遺言の完成 (後編)

遺していく財産をどうこうせよ、といった生臭い話は別にして、
死者葬送のやり方なんてのは、遺された者たちが、どういう体裁を望んだか?、で決まる。

前編で紹介した魯迅の、遺言(めいた信条)がはっきり在れば別だが、故人の意思など反映していない場合がほとんどだろう。

対外的に何も執り行わない場合、もっぱら本人の意向で、という理由づけが多いけれど、これだって、本当の事情なんか他人にわかろうはずもない。

ところで、雑文『死』で魯迅は、七つの信条に続いて、こう書いている。

―熱があったとき、西洋人は臨終の際によく儀式のようなことをして、他人の許しを求め、自分も他人を許す、という話を思い出し…た。
私の敵はかなり多い。もし新しがりの男が訊ねたら、何と答えよう。
私は考えてみた。そして決めた。勝手に恨ませておけ。私のほうでも、一人として許してやらぬ。―

人生最後の約10年間、シナの社会と民衆の後進性に苛立ち、ペンで激烈な悪口を叩きつけては、論敵を吊し上げ続けた魯迅。

その彼にまっことふさわしいこの文章に出逢い、自然に笑いがこみ上げてきた。

最期まで闘争する姿勢を崩さないとは、さすがだったな、と。

では。

〈コメント〉
☞つー さん より (9/13 10:36)
知らぬは仏ばかりなり。
もし私が遺言を書くとしたら、「全て許すから明るく楽しく生きなさい」と書くかな。
多分、私が亡くなった時、残された者はひどく悲しむだろう。多分悲しむはずだ。生きる気力も失くすかもしれない。多分失くすはずだ。
しかし時が経てば悲しみの記憶は、心の奥に沈んで行くだろう。また、笑える日々が必ず来るものだ。
もしかして恋をする事もあるかもしれない。再婚さへ有るかも。
そんな時、君が「私はこれでいいのか」と、ふと私の顔が浮かんだ時、遺言を思い出してほしい。
笑って生きていいんだよ。楽しんでいいんだよ。もちろん再婚もOKさ。
そんな遺言を残そうかと思うが、いざとなったら書けるかどうか。
それに、そんなことを書いても「余計なお世話よ、私は私で楽しくやってるわ」と一蹴されるのが、関の山(今時使うのか)だろう。
もちろん、それでいいと思う。
では、また。

☞萬年より (9/13 17:00)
亡くなったら成仏しないといけませんよね、知らない仏になるためには。
忍者武芸長のラストのセリフは、たしか〈モノを作り出すのは生きている俺たちさ〉だった、と記憶しますが、現世のおこないとは、まさにそんなところでありましょう。
生きている今は、せいぜい仏の顔も三度まで、を教訓に暮らしたいものです。

倍速の瞬殺,に立ち向かえ (栃木戦プレビュウ)

順位はともかく、甲府とは対戦成績でトントン、甲府が3バックを採用、ということもあって、このプレビュウは、第15節 栃木 vs 甲府 (8/30、1 – 0 で栃木が勝利)を下敷きに書いています。

〈栃木が 一気の瞬殺サッカーで来る理由〉
❶全員がハードワークしてゴールに向かうサッカーが信条であること。

リーグ最少失点は、単に田代 雅也キャプテンを中心とした最終ライン(4バック)だけの勲章ではなく、前線のファーストディフェンスから手を抜かないことの賜物なのだ。

❷(おそらく)昨季20位で土壇場ギリギリ残留したという危機感、攻撃力不足と個のクオリティなどからして、チンタラやって胸を合わせたら勝負できない、という田坂 和昭式の計算が在るはず。
なにせ、得点のほうはリーグで下から2番目。(ただし、攻撃回数では上位)
相手に合わせることなく、スキを衝いて攻め切るに限る、という判断だろう。
攻撃の様相はカウンターだが、受けて立ったところからでなく、圧迫し続けておいてボール奪取と反転、という感じ。

❸山雅ディフェンス陣の主力が、近年の栃木ディフェンスを熟知していること。

服部 康平は、2018年にほぼDFとして、38ゲームに出場。
2019年は、森下 怜哉が27ゲーム、乾 大知が19ゲームに先発だった。

手の内を知られていればこそ、考える余裕など与えず、むしろ処理しにくいようなボールを入れて、守備網に穴を開けにかかるのではないか。

……、こう書いてくると、田坂氏がかつてコーチであった(2016年)、どこぞのチームを描写している錯覚に陥るんです。

〈方向性を信じ、さらなる深化をめざせ〉
ようやくリーグ前半終了間際になって、まだフルスピードとは言えないけれど、山雅式が整って来た感あり。
前節山口戦での仕込みを無にすることなく、山口と同様、一途に向かってくる栃木をどうやって攻略するか?

