真の友になりたい (2020.10.14 水戸戦レビュウ)

先制したものの逆転され、でも、なんとか追いついてタイムアップした結果は、2 – 2。

〈今季を象徴するようなゲーム感〉
勝てないことに立腹感もなく、かといって、よく同点に持ち込んだ、という激烈な感動が沸き起こるわけでもない。

―まぁ、このメンツならば、このくらいは出来て、それで善しとしておきましょう。
と、みづからの心中を察しながら、今季は、感情の発露に制限をかけつつ、こんな風に小さな前進を喜ぶんだろうなぁ、とアルウィンを遠ざかりながら考えていた。

登録メンバーの顔ぶれをみて新鮮に驚いたのは、FW(登録)が阪野 豊史ひとりだったこと。
柴田現監督の特徴がやはり滲み出してくるなぁ、と思ったが、
さらに、80分頃にアルバロ ロドリゲスが投入された日には、前線がブラジル人プレイヤー3枚で構成されてしまったではないか。

台所事情にもよるんだろうけれど、ここまでやってしまう、って割り切り、萬年は大歓迎である。
泥臭い、なんて不明な日本語など、これだと、どっかに吹っ飛ぶしね。

外国籍プレイヤーを活用できない今までの恨みが、ここですこしでも晴れれば、なにより。

〈ゲームを コントロールすること〉(単にボール支配ではなく)
その大切さを、つくづく知った、という意味では〈善戦〉だったかも知れない。

前半は、水戸のプレイヤーの出来が悪すぎたというか、チーム総体としても緩慢だった。
山雅は良かったけれど、手放しで評価もできまい。

それまで、シュートまでの最終パスが何度も合わなかったけれど、ようやく細かいパスがつながって成立した杉本 太郎のゴール(31分)。

これを観て、あぁ、布さんがやりたかった攻撃とは、これだったんだ、とフト思う。

で、問題は後半開始の入りだった。
ピッチ練習ではひたすらシュートのみを試みていた荒ぶるFW 中山 仁斗。
彼の投入が効いて、俄然、水戸がその面目を現し出す。
サイドに振っておいて、中央で中山が決め切る、という十八番で、数分間で2得点。

相手に勢いが出てしまって劣勢に立たされることは常に在ることだが、相手のリズムにいかに素早くクサビを打ち込んで、それを断つのか?

おそらく、今の山雅が弱いのは、この部分だと思う。

昨夜も、自分たちに流れを引き戻すのには、20分以上経っていた。
指導者からの指示や交代に頼るばかりではない、その時のピッチ上の者たちでやり切る力量が求められる。

セルジ―ニョが、シャカリキになって挽回を図ろうとする気持ちは痛いほどわかるが、チーム全員が感じ取ったうえで、具体的な戦法を打ち出していく、これが必要でしょう。

巧い!、と唸らせてくれる個の技量があれだけ発揮されるチームなんだから、戦い方の〈舵切り〉を編み出していくこと、この点に、おおいに期待します。
ある意味、今季限りの、今のチームメイト皆で。

英語にも、A  friend in need is a friend indeed (まさかの時の友こそ 真の友)とあるではないか。

まさかの時、つまり、向かい風に陥った局面で、一致協働してシーンを変えていくのが真のチームでありましょうから。

ゲーム直後の感想として―
ひょっとしたら、山雅はノーファールだった? (流してもらったのを除けば、実際は、おそらく1回、ただし、無ファールは、良点でもあり弱点でもある)

周回の挨拶では、前 貴之がずっとうつむいて歩いていたが、よほど悪い出来だったのか?

山雅は苦杯を飲まされたプレイヤーを誘うから、中山 仁斗には、オファーを出すんじゃあないか?

―そんなことも思っていた、夜。

では。

平和で悩む悪い癖。

拙宅では、某公共放送の連続番組(15分)が毎日、ふたつ流れている。

ひとつは現在のもの、もうひとつは30年位前の、沢口 靖子が主演しているやつ。

家人は、録画しておいたものを帰宅して、主題歌など早送りでご覧になるのが日課。

その時、居間では食事となれば、自然と物語の断片が当方の耳に入ってきてしまう。

現在放映中のは、作曲家が主人公で、どうやら大政翼賛の事業で、南方の戦線へ取材におもむく、という内容のようだ。

戦争というのは、自分や家族がいつ死ぬかわからないから、嫌なもの。
けれど、国家がそこに突入してしまえば、逃げるわけにもいかないじゃん、というのが民のおおかたの処世だ。
宗教的な信念を別にすれば、いろんな主義は後からつけた大義名分だと思う。

