ギラヴァンツ戦が 証明したもの (レビュウ その2)


古参サポーター京子さんからの、ゲーム翌朝の定期メール。

放出したプレイヤー、レンタル移籍のプレイヤーをごっそりと復帰させよ、といった内容で、クラブ幹部へのうめき声が、書き込まれてあった。

たしかに、下川、永井、小松 蓮。現チームで重用されているようだし、気持ちはわかります。

次いで、青森の親族からは、前田 大然、マリノスに決まりですよ、との報が入る。(確めたら、期限付き移籍)

情報チャネルには、事欠かない萬年家なのだ。

午後は、庭の草むしりをしながら、つらつらと考えた。

コロナ禍での応援では、拍手のみが許される。
ゆえに、観客は、不甲斐ないプレイに不満を表現する手段を奪われている。
これは、ゲーム自体の変容だ。特に、アルウィンのような処では。

無声援の、ひどくアンフェアな状況に縛り付けられて観ている。

この事情は、果たしてクラブに届いているんかいな。

J1第8節は、浦和が引分けたのみで、あとはホームチームがすべて敗戦。
ひょっとしたら、チームの移動負担をのぞき、ホームの優位性は無いぞ、今季。

つまり〈静かなる応援〉では、アルウィン劇場は決して開幕しないな。
リモート応援以外の、別の方策を開発、許容しない限りは。

前節と今節の2点目は、間違ったパスと、マークすべき相手を逃したDF大野 佑哉のミス。
だから、大野は、ゲームふたつ分の借りを作った。
彼には次なるチャンスに、それを埋めて余りある仕事を期待する。

しかし、与えたコーナーキックが 13本かぁ。

こういう流れを断ち切る、なんらかの方法論的な修正が、ピッチ上のメンバーでできないのか?
精神論ではなくて。

結局は、そこなんだろうなぁ。

ただ、昨夜前半なんとか凌げたのは、ボール回しにおけるギラヴァンツの拙さを衝けたから。
要は、相手には結構ミスや逡巡もあった。

だが、次節磐田は、もっとお洒落に巧く繋いでくる。

さぁ、どうする?

では。

去るべき者は誰か (2020.8.02 北九州戦レビュウ)

アディショナルタイムに、中美 慶哉が 一矢報いたが、1 – 2。
敗戦が、デジャヴのように、これで3つ並んだ……。

継続性のサッカーを展開できるギラヴァンツに対し、連携(意思統一)と練度にかなり不足する山雅が、持ち堪え切れずに屈する、ってのがゲーム様相のデッサン。

解説の飯尾 和也氏は山雅同伴者みたいな御方なんで、かなり好意的な物言いだけれど、そもそも、堪えておいてから、さてっ、という出発点が、山雅の偽らざる現在地、と思い知らされた夜、と心の日記には書いた。

前節同様、被コーナーキックへの対応不足と、追加の2点目をやすやすと許したのには、怒り心頭、ってレベル。
ゲームへのこだわり方が、軽い軽い。
以上は、最初に、苦言として。

さて、第9節を終え、登録メンツの出し入れについてはチーム内事情まで承知しないので、ともかくも、
見守るファンとして、今こそ覚悟が必要と、感じている。

〈不信と 内部崩壊は ご法度なり〉
チーム本体の諸事情は、中の人々に挽回をお任せするしかない。

ここでは、クラブを取り巻く者としての思い切り、について。

❶トップリーグに居る山雅しか受け入れられない者、常勝の山雅のみを支持できる者。
こういう方々は、この際、引き下がって身を引く、ってものだろう。
勝ち馬にだけ乗りたい、という価値観ではおそらく、いまの山雅に付き合え切れない。
さっさと、リボンマグネットを剥ぎ、旗を巻くのがよい。

❷辛くとも、新時代を画する覚悟でやっているスタッフ、プレイヤー、チームと添い遂げることを前提とした、語り口が求められる。

シュート19本、コーナーキック13本の雨あられ、というのは、まるでJリーグ1年生の頃に戻ったようなめまいさえ覚える。

けれど、この事実を前に、昨季トップリーグに居たチームがなんだかんだ……、と持ち出して来たところで、建設的な切り口は見い出せない。

まぁ、独りでつぶやくのなら文句は言いませんがね。

❸むしろ、召集されたメンバーによるゲーム作り、采配について論じよう。
やがて復帰するメンバーの分だけ、そこへクオリティが増し加わる、ってもの。
僕たちの頭の中から振り払うべきもの、それは、残像にすがることと、〈不在〉への不評だ。

チャレンジャーとしての自己定義が、僕たちには弱まってしまったのか?