❶ゲーム開始から、でき得る限り栃木の勢いに押されない工夫が要る。
イーヴンで蹴り込まれるボールのはね返りを手中にするには、ディフェンスラインとその前の2列目(ボランチ)間のスペースをコンパクトに締めること。
甲府は、5 – 2 – 3 の、2と3の間が間延びて、そのスペースを良いように栃木に使われていた。

相手を前に向かせない、となれば、当方も同様にロングボールを使ってもかまやしない。
ハッキリとした狙いで中途半端なボールを入れ、栃木DFを背走させよう。
バタバタと落ち着かない、忙しいサッカーにも手を染める勇気を持って、そのためのメンツを先発として配置するのが良い。

❷攻撃を厚くするためには、中盤でボールを動かながら人数を増し揃えていくこと。
だからこそ、それに挿し込むシンプルな攻撃も効いてくる。― これぞ、山雅式攻撃の眼目。
しかも、栃木の失点をみると、ショートパスからが、全体の40%。
ゆえに、長短のパスを駆使した攻撃がますます有効なのです。


それには、セルジ―ニョ、杉本、久保田、鈴木らをどういうタイミングと組み合わせで投入するのか?、ここが采配の妙でありましょう。

❸フォワードへの割り当てを綿密に。
それぞれの強みの発揮を含んだ仕事をハッキリさせ、ピッチで各自に与える時間的なプランを伝えるくらいに徹底しても良いのでは?

現在、チームトップスコアラーは塚川 孝輝(5点)。
彼の攻撃的なプレイスタイルの結果、とも言えるけれど、今節こそは、フォワード陣が、スコアを刻むことを望む。

で、ボランチは、アウトサイドハーフと連携して、栃木サイドバック(溝渕、瀬川)を封ずることと、セカンドボールの回収に、まづは、注力したい。

では。

遺言の完成 (前編)

(データが消し飛んだ以前の記事を、ほとんどリライトで書き留めます)

今から84年前の8月、大病を患った魯迅 (原音で ルーシュン、1881~1936、シナの作家) は、死についての予感をはっきりと抱く。

そこで、遺言とするつもりで、いくつか箇条を並べてみた。
ただし、それを正式な遺言状には仕立てなかったらしい。

(その事を雑文『死』として発表したのが 9月20日で、翌10月19日には、喘息の発作で急逝する)

100年近く経って読んでみて、魯迅の訓示が自分の気持ちに相当近いのに驚きながら、転写する。(訳は、竹内 好による)

❶葬式のために、誰からも、一文でも受け取ってはならぬ―ただし、親友だけはこの限りにあらず。
❷さっさと棺にいれ、埋め、片づけてしまうこと。
❸何なりと記念めいたことをしてはならぬ。
❹私のことを忘れて、自分の生活にかまってくれ―でないと、それこそ阿呆だ。
❺子どもが成長して、もし才能がなければ、つつましい仕事を求めて世過ぎせよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな。
❻他人が与えると約束したものを、当てにしてはならぬ。
❼他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

残された遺族が、魯迅の注文どおりに処世したのかは知らないけれど、そのままいただいて萬年の遺言にしたって良い。

ただし、もうひとつ足すのはどうか?、と思っている。すなわち、

❽人に手を貸すことを当たり前と思え、けれど、助けてもらって当然と思うな。

では。

喜ぶべきか、悲しむべきか?(2020.9.9山口戦レビュウ)

結果は、2 – 2 のドローであるが、その評価はどうか?

