雨に追想する秋。September in the Rain

〈秋の長雨〉とは短い雨季のこと、と思っている。

梅雨と一対の、日本の雨季。

雨の日と月曜日にはいつだって、私の心は沈む……、と書いたのはポール  ウイリアムズ。

となれば、雨の月曜日なんかは、最悪の気分なんだろうかね。

でも、〈誰かに愛されてるってのは,素敵なもの〉という一節は光っていて、歌詞には希望も宿る。

とは言え、雨の日であるからこそ、甘い追想に浸りたい。

September in the Rain は、1937年発表の曲。

身は春にあるけれど、失った恋を、過ぎた九月にさかのぼって追想する曲。

ただし、動画の和訳は、ほとんどオリジナルです。

聴くに心地よい。

自然な日本語にこんなにもホッとするとは、ふだん不自然な日本語があまりに多過ぎる、ということだろうか。

そういえば先日、TVで気象予報士が、雨脚(あまあし)を、あめあし、と発音していたっけ……。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/19 7:19)
9月の雨は涙雨。
昨夜は病室のベッドの上で、9月の雨音を聴いたような気がします
「9月の雨」と言うとやはり、太田裕美の曲を思い出します。
ルノワール氏それにちなんだ話しを寄稿してくれないかな。
スマホのイヤホーン無くて曲が聴けないのが残念です。
体調の崩れは、突然訪れます。
萬年さんも、くれぐれも無理しないように。
では、また。

☞萬年より (9/19 11:11)
病院のベッドでお目覚め、とはなんとも……。
くれぐれもお大事にしてください。
ところで、詐欺のひとつとして、アンケート詐欺という手口があるんですね。
留守電の録音再生したら、アンケートのご協力ください、で始まるメッセージ。
どうも太陽光発電に関する商談に引き込もうとの狙い、らしい。今更です。
アンケートは、某有名酒造会社が、大量資金を投下してサプリメントで現在展開中。
こんなのが横行して
良いのでしょうか?

外連味のなさ,と闘う (長崎戦プレビュウ)

外連味、と書いて、〈ケレンミ〉と読ます。
もとは歌舞伎用語で、奇抜な演出を指していたが、やがて、受け狙いのハッタリ、といった悪い意味で用いるようになる。
外道、とも言いますな。

ゆえに、外連味がない、というと、正統的な本道、という褒め言葉。

前節の対磐田戦(0 – 0) の前半の前半を観た限り、長崎のサッカーは、外連味がない、がそのまま当てはまるような印象だ。

キビキビと、ボールの動かしに迷いなく、ゴールに向かう。
あるいは帰陣がすばやくて、(フォワードを含め)精力的に守備をこなす。
(―いわば、これがいまトレンドなスタイルとも言えるだろうか)

正直、長崎とはトンとご無沙汰で、ピンとこなかったけれど、
要は、たいへん組織的に攻守をこなすサッカーができていて、リーグにおいて現在、昇格圏内に在るのがうなづける。
(追加)ずばぬけた才能が突出しているのではなく、全員が共通理解で連動する。


山雅が逆転負けを喫した磐田に対して押し気味にドローで終わるんだから、
今の長崎と山雅がやったら、勝機は限りなく少ない、というのが順当な予想に違いない。

チーム熟成の彼我の差からすると、こりゃ、かなりむづかしい、というのが萬年の真情。

でも、ないような智恵を絞ってでも、ここは勝機を探らないわけにはいかない。

〈王道のサッカー〉に対して、まさか邪道で臨むわけにもいかないが、せいぜい相手の圧力に出来る限り屈せず、長崎のディフェンスを突破しなくてはならぬ。

長崎のボランチ(=インサイドハーフ)ふたりとアウトサイドハーフふたりが喰いついてくるところを外して、アタッキングサード奥へと外へ逃げるように人とボールを動かす。
そしてクロスを入れるか、さらに中央や逆サイドへ展開して、守備網に穴を開けて、フィニッシュ。
これで行きましょう。
長崎にしたって、山雅の攻撃を外へと追いやってからボールを奪いたいはずなんで、敢えて、虎穴に入って虎児(=得点)を得る、の策。
ポイントは、サイド攻撃に絡み、ボールを運べるタレントを配すことでしょう。

さらに、スカシたロングボールを最終ラインの裏に入れる手を織り交ぜるのならば、先発要員には細心を払い、各自のミッションと意思統一を徹底しないと攻撃が停滞して、相手のカウンター攻撃を発動してしまいます。

つまり、どこに配球しようとか考えていうようではダメで、次、そのまた次の展開が全員に了解されている、そこまで準備しておかないときつい。

❷長崎は、最終ライン➩中盤(インサイドハーフ)➩前線、というボール運びを、かなり直截的にやってくる。
インサイドハーフからアウトサイドハーフへの展開を中間にかます場合でも、やはり、遊び心に無縁の、無駄のないパスが入る。
一連の流れはかなり練度を有するから、見た目、オートマティカリイにボールが動く。(組織的サッカーの面目!)