でも、物語を聞きかじっていると、主人公とその家族が、悩むわ悩むわ。

周囲の高揚感や好戦的な熱情下で、自分ひとりが戦いを厭っているような誠実さで。

たとえ戦争遂行へ協力したにせよ、当時、それでそんなに懊悩したのだろうか?、ふつうの日本人が。

ここでトコトン苦悩させておかなければ、主人公の人間性が担保されず、さらに、後世の日本を否定してしまうといった雰囲気や、忖度がいまだに残るんだなぁ、とつくづく気が滅入ってしまう。

敗戦直後、旧海軍のエースパイロットが街を歩いていると、子供たちから「戦犯!」と言われ投石された、という話があるけれど、これとそうは変わらない〈反省〉なのだ。

僕たちは、70年もかかってなにを総括してきたんだろう、かね……。

けれど、NHKさんよ、かつての大戦に対してこういう描き方をするならば、憲法第9条遵守を宣言しておきながら、災害が起きると、へーきで自衛隊を要請するような地方政府の思想的な矛盾も、同じように報道しないと、やっぱりおかしいわ。

日ごろ否定しているもの(自衛隊)をやすやすと使う、っていう節操の無さは好きになれない。

では。

葵の紋に 鍛えてもらう (水戸戦プレビュウ)

〈乗ってる水戸と ご対面〉
前節、水戸殿はフクアリで、5 – 1 とジェフを粉砕しており、その勢いでアルウィンに出張っていらっしゃるのだ。

ハイライト映像を観ると、最初のゴールは、萬年お気に入りの#5 木村 祐志が、コーナーキックの跳ね返りを、ペナルティエリア外から打ち込んだミドルシュートだ!
シュートも絶賛ものだが、あらかじめそこに居る、というクレバーさが木村なんだな。

その後も多彩なゴールラッシュで、千葉のディフェンスが水戸のプレイヤーについて行かれない、あるいは並走するだけといった様相で、なんとも……。

左右に振ることを許したら、手をつけられなくなる、という印象の水戸。
ですがこれ、水戸の攻撃が良いのか、千葉ディフェンスがふがいないのか、ゲーム総体を観る気にもなれないので、良くわからん(で済ましてしまおう)。

水戸戦を前に船山 貴之は、各自がもっと動く必要があると、インタビュウで語っているけれど、どうも、そこらへんがダメだったのかね。

余談になるが、船山を左サイドで使う、ってのはどうなのか?
そこのポジションだと、ワンタッチシューターとしての彼の強みを出す瞬間に乏しいだろうに。
仮に右サイドにボールがあって、船山がフリーになった場合、左から入ってくるの、彼得意だったっけ?
(フロンターレで、このポジションにあって開花しなかったことを想い出す)

〈いろいろと 吹っ切れよう〉
さてと、山雅が3タテを喰らったその千葉に、5点を見舞った水戸、さらに前半戦では、水戸に2点先制され、辛くも同点に追いついた山雅。

どうみたって当方に分がないのは、算盤をはじくまでもなく明らか。

こうなったら、新リーダーの下、出直し中の身として、水戸殿の胸を借りる、と吹っ切れて臨戦するしかないわけです。
もちろん、そのご印籠の前にむざむざとへりくだることなどはせずに。

