費が、(当日受付にて徴収で)

男性 6000 円、女性 5000 円 、とあり、

思わず、なんだ、これは?

価格差が、まったく理解できない。

飲み会、という場にはトンとご無沙汰なんだが、世上で通用しているのかいな?、こういうやりかた。

女性を軽んじているように、僕には思えてしまうのだけれど、

これ、

性別は関係ないだろうの姿勢でいながら、都合が悪くなると〈女〉へと逃げ込む態度と同様に、タチが悪い。

では。