そして、軽々にはクロスは入れず、中央へ運ぶなりして最後はショートパスでゴール真直まで迫って、シュートを決める、そんな感じ。

ペナルティエリア内で、最後のショートパスの局面までいってしまうと、もう手遅れ。
ゆえに、怖いだろうけれど、守備ラインをやすやすと下げずに、2列目、つまり中盤でなんとか長崎の攻撃の芽を摘めれば、それに越したことはない。

思い切って3バックを採って、5バックでガチガチに守る手もあるが、その時であっても、当方のボランチの〈狩り〉は強く、何度でも敢行しなければならない。

パスの供給手として活かすため、米原 秀亮にはどうしても、より手強い守備を装着してもらうしかない。

……、悲観的になりながらも、チームには、現時点での最上級のパフォーマンスを望む。

だが、10,000人入場可となり、手拍子が解禁された今。

それでもやはりさまざまな制限の下、僕たちがどのようにしてどのくらい彼らを鼓舞できるのか?、問われているのは、むしろそこじゃあないか、と思います。

素敵な55年メモリアルユニフォームをまとうチームを、なんとしても勝たせたい。

では。

正義に悩む思春。 『人生案内』

映画『人生案内』は、革命が成って日のまだじ浅いソビエト連邦で製作された。

1931年の発表だ。

萬年、これをたしか神保町の岩波ホールで観た。

物語の細部はほとんど忘れたが、悪事に日々を費やす少年ホーボー(浮浪者)の一団(チンピラですな)を、集団工場(コルホーズ?)へ連れていって、更正させる、という筋書き。

共産主義下では浮浪者など在ってはならぬ、というプロパガンダ映画なんだが、主人公らの演技が素晴らしく、少年期の普遍的な悩みや葛藤がみずみずしく描かれていて、教条的なお説教からは大きくはみ出した魅力を持っていた。

特に主人公が、アジア系の少年、という設定が、より親しみを感じさせた。

さて、1931年といえば、日本が満州事変を始めた年。

けれど、共産主義国製の映画はチャンと輸入されていて、翌年のキネマ旬報賞を獲っている。

敵対的な体制の、国家お墨付きの作品が、当時国内で鑑賞されていたという事実。
こういうところが、既に僕たちの感覚では、ぜんぜん捉えられない。
へぇ~、そうだったんですか~!、くらいの感想が浮かぶだけ。

当時は軍国主義にまっしぐら(の暗い社会)、といった史観で徹底的に教育された戦後世代の盲目と悲哀、と言えるだろう。

隣国の反日教育を笑う暇が有るのなら、むしろ、自分のやった教育に心を向けないといけません、日本人は。

さて、題名は、英語にすると Road to LIfe。
それを、人生案内、としたのは、実に名訳だと思う。

言語感覚が、90年前のほうが優っていた証拠ですな。

はて、某読売新聞の人生相談欄のタイトルは、ここから採られたんだろうか?

ロシアの歌『黒い瞳の』からの連想で、こんな曲を聴きながらの秋……。

では。

〈コメント〉
☞つー さん より (9/17 16:42)
触れたい芸術は多い、されど人生案外短い。
ロシア映画と言えば、戦艦ポチョムキン、惑星ソラリス、僕の村は戦場だった等々、歴史的名作は沢山ありますが観る機会を逸してきました。
暗く難解であると言うイメージが、観ることを遠ざけていたのかもしれません。
戦争の暗雲が垂れ込めつつあった時代、けれど大衆からは戦争はまだ遠く、浅草辺り娯楽を求める人で今以上に賑わっていたでしょうね。
ロシアの映画で、キネマ旬報賞驚きです。芸術、文化、娯楽に対しまだ、束の間の余裕があった時代と言うことでしょうか。
ところで、昔あれほど聞いたアリスの曲も遠くで汽笛を聞くように、過去に遠ざかり寂しい限りです。時折脳裏に浮かぶ彼らの曲を心の中で口ずさみ、さほどいいことも無かったこの街で残り少ない人生、あの昴のように慎ましく輝き生きて行こうと思う次第です。
では、また。

☞萬年より (9/17 19:18)
1930年代は、日本にとっては空前の経済的繁栄だった、と思います。
東京オリンピックの開催(結局は中止)にも手が届く時代だったので、映画輸入も盛んだったんでしょう、きっと。
革命後の国家創成期では、大衆情宣のためには映画(フィルム)がいちばん効果的な手段だったんでしょうね。
冷戦時代のハリウッドによる赤軍の描写には、画一的なものがあってうんざりもしますけれど、『レッドオクトーバーを追え』(1990年)は、主役をソ連潜水艦の艦長にすえたところ、従来の視点とはちょっと違っていて面白かったです。
まぁ、この艦長、西側への亡命を企図しているという条件つきでしたが……。

前年1989年にはベルリンの壁が崩れていて、時代が動き出した、そんな時でしたね。
では。

 

 

昔はすべて良かったのか? (リーグ折り返し直前)

残り2節をこなすと、リーグ戦も折り返しだ。

ようやく入場制限が緩まって、観客10,000人上限でのホーム連戦が待つ。
シーズンパスが、これから使用できるようになる。

ということは、パスホルダーは10,000人を大きく割り込んだ、ということ?

