求めよ。示せ。(大宮戦プレビュウ)

〈予習も、気持ちが昂ぶらず〉
最近のアルディージャって、どうなのか?

とは思うが、他チームのゲームに興味も起らず、前節対岡山戦のハイライト映像を観てお茶を濁すようなテイタラク。

このゲームは、ホームのファジアーノが、3 – 2 で逆転勝ち。

山本 大貴はゴールを決め、パウリ―ニョは奮戦しているのに、こんな言い方は申し訳ないんですが、結局は、ミスを発端としたゴールが目につくこと、スピード感が希薄なこと、そんなで、ますます気が滅入ってしまった。

このゲーム、大宮はサブメンバー5人帯同、といった舐めたような所業。
なにか不都合があったものと思いたいですが、ね。

あとは、大宮のディフェンスの脆さ、これが目につく。
いいように振られ、危機的な時でも、あまりチャレンジ的な守備を感じさせない。

なんだか気が晴れないなぁ、という気分の根源をたどってみたら、なんだ金銭的な余裕の無さだった、ということがよくある萬年。

それとおんなじで、プレビュウに熱が入らないのも、結局は、どこかのチームが中身の乏しいゲームをした挙句の、 21位に沈んだことが原因に違いない。

いっそのこと、キレイさっぱりと最下位から頂を、(おそらくは来季以降に)目指したほうが、奇跡じみていていいんじゃあないか?、とまで思う始末。

前節攻撃が沈滞した原因をつぶし込んで、それをカイゼンして魅せる、これが今節のテーマのひとつ。

〈要求するなら みづから示せ〉
毎度のことにはなるが、山雅がこの順位に甘んじてはならない最大の理由とは、予算規模(=チーム人件費)に見合った成績を残すことが義務だからなんです。

監督の、この地位にいるべきチームではない発言も、同様な趣旨ですよ、きっと。

戦うからには勝てとか、好きだから勝って、とかいう次元で勝利を求めるのももちろんありだけれど、成果を出して当たり前のことができない結果、クラブ消滅だって有り得ることをわすれちゃいけない。

JR東日本などがバックにいるジェフならば、あれだけ低迷が続いてもへいちゃらかも知れないが、山雅はそんな恵まれた立場にはないのだから。

俸給以上に働くべし、というのは、成長を望んでいる雇用者すべての心がまえであって、プロサッカープレイヤーだって、より高みをめざす中では同じことでありましょう。

最上ギリギリを狙って選手生命を賭けるんだから、ベストパフォーマンスのためには、ピッチ上で議論が在って当たり前だろうし、特に、消極的なプレイは非難されるべきだ。

チームメイトに要求することで、同時に、みづからを追い込んでいるプレイヤーがいま、果たしてチームに何人いるのか?

20年前以上のことになるけれど、県内の強豪校を卒業し、社会人野球の投手としてプレイした青年と仕事上でつき合いがあった。

彼、けっこう有望だったようで、プロのスカウトから、来季それなりの成績を残せたらドラフトで指名するよ、と言われていたが、肩を壊してしまってプロの道へは進めなかった、という。

ベンチから味方のピッチャーの投球なんかを観ていて、どんなことを考えていたの?、と訊ねたら、即答はこうだ。

―打たれてしまえ、と思っていましたよ。でないと、自分に出番が回って来ませんからね。

足を引っ張り合う、とは別の次元で、こういう対抗と挑戦意識が高まらなければ、闘う集団は生まれないだろう。

ゆえに、レギュラーメンバーを突き上げて抬頭するような動向をみせるのが、今節ふたつめのテーマ。

岩隈 久志が引退するようだ。
かつて所属していた近鉄バッファローズが消滅する時、統合先であるオリックスの誘いを拒否し、たったひとりの戦いをやったあと、駆け出しの弱小球団である楽天に入団した彼。

こういう不合理にみえる選択をするようなやつが居てこそ、と岩隈の行動には快哉を叫んだことであった。

今は、その精巧な投球をブルペンで撮った動画をひっぱってきて、山雅プレイヤーに、ひたすら挑戦を求める。

註: この記事はあくまで、サッカーに関するものであります!

では。

これこそ完敗で、(2020.10.16琉球戦レビュウ)

〈弱いサッカーの見本、でした。

敗けたから弱いのではなくて、なぞるような、勇気と柔軟性のないサッカーという意味で。

もっと言えば、11人で戦うことができていない、という決定的な事実のゆえに。

(以下、追加します)

相手を選ぶわけでもなく、おそらく勝ち負け(と分け)の繰り返しでいくだろう、と予想しているので、0 – 2 の敗戦自体をとやかく言っているわけではない。

不可解な負けいくさだったことが、ひどく釈然としないのです。

〈新鮮で、可能性を感じた前半〉
ゲーム開始早々は琉球が強烈に圧力をかけてきたこともあって、押し込まれる一方の展開でハラハラ。
おい、これで持つんかいな、って感じ。

ところが、15分も我慢すると、五分以上に渡りあえるようになる。
言っちゃあ悪いが、この先発メンツで、よくぞここまで挽回しつつある、と思ったほどでした。

琉球に、あれだけ執拗に最終ラインの裏へとロングボールを抛り込まれてもですよ。

大方の評価は知りませんが、榎本 樹はセンターフォワードとしてかなりの奮闘をみせていて、ヘディングの競り合いはほとんど獲っていた。
(ただ、そのボールを周辺で回収できない恨みあるものの)
ロングスロウも強みであって、実際シュートを放っている。

先発の彼らがみせた戦いこそが、やろうとしている〈育成と強化〉の実写であったと言えましょう。

〈閉塞感が 舞い降りた後半〉
さて、前半をスコアレスドローで凌げれば、後半早々からシフトアップのカードの順次投入が仕込んであったはず。
実際、長躯な(除く中美)、主戦級のカードが、5枚次々とピッチに入ってくる。

対し、琉球は、戦力増強を賭けるほどの交代をしていない、しかも控え中心で4枚を切っただけ。

にもかかわらず、山雅の攻撃が後半になって精彩と、果敢さ、さらには正確性を欠くようになるとは!
ボールを手中にできるようになったはずなのに、なんなんだ、これは?、という意味で、まっこと不可解な現象を観てしまったのが、ゲームの印象のすべて。

これだったら、交代なしで、先発の布陣そのままで押し切ってしまったほうが良くはなかったか?

強行日程の遠距離遠征を考慮して、省エネルギー運転がチーム全体に指示されていたのならば、まだ救いようがあるが、レギュラー級のメンツをあれだけ投入してみたら、むしろ攻撃が弱体化するとしたら、これ、手詰まり状態、相当な重症化ではないだろうか?

ボールを持つと迫力とスピードが減ずる理由として感じたことを、ひとつだけ挙げておきます。
みづから果敢にボールを持ち上がる、縦横に走る、そういうプレイが無さ過ぎるんですよ。
しかも、切り裂いたその後を引き継いで、さらに果敢に進もうとするプレイヤが少ない。

要は、勇気を持ってパスをもらう覚