#5 前 貴之がキーパーソンになるような気がするけれど、中2日でアウェイ琉球においてリベンジを果たすためには、かなりのターンオーバーがあるかも知れない。

〈単なる修正で良いから〉
日曜日、生え抜きサポーターである京子さんから家人あて、山雅は方向性がみえてきて嬉しい、とのショートメールがあった。

うーん、たしかに。
悪くはなっていないが、実体は手直し程度の手当て、しかも暫定指導となれば、京子さんにしたところで、いまだ手放しでオーライを出せない言い回しだ。

萬年は、勝ち、分け、負けが繰り返すのでは?、と予想しますけれどね。

リアルな計算をしましょうか。

山雅がこの先、残り17試合を全勝しても、最終勝ち点は、75。

昇格には毎年80点前後が必要だから、上位でよっぽどの潰しあいがない限りは……、ということ。

かりに、後半戦でゲーム平均で勝ち点2を稼いで、60点台に乗せたならば、それこそ、エクセレント!! でありましょう。

あくまで、保有のカードと技量の中で、でき得る部分をカッキリ仕上げるという修正が、現状の最上策でないかい?、と思います。

ここで、山雅らしさとか、泥臭く、とかいった実体不明のローカルランゲージばかりが先行するのがいちばんいけない。
悪い意味で、ヤバい。

前節の対磐田をのぞけば、このリーグにあって、個が技量的に見劣りしているわけでもないのだから、もう、みづからを泥臭いところに置いてはいかんのですよ、山雅は。

もちろん、テクニックと熱情(=走行に手抜きなし)を両立させることなどサッカーでは当たり前のことで、ことさら論ずることでなし。

もはや、クラブ規模が、(頭脳と技量ともに)スマートなサッカー、を追求するべきステップに踏み込んでしまっていて、ゆえに、現在の順位が不適切なのです。

年俸に見合った仕事、これをやり切ってくれれば、結果については一喜一憂するさ、そんなのがいちばん。

では、アルウィンで。

それでも生きたい 秋。

白秋……。

味わいある日本語のひとつ。

転じて、人生の季節としての秋、つまり、中年期以降を指して用いられる、と辞書にはある。

ただし、萬年の周囲で、そういう使われ方を耳にしたことは、いままでほとんど無い。

思うに、きょうびの中年以上の者には、人間的な落ち着きや深みなど、なかなか備わらないからではないか?

月日に晒されて、秋の日差しのごとく透明に老いてゆく、なんてことは……。

例えば、肺がんを患う90歳の男性、担当のドクターが、もはや抗がん治療は施しません、いつ寿命が尽きるやも知れないとの所見、と家族から聞かされ、オロオロと泣き崩れているらしい。

いくつになっても、死とは、ご勘弁願いたいものなんだろうけれど、
こういう話を聞くにつけ、肉体以外の、心の熟成や老成やらはもはや、この民族から消失するんでしょうかね。

……、というわけで、思いは、自然へと向かってしまう。

開花したとたんに冷え込んだためか、金木犀の香りが10日以上とどまっていたり。
無花果(いちじく)の実を、初夏ばかりでなく、十月になって再び摘んでみたり。
ボールに4、5杯は獲れそうな勢い。

学ぶこころさえあれば、自然はいつでも教えてくれることがわかってきた、秋。

同僚が知っている小学五年生(女性)は、文学が好き、という。

どんな作家を好むのかを聞いてもらったところ、
太宰 治、中原 中也、谷崎 潤一郎 という返答。

太宰、中原はわかるが、谷崎とは面白い。

―なかはら ちゅうや、と読むんだ。戦前の詩人だよ。

とか話をしながら、こういう個性がどんどん現れて、いまの大人の感性なんぞ陳腐化して葬り去ってもらいたい、と思った。

で、いただいた雑キノコを眺め、ジョージ ウィンストンを聴きながら、季節の深まりを楽しむばかりなり。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より  (10/13 12:04)
それぞれの秋を楽しもう。
より空気が透明感を増し、間もなく山の木々が錦に彩られるこの時期、例年なら間もなく訪れる冬のシーズンに備え体力作りに励み始める時期だが、今年は窓の外をぼんやり眺めている時間が多い。
この美しい季節をあと何度味わうことができるのだろうか。まさに肉体的、精神的老いを実感している日々。
しかし、深刻に考えるのは止めよう。これからの人生、まだまだ長い。
人生は自分次第で如何様にも色付けできるはずだ。とりあえず焦らずシンプルに生きよう。日々変化する木々の色づきを楽しもう。
今年の秋はいつもの秋より長くなるような、そんな気がする…。
では、また。

無為無策の One Sou1

先日の磐田戦では、南ゴール裏をチョイと覗いてみた。

もしや、組織的な応援が在るのか知らん?、と思ったのだが、一切皆無。
北も同様なんだから、期待しただけ野暮だったか。

内部事情は関知しないが、クラブの要請があったりして、組織的な応援態勢を差し控えているのだろうか?

いまだにスタジアムDJは、なんとかのひとつおぼえのように、静かなる熱き応援とか、わけのわからん言葉を繰り返すばかりだから、きっとそうなんだろうと思うしかない。

公式サイトにある〈超厳戒態勢〉が今後〈厳戒態勢〉になっても、この無為無策にどうも変化はなさそうだ。

しかしですよ、手拍子が解禁されている今、場面場面を手拍子で盛り上げる新しいスタイルが開発されないと、盛り上がりのない応援でズルズル行くことは必定。

要は、率先者がいない拍手など、単に、拍手の緩慢な集合体に過ぎない。

発声なき音頭取りは、その気にさえなれば、いくらでも工夫できる。

たとえば、シーン別の手拍子一覧と開始の合図方式を、あらかじめMDPに封入して来場者に配布、ゲーム進行に応じ、オーロラビジョンで合図する、とか。
現状の来場者数からすれば、それほどの手間か?

マツモト オイッ、ばかりでは、いい加減に飽きが来ませんか?

これで、チームに結果を出せ、ってのは、自分らを棚に上げた論法でしょう。

ファンサポーターがチームをつくる、とさんざ豪語してきた皆さんにとって。

……、でも、結局はこれ、他人をあてにしている苦言なんだろうから、水戸戦からは自分なりにできる新手法のバックアップで参戦することにした萬年。

では。