ひとつの見もの、ではあります。

戦績次第で入場が増減するという原理が、アルウィンでも立派に通用してしまい、山雅ファンサポーターもそれなりに月並みなのか、どうか?
まぁ、答えは既に、ここ数試合でほぼ出てしまった、かも知れない。

さて、顕在化したCOVID-19による影響の最大のものは、シーズン中のチーム構築と熟成にかなりの困難あり、これだろう。

ベンチマークの設定と修正はともかく、それを磨き上げる場がほとんど公式戦のみ、というのはなんとも辛い。
実戦的なテストマッチが組めず、内輪の紅白戦でお茶を濁す、なんて世界なのだ現場は。

となると、前シーズンからの継続性が、戦績の決定的な要素であると、今更ながら思い知る。

今季ディビジョン2の監督就任年数を並べてみると……、

4年 ➩ 2(徳島、金沢)チーム
3年 ➩ 2(愛媛、山口)
2年 ➩ 9
1年 ➩ 9                   ……、という内訳。
(註:2年には昨季途中からの就任を含む。また、京都はコーチよりの昇格なので実質2年とも)

これを、9/13 22:22現在の順位表に照らすと……、

❶監督1年目のチームは、最高で5位(京都)。
以下7、8、10、14、15、16、18(山雅)、21(群馬)位。
従来のプレイオフ圏内には京都のみ。多くは中位から下位に沈む。

❷また、前年と異なるリーグで戦うチームの順位は、
1位(北九州)、6位(磐田)、18位(山雅)、21位(群馬)。

指導ビジョンと環境の点で変化の振り幅が大きかったチームが、やはり苦戦している、と言えそうだ。

変化の中で、比較的に善戦しているのは、京都、福岡、町田、といったところか。

ここで、上記❶と❷を両方満たすのが、山雅とクサツ。
画一なスタートラインの、かなり後ろからスタートしたのがこのふたつ、というのが、どうも実際だった。

(監督年数が長いけれど下位のチーム。こちらは、もっと状況が厳しい)

山雅してみれば、歓迎できないこの順当を、これからどれだけ挽回できるか?

自他共に使うところの〈昨季J1で戦った〉という枕詞を、巧く、そして偽装的に使い分けながらやっていくのが、深まる秋の、山雅なのだ。

旗を巻くには、まだまだ早い。

ここで、ひとつだけ。
ファンサポーターの他愛のない要求は自然なものと認めた上で、それでも、スタジアムと街の雰囲気をすくなからず貶める論調にだけは注意を喚起しておこう。

手早く言うと、堅守速攻とか、高インテンシティ(強度)というチームスタイル※を、ここへ来てどう考えるのか?、ということ。
(※トレンドなスタイルという視点とは別にして)

J2のチーム数拡張の最終番手で滑り込んで、最後尾から追い抜きをかけるには、昨年まで眼にしたそういった戦術が、山雅にとっては必然だった。
資金的にも技量的にも。

そのスタイルが、駆け出しのファンサポーターの心情に訴える力があったのも事実。
倒れ込むくらいに走り回れば、たしかに、人のココロは揺さぶられます。

ただ、どこで勘違いが生じたのか、劇場の幕が開かないと山雅でない、みたいな誤解がいつしか醸された。

ただ、この期に及んで、かつての ~らしさをそのまま信奉するのは、いかがなものか?

指揮官が変わる、というのはスクラップ&ビルド、をおこなうこと。
スタイル変容を、彼が公言するしないはともかく、その転換自体を、ファンサポーターを含めた外部がとやかく言うことではない。

真剣勝負の世界ゆえに、取り組み内容は、もちろん戦績から評価される。

けれど、現在の山雅丸が、タイタニックのように浸水の瀬戸際にあるとも思われない。(もちろん、浮沈という保証もないが)

したがって(推定される)ベンチマークを基準にして、現状の良否、それとの乖離について議論できるファンサポーターでいたいものだ。

現在不満な内容は、過去も克服できなかったことがずいぶん多い。
でも、そのすべてが今季になって発生したような論調さえあるのには、いままで山雅の何を観て来たんだろう?、と驚くばかり。

得点力不足、勝ち切れない、土壇場での被弾によるドローなど、挙げたらキリもない。

いっそのこと、今年の山雅は弱い、で十分。

でも、弱い、の評価にしても、彼我の総体的な部分かも知れない。

確かなのは、J2の水がもはや2~3年前ほどには甘くないこと。

せいぜい、昔はすべて良かった、といった色眼鏡を一度点検してみたらどうか?

