見た目に正直に 生きてゆく。

スーパーマーケットで支払いを済ませ、カートを押して店を出ようとしたところで、積み方が悪かったのか、お米(8Kg入り)の袋を床に落としてしまう。

すると、なんてことしてくれるのよ、といった剣幕で、家人にたしなめられた。

―でもさぁ、外装が破れて路上にばら撒いたわけでなし、泥が付いたわけでもない。
そもそも、米ってのは、長時間ぐつぐつ沸騰させて焚き上げるものですよ。
それこそほとんど無菌状態でお召しあがるものでしょうに?

この失態を責めるならば、誰かさん、宅配なんかの段ボール箱を、無造作に食卓の上にお置きになるほうが、よっぽど不衛生ではありませんかね。

……、とかエキスキューズもしたくなるが、ごにょごにょと口ごもって、それでオシマイにするのが無難。

理化学的に清潔であることは、望ましい。

フロイト博士も、清潔とは、文明に要求したくなる美点である、と言っておられる。

ただし、僕たちはおおく、見た目の〈清潔感〉によって、キレイとか不潔を判断している。
感染予防のマスクだって、ただしていれば良い、というものでもないが、していないだけで白い眼の標的になるご時勢だ。

とは言うものの、見た目で判断できない頭脳こそ浅薄、と言ったオスカー ワイルドを絶対的に支持しているのが、萬年なのだ。

見た目(容姿)においても、人は不公平。

そもそも、人は不公平に生まれ、かつ、不公平な環境に生きていることを理解できないようでは、とても一人前の人格とは言えまい。

では。