ゲーム後の、ヒーロー?インタビュウに、塚川 孝輝は笑顔まったくなしで対応した。

観ていて、その気持ちは痛いほどわかったけれど、やはり喜ぶべきゲームでありましょう。

だって、1 – 2 の逆転負けで終えていたら、さぞかしヒドイ日々と暮しだったろう。


たとえ苦笑気味の同点弾だったにせよ、塚川だって浮かばれないでしょうし。

〈喜ぶべき、今後につながる良点〉
❶ほぼゲームプランどおりに進められ、攻撃のアクセルを踏み込んだ直後に、先制点に手が届いた。

❷ゲームを通し、そこそこソリッドな陣形を保つことができた。
これは、最終ラインに落ち着きと、錬成がすこしづつ見えてきたのが大きい。

❸攻撃的なカードを投入すれば、相手陣形を緩め、その間隙を衝くことができるようになった。
72分、セルジ―ニョがダイレクトで阪野に出したパス、あれは秀逸のJ1レベル。

GKから2本のパスでシュートまで行くシンプルさが在ってこそ、波状的なパスで崩すやり方が活きてくる。
でないと、堅く守るJ2特有の守備網は、なかなか破れない。

❹(山口のような)攻撃的なチームとの対戦に有効な中盤の組み合わせにはメドがたったが、これを守備的(=失点の少ない)なチームとやる時、どうやって適合/変容させていくのか? ➡次節の栃木戦でテストだ。

❺トップを担う、ジャエル、服部、阪野、さらに高木 彰人。
それぞれの持ち味(強み)、スタイルが披露されてきて、前線に期待値が高まっている。
これは、チーム内理解度の総体が上がっている、と見るべきでしょう。
※2度ほど決定機を外してヒーローになり損ねた阪野の奮起にこそ期待!

……、なかなか調子の上がらないチーム同士の対戦という事情を差っ引いても、前半戦の終盤近くになって、ようやくわづかではあるけれど、布サッカー方式がつかめてきた萬年。

正直な現状認識(の発言)、チャンスを与える選手起用、ゲームプランと交代枠発動、これらについてはけっこう納得しています。

いままではなぞったようなデッサンであったのが、描線一本一本がしっかりと魅力的になっていく、そんな予感ですかね。

では。

視ていることに 気づく夏。

八月下旬の或る日、隣家の軒先に宿っていた燕らが、いづこへか旅立った。

どこかに集合して大きな群れに入ると、これから暖かくなる地をめざして渡っていくんだろう。

……彼らがもう居ないことに思いあたったのは、今月になってから。
なんとも迂闊なことで。

毎朝庭に出ると、敷地を横切っている引き込み線に、数羽の燕がすぐにやって来てとまることに、この夏になって気づいた。

隣家の亭主が家から出て来ると、その挙動を眺めようと巣から出てくる、ということを。

T氏のお宅にも毎年燕が飛来するそうで、しかも、このところずっと、シングルの一羽でやって来る、という。

未亡人か、それとも男やもめかは不明なるも、なんとも義理堅い話ではないか。

下界のほうでうろうろしている人間を、どれどれと眺めている鳥のこころ、それを識っただけでも、この夏には価値が有った、僕にとって。

野鳥は案外、人間の行動に好奇心を持っているらしい。

で、彼岸入り前の数日間には、〈玄鳥去る〉(つばめさる)という季語をあてる。

玄、とは黒色のことで、黒い鳥だから、燕。

遠い旅する彼らの無事を、とにかく祈る。

では。

〈コメント〉
➩つーさん より (9/9 12:09)
玄鳥で倒れし武士に気づく夏。
玄鳥と聞いて妙に暗いイメージが浮かぶので、何故かと考えたら、藤沢周平の文庫本の表紙に、玄鳥が飛び交い、その下に血を流した武士が倒れているという絵があったのを思い出した。それが頭の隅に残っていたのだ。
玄鳥と言う短編小説、下級武士である主人公の悲哀を、昔彼に好意を抱いていた女性の目線から描いた、いかにも切ない作品だった。
藤沢周平と言えば「たそがれ清平」「隠し劍鬼の爪」「武士の一分」など山田洋次により映画化され、どれも見応えのある佳品に仕上がっているが、彼の監督作品ではないのだが「山桜」と言う小品、観た後いたって心が落ち着く作品で、つい何度も観てしまうつーさんである。
では、また。