〈誰になにをやらせるのか?〉
DAZN観戦、という制限下での感想は、この見出しに尽きる。

MAX5人の交代と、布陣の変更を織り込みながら戦術を遂行する今季。

となると、攻守における各自のミッションがかなりハッキリと共通理解されてないと、ゲームが作れない。

チャンスを新たに与えられるプレイヤーからは、強みを出そうという姿勢が感じられるのだから、誰にどの強みで勝負させるのか?、をチーム全体で演出していくことに、もっとフォーカスして準備すべき。

たとえば、服部 康平を前線の起点とするならば、彼にボールを当てるその時、他のプレイヤーがどこで、なにを予測するかを、もっと突き詰めること。
ボールが落ちてからまでの画が、いまだ描き切れていない。

山本 龍平、吉田 将也、アウグスト、彼らからはサイド攻撃の可能性が強く予感された。
ならば、最終そこへボールが入るための組み立てをデザインして、練習で再現性を高めておく。

ゲームの中、田中 隼磨の表情からは、ツーカーでないことへのフラストレーションを読み取った。
単発、孤立ではいけない。

中美 慶哉のボランチ起用は成果をみたのだから、できたことにもっと光を!

久保田 和音を前に上げて、アウグストをボランチに、というのも観てみたい。

Use, or  Lose.
使え、さもなくば、失うであろう。
特に、外国籍プレイヤーをなかなか使いこなせない伝統は捨てようよ、山雅。


そして、松田 直樹がクラブに注入したものを味わっている梅雨明けの今日……。

では。

取ってつけた言葉、腑に落ちる言葉。


日曜日の朝8時から、西田佐知子の亭主が司会をやってるTV番組がある。

ある時、政治に関するトピックのところで、中西 哲生(サッカー解説者)に司会が意見を求め、それに対し、中西も臆することなくコメントしていた。

おいおい、それは、武田 鉄矢に対し教育について語れ、と問うに等しいくらいの暴挙だろう。

コメンテーターとは、すべてのトピックについてかならず発言しなきゃならない仕事らしい。

自分はスポーツ解説者だから、このトピックについてコメントするほどの見識はありません、と辞退することもできないとは……。

さて、朝鮮日報は、南韓の右派メディア。
(たとえば、漢字復活を提唱している)

その記事(日本語版)に、そうだよなぁ、と感心した言葉が載ったので、そのまま転記する。

死はそれまでの人生の総括だ。どのように死ぬのかを見れば、どう生きたのかがわかる。まともに死ぬためには正しく生きなければならない。
公的にみて朴元淳の人生は偽善的で破廉恥だ。彼が『清廉な人間』ならば、決してこんな結末になるはずはない by 張 琪杓

※7月9日、みづから命を絶ったソウル市長。政権与党は清廉な人物とのキャンペーンに忙しい。

かなり厳しい言葉。
けれど、主義や信条を越えた、爽快さに打たれてしまう。

周囲に臆することなく正々堂々とモノを言う人が、だんだん少なくなった。

もちろん、SNSの匿名性に隠れて言いたい放題なのは、論外。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (8/2 23:33)
私の目標とする逝き方。
医者が患者にかなり状態が悪い事、そして後1ヶ月持つかどうかと告げている。
私と私の妻は青ざめて聞いていたが、当の本人は表情ひとつ変わらない。
医者が病室を出た途端「おい○○や、そこの本取ってくれや」
いたって普通の口調である。
その本は、安曇族のルーツを探ると言ったような本だった。
ベッドの周りは、新聞、雑誌、本が山積みだ。
それから、一月後寝ているのかと思ったら亡くなっていた。
死ぬ直前まで、自分の生きる姿勢を崩さなかった義理の父。
そんな義父も一年前、彼の飼い犬が私の家で亡くなった時は号泣していた。
私もそんな死に方が出来たらと、思うが、人間の大きさが違いすぎる。
はてさて、どうなることやら。
急がずその時を待つとしよう。
では、また。

走破の限りを尽くせ (北九州戦プレビュウ)


ギラヴァンツとは、4年ぶりの対戦だ。
やぁ、久しぶり。

池元には会えるんだろうか。
(それに、長島コーチとも)

