曝されて 白くなる。

一年ほど前のこと。

小学一年生に、

― 最近、調子どう?、と、(学校生活を念頭において)尋ねたら、

― ボーっと、過ごしている、と、笑いながら答える。

……なかなか洒落たことをいう、と感心した。

人間、考えることをやめると、〈時代〉に逃げ込みたくなり、

物事を見つめようとすれば、〈個人〉に迫らざるをえない。

ふと、そんな言葉が、口をつく。

年月に曝され、ものが漂白されると、

そこでは、個性が、押しつけがましくもなく、ただ静かにたたずんでいる。

果たして、そうなれるかな?

では。

嘘でも,かまわない。

人間の記憶を、もっともよく喚起する感覚は、嗅覚である

……いつか、家人が言っていた。

その出典は知らないが、

匂いや香りが、ひとの記憶を、呼び覚ます契機になることが多い、とか。

そのご説の真偽など、どうでもいいんだが、

クズ(葛)、ラベンダー、キンモクセイ(金木犀)の、それぞれの花の香りを知っていることを、大切にしよう、とは思う。

その金木犀が、9月30日に匂い出した (=開花した)。

涼しくなったことでもあるから、これから 1週間は、楽しめるかも知れない。

秋冷の頃の、ならわし……。

では。

贅沢にも,いろいろあって。

贅沢は敵、などとは、決して思わない。
(そういう世代は、もう多くはお墓に入ってしまった)

ただし。

あくまで、神がゆるし給う範囲内で、ヒトはそれを楽しむべきだろう。

とにかく、自分の分限をわきまえていないと、何事にも、洗練さが伴いません。

ご幼少、たしか、保育園の頃、聞かされた紙芝居。

ひとりの子供が、果実だと、味わうにどれがいちばん優れているかと、思案している。

あれは、皮を剥かないと、これは、タネを吐き出さないと……、

そうだ、無花果(いちじく) ならば、獲ってそのまま食べられるぞ、だから、いちじくが、いちばんだ!!

これが、実物を知る以前の、我が人生における無花果とのなれそめ。

庭の端、隣家との境に、いちじくを植えてから、(たぶん) 10年。

いまや、(おそらく) 数百の実をつけるようになって、その甘味に惹かれては、野鳥、クバンバチ、スズメバチ、コバエが、さかんに集ってくる。

自然をリスペクトする僕ゆえに、

彼らを避けて、かつ、高いところに成っているのは諦め、
朝夕、葉陰から熟れたやつを、ひとつ、ふたつ捥ぐと、

そっと割っては、そのまま口にふくんで、柔らかな果肉を楽しんでいる。

はて?

旧約聖書の、イヴとアダムが食した、命の樹の実とは、一体何だったのか。

具体的な樹木名は、記されていない。

この際、無花果でもいいや、などと、秋の空を見上げてはいるけれど、

これって、かなり贅沢な時間なんだろうな、と思う。

では。

〈詩〉ではない 何か。

吾亦紅、と書いて、〈われもこう〉と読ます。

秋の日に、桑ズミにも似たその花が、風に揺れている……。

自分もこうなりたい、というネーミングは洒落ているが、

果たして、そのお方、どうなりたかったのか知らん?

 

宮沢 賢治 (1896 ~ 1933 ) の死後、遺品の中、見つかった手帳に記されたメモのひとつに、

雨ニモマケズ、風ニモマケズ、で始まる、30行が在った。

この冒頭だけで、読む者を惹きつける賢治は、やはり言葉の達人。

けれど、案外、多くの人は、30行の終りまでを読んだことがないのでは?

であるなら、どこかで立ち止まって読むのも、ムダにはなりません。

僕は、その一節の、

イツモ シズカ二 ワラッテヰル、が気に入っている。

ただし。

これは、決して〈詩〉ではない。

理由は、作者が、詩として発表するつもりのなかったこと、これに尽きます。

賢治の詩に触れればすぐにわかるけれど、これを詩と認めないのが、賢治。

せいぜい、自分はこう生きたい、と書き流してみた、そんな記事です。

けれど、たとえ、

実際の賢治が、こういうふうに生きたかったとしても、

作者の生活態度と、その詩作品の価値とは、なんら関係のないのが、文芸のいいところ。

読む側が〈詩〉と思えば、それでいいだろう、って?

言葉による、気の効いた、斬新な発想や感覚の羅列。

いやいや、詩とは、それ以上のもの。

つまり、この世界を観る〈こころざし〉といったもの(補足しました)が、詠み込まれていなければなりません。

では。

間違った紐づけを,正す。

8月25日。

シナ政府が、日本産の海産物輸入禁止に打って出た。

正確に言うと、それまでは10地域に限定/停止していた日本からの海産物輸入を、日本全国へと、対象エリアを拡大した。

で、この案件を、

24日から開始された、福島原子力発電所からの処理水放出に対する抗議措置、という文脈で報道される向きがあるので、はっきりさせておきたい。

(30年以上をかけておこなう福島原発の廃炉工程において、海洋への処理水放流は必須なプロセス、ゆえに、科学的な安全性を保ちながら実施するしかない)

中国政府の今回の措置について、

処理水  ☞  危険物質  ☞  海洋汚染  ☞  そこに棲息する水産物の汚染、

となるので、日本周辺の海域で獲れた魚介は、これを自国には入れない、という彼の国のプロパガンダに惑わされてしまい、

日本人が、あぁ、そうだよな、となるのが、いちばん厄介。

かの国における農薬使用における乱暴さをみればわかるとおり、

シナ政府は、福島原発の処理水が世界的な安全基準をクリアしているのは承知していて、それ自体を問題視していないはず。

では、なぜ?

7/23から、米国に同調して日本が実施している、シナへの先端半導体の製造装置等の輸出規制、

これに対する報復措置に、処理水事案を利用しているに過ぎない。

要は、タイミングをとらえただけの話。

〈法、国際ルール〉による統治、という概念がなく、思想による規範を棄てて久しい国なので、

すべて、モノの分野で相手に応酬する、という行動は、シナの十八番。

これまでも、

豪州、リトアニア、台湾、フィリピン、日本(レアアース)と、相手が自分にとって好まざる行動に出ると、ブツの出入りや購買の分野で、やりたい放題だった。

だって、真に日本産がヤバい、と思うならば、

自国の漁船が、日本近海における強奪的漁業をおこなうことを禁止するに違いない。

日本政府のリーダーたちが、〈遺憾〉表明を繰り返すのは、シナのこういった手法が、いまさらの定例であることを知っているからなんだろうが、

せめて。

海産物は、国内消費するか、あるいは、他の輸出先を開拓するよ、だから、

お前のところの船舶に、日本近海での漁業をやめさせよ、と言うべきだ。

既に、通告していれば、それでいい。

では。