画業には,腕力も必要。

レンブラント ファン レイン (1606~1669年,蘭の画家) の作品をみると、

かなり大きな画面を、破綻なく構成できている。

たとえば、『夜警』(1642年作)と呼ばれるものは、縦3.6m × 横4.4mのサイズ。

あれだけの画一枚を仕上げるには、相当の体力と肉体労働を要したはずだ。

ただし。

当時、レンブラントは多くの弟子を抱え、工房システムで制作していたから、

画面の細部まですべてを本人が描き切ったのか、どうか?

 

世評が確立された大画家。

人の肖像は巧いから、その方面では繁盛したんだと思う。

が、描かれた人物たちに、あまり素直な共感を抱けない。

何故だろう?

聖書の劇的なシーンを題材にした作品も多いが、それほど心を掴まれるってことはない。

ただし、これは、レンブラントの腕前がどうのこうのではなく、

僕自身の、バイブルの登場人物たちへの、感情移入の貧困なのかも知れません。

でも。

唯一、例外として気に入っている作があって、

タイトルは、『屠殺された牛』(1655年作、サイズ96㎝ × 69㎝、板に油彩)。

こういう題材を選ぶところには、きっと、注文による制約もなかっただろうから、

画家が、心底、描きたかった画のはずで、

つまり。

俺は、単に絵筆を巧く操れる職人ではないぞ、

この物体が置かれた空間こそ、確かな世界、いままでの〈美〉の概念を変えるやる

……みたいな気概、を感じますね。

400年前に描かれた、この一枚には。

では

訃報ばかりで,嫌になる。

俳優のドナルド サザーランド(1935~2024年) が、

今月20日(現地時間?) に死去したことを、22日(日本時間) になって知った。

享年 88。

ニュースを定期的に追っかける習慣の失せた僕にしては、めづらしく早く接する訃報。

2000年前の昔から、

人の誕生は、衆人の目につかずに密やか。

けれど、かと言って、

こう逝去ばかりが目につくと、心が滅入って、どうもいけない。

さて。

サザーランド出演作品を、好んで観るようなファンでもない僕にとっては、

『鷲が舞い降りた』(1977年米映画) の、

ドイツ軍のスパイとして雇われた、IRA活動家、の演技が記憶に残る。

彼の場合、登場人物に成り切る、というよりも、

自分の個性のほうへと、役柄自体を強烈に引き寄せて演ずる、といった風味があって、

それが、なによりの魅力。

だから、ご本人の年齢の積み重ねが、そのまま役に滲み出る……。

ご冥福を願って、せいぜい〈生成りな〉人生を過したいと思う。

では。

キジバトは,巣立った?

庭の金木犀(キンモクセイ)の、

僕の手を伸ばすと届く高さに、キジバトが、小枝を集めて巣を作った。

かれこれひと月も経った先週の15日に、

それまでずっと、巣を守っていたキジバトの姿が消えた。

卵を抱いていたはずだが、無事にヒナが巣立ちしたんだろうか?

僕の素人計算では、一週間くらいは早いように思われたので、

営巣を始めた時季をハッキリさせようと、

記憶をたどるため、その頃に訪問した親族に、日付けを確かめたりしたんだけれど。

記憶よりも記録だったか……、と後悔、先に立たず。

空っぽの巣を見あげては、新しい生命が旅立ちしたことを願っている。

では。

吟味を迫る時代に。

家人から、しばしば苦言されることがありまして。

僕が、なんでも(彼女の発言に対する) 批判から入る、という。

いったん、そうだよね、と受けとめておいて、

次に、おもむろに(しかも穏やかに)、でもね、こんな考え方、観方もあるよ、とやれば、きっとご機嫌を損ねることはないだろうが、

レストランの評価でもあるまいし、

あれもこれも、という生きかたに僕は疑問を持っているので、

今後も同じことをやって、家人のご不興を買うに違いない。

最近。

読みだしたばかりの、デカルト(1596~1650年) の『方法序説』の冒頭には、こうある。

良識(=理性)は、ひとに公平に分かち与えられたものであって、
だれでも十分にそれを備えていると思っているので、自分がいま持っている以上を望まない……

この説の真意がどこにあるのか?

それは、これから読み進めていかないと知れないことだろうが、

こういう書き出しは、かなり魅力的でいい。

というのは、

書かれてから 400年経っても、読む者を、有無を言わせず

〈理性〉といわれているものを吟味させるかのように、誘うからなんです。

もちろん、これは、今現在の、僕の問題意識に、ぴったり来た!、というに過ぎませんけれど。

では。

女王は孤独に死す。

過日、初夏の陽射しの中で。

玄関わきのヤマボウシにたまたま、スズメバチの巣を見つけたのである。(地上高 2.5mくらいのところ)

子どもの握りこぶし大の、薄褐色のフラスコを、逆さにしたような格好でぶるさがる。

筒状の突起が、巣の下側についていて、これが、蜂たちが出入りする入り口か。

この時季、巣では、女王蜂がひとりで、巣作りと産卵にいそしんでいる。

このまま放置すれば、

数百匹の働き蜂(すべてメス)と、交尾専門の、(全体の10%程度の)オス蜂が棲息する、立派な巣になるだろう。

しかし、

攻撃的なスズメバチと、これほど身近に生活するのは、とても勘弁。

蜂に刺されて死ぬのは、なんとも気が進まない。

そこで、いまのうちにと……、

脚立を隣家から拝借してくると、

巣のついている枝を切り取った。

異常に気付いたか、巣からそそくさと出て来た女王蜂ともども、袋をかぶせて捕獲する。

で、袋の口からジェット式の殺虫スプレーを噴霧して、一気に殺害した。

入り口から巣の中を照らして見ると、1ミリ程度の、小さな卵(白色)が3つ、仕切られた部屋に産みつけてある。

数日中にはふ化するだろうが、もうママからは栄養をもらえず、餓死するしかない。

……このようにして難を逃れた一部始終を、

やって来た小学二年生に、残された巣をみせながら話したら、

自分は、もうこれ以上、そのスズメバチの巣を見るに堪えない、と言う様子をみせる。

この出来事で、ふと、僕に、

〈死〉についての、幼少時の感覚がよみがえる。

この年代では、

死を、生命活動の停止といった現象ではなく、

もっと切実な、まるで世界の終わり、と感じていたということを。

だから、

― 太陽と死はじっと見つめることができない。
by ラ ロシュフコー (1613~1680年)

といったような言葉を、気の効いた言葉として喜ぶのは、

実は、大人になり切れない子どもに似た感性であることがわかる。

死を直視し、それに対処できなけりゃあ、いっちょ前の大人とは言えない。

もちろん、子どもの心で生きることをいやしめるつもりもありません。

では。