考え方まで老け込んでしまっては、救われないぞ。

では。

流行り言葉は,意味不明。

周囲では、〈コンプライアンス〉という言葉がさかんに飛び交う。

いままでは、法令遵守と狭い視野で捉えていたが、それを改めたい。
今後は、お客様には誠実に対応し、その満足、快適、安全、安心を考えて行動するといった広い意味で理解し、これを徹底します、といったふうに。

ここまで気づいたのは結構だが、まだ事の本質には迫っちゃいない。

仮に、コンプライアンスを、広狭のいづれで定義するにせよ、
では、どうして組織(=会社)が、それに背く行動に平気で走ってしまうのか?、という切実な点があいまいだ。

例えば、営業予算の達成、という〈会社憲法〉と、買い手側の損得の衝突を、具体的にどうやって解決するのか?、ということ。

ここをクリアしない限りは、ただただコンプライアンスを唱えているだけに終わる。

飲酒運転なんてのが、コンプライアンスの文脈で語られること自体が可笑しい話だが、流行りの英語をキチンとした日本語にできない時点で、すでに思考が停滞/停止しているようだ。

コンプライアンスとは、〈世間やすべての関係先にすみやかに反応、対応すること〉、とするのが、いちばん適当。

コンプライアンスとはだから、各方面からの情報、要求や苦情にすばやく対処する 、という仕事のやり方、雰囲気、励ましを会社の文化にすること、これに尽きる。

で、その対処の根拠が、守るべき法律やルール、マナーといった社会通念。

けれど、きょうび、ルールを守るなんてのは当たり前過ぎる要求だ。

例えば、消費期限や産地やアレルゲンが正当に表示されていても、だれも感動しない。

いまから30年前だと、マック店頭におけるトークは颯爽と見栄えも良かったけれど、いまやフツーな接客のひとつになった。

4人前を注文している客に向かって、マニュアルどおりに、店内で?、それともテイクアウトで?、なんてやった日には、むしろ、お怒りを買うに違いない。

お客様の側になったら、かなり高度な対応を求めるのが日本人だから、もともと、コンプライアンスなんて言葉を持ち出さなくとも日本語で間に合うのに、なぜか、使ってしまう。

世をあげての錯覚ですな、これ。

良いこと悪いことすべてに対し会社および社員として、迅速、丁寧、誠実に対応しよう。
―まづはそこから入らないと、働く者にとっての具体的な行動がはっきりしない。

コンプライアンスを、各自のことがらとして受け取れるようになると、組織にとっては、それが、他との競争で生き残れる有力な武器になる。

面倒見の良い、信頼できる御社から買おう、頼もう、となります。

もちろん組織として、迅速、丁寧、誠実の内容を、具体的に定義しておく。

あとは、ひとりひとりの社員に、どこまでをジャッジする権限を与えるかをはっきりさせれば良い。

僕たちがその会社に好悪を持つキッカケは結局、そこの社員ひとりのチョットした行動と態度なんだから。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/15 12:44)
寅さんにとってコンプライアンスって?
わたしにはちょっと難しいが、私のイメージするコンプライアンスは、社内の不祥事を減らし、働く者により働きやすい環境を提供するものと考えるが、会社にとっては不祥事の芽を摘んで、さらにエスカレートすればその人間を排除して、結果的に会社を守ろうとするあくまで会社本位のもののように思える。
しかし、本当の意味でのコンプライアンスは、得意先、消費者に対し、正しい情報、サービス、商品を提供すると言うことでしょうか。物を売る場合、売り上げを課せられると、その物の価値以上のセールストークをしてしまうし、適正量以上の商品を押し付ける姿勢になってしまう。
営業マンが悪い訳ではない。それを課す会社側にこそ徹底してほしいのが、コンプライアンスの本質ではないのか。
お客様に対し誠実な対応こそが会社側のイメージを上げ、利益を上げる。
まずは、会社側が徹底したコンプライアンス意識を持ち、ぶれない指示を下に発信するのが、法令遵守の第一歩ではないでしょうか。
では、また。

☞萬年より (9/15 15:40)
なぜこれほどまでに、コンプライアンスを言うようになったか?
最大関心は、会社が不祥事を外に出したくない、ということでしょうね、やはり。
対応がまづいと、雪印みたいに会社が消滅することがわかったからだと思います。

寅さんにとってのコンプライアンス、とは新鮮な切り口!
堅気の世界とは一線を引き、惚れた女性も諦める、これだと思いますが、いかが?