永井 堅吾はレンタルの契約上不在。
加入1年目で既に、北九州の守護神呼ばわりだよ。

3年間J3で暮らして、今季J2に戻ると、(おそらく)モチベーション高くプレイ。
2連勝の余勢をかって、アルウィンに乗り込んでくる北九州。

他方、ここ2連敗と、(観る側には特に)フラストレーションが溜まっている山雅。

対照的な雰囲気の両者、としてしまうのは、あまりに極端な単純化かも知れないけれど、対町田戦の翌日、筋金入りサポーターの京子さん(仮名)から来たメールを無断に転載すると……、

―初アルウィンでした。
打ちのめされました。
予想スタメンには面子が揃っていたからワクワク感がMAX。発表スタメンにガックリ⤵ながらもアルウィンへ。

久々な仲間との再開……。
怪我人多いのは何ゆえ?
みんな揃って怪我人って……?⤵
はゆさんがリザーブになる位のチームにしなくては。
水本さん良かった。
それでも(日)になればアルウィンに向かうんだよね。
朝っぱらから愚痴でした。

今節は、上のような問いと思いに答えるべきゲーム、ゆえに、単にリーグ42分の1どころではない重みがある、と思う。

で、前節の徳島との対戦(2 – 0で勝利) をチラっと観たが、両者ともに前からプレスをかけ続け、攻守に走るわ走るわ。
互いに追いかけまわすようなサッカーなのだ。

徳島って、あれほど前線から食らいつくサッカーだったっけ……。

要は、走るまくる北九州を上回ろうとしていたのか?
ギラヴァンツは、それを交わして前に進むんだから、山雅は徳島以上の策を講じなければ主導権を握れない。

メンツはともかくも、戦略と走破において、一本筋の通ったゲーム運び。
これこそが、今節のテーマでありましょう。

では。

演歌が チャレンジしていた時代

ルノワール氏に、
―『と・も・こ』もいいけど、『シンシア』などいかが?、とけしかけたら、
―わぁ、泣けてくる。というご返事。

で、今回は、そんなルノ氏に背いて、違うジャンルの話。

〈演歌〉という言葉、実体も突き詰めないで何気に使うことをお赦しいただくとして、萬年式エポックメイキングであった楽曲は、過去に三つ。

『函館の女』(北島 三郎 1965年)
伸びやかに上がり切る高音、その歌唱法はまるでクラシックを思わせるが、こういうのを鳥肌が立つ、という。

『襟裳岬』(森 進一 1974年)
この曲に森 進一が挑戦したこと、それをモノにしたことに価値がある。

『北の宿から』(都 はるみ 1975年)
歌詞が画期的。それをこの歌手が取り上げたのが、さらに革新的。
都 はるみにとっては当時、歌手生命を賭けるくらいの冒険だった、と思う。

いまでは伝説的地位を得ているが、いづれもチャレンジしていた、あの当時。

そして、チャレンジはすべて、北方の地が題材だ……。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (7/31 19:54)
素晴らしきかな昭和。
私鉄の駅の裏側、やや古びた居酒屋、スナックが軒を並べる一画が必ずあった。日が暮れれば、赤い灯、青い灯、会社帰りの私達を誘ったものだ。
そんな店には時おり、着物姿の若い女性がやって来る。持参の紙袋には自費で作ったのか、カセットテープが入っている。
その女性はやや恥じらいながら、だが歌い出すと肝がすわるのか、迫力ある声量で歌いきる。そしてテープを売るのだが、私達酔っぱらいはもちろんそれを買う。
お約束みたいなものだ。だが、そのカセットテープを改めて聞くことはまず無い。
多分、あの女性歌手が陽の目を見る事はなかっただろう。
「浮き世舞台の花道は表もあれば裏もある…あぁしみるねえー」(演歌の花道より)
また、あの雰囲気に浸ってみたいものだ。
では、また。

☞ルノワール氏より (7/31 20:52)
演歌がチャレンジしていた時代
吉田拓郎が森進一に歌わせて日本レコード大賞を受賞した
襟裳岬
だが拓郎本人の襟裳岬も素晴らしい
シンシア
これも拓郎とかまやつの曲
♪君の部屋のカーテンやカーペットは色褪せてはいないかい♪
45年前を蘇えさせる詩に感動を覚えます
これらを考えると演歌もフォークは歌い方が違うだけで詩が重要と思います

私の独り言
太田裕美の
木綿のハンカチーフ
の逆バージョン

赤 いハイヒール👠
が好きです
夢求め東京に就職したが
東京に馴染めず
挫折した彼女を
田舎の彼氏が
彼女を東京に迎えに行く
40年前の歌には
起承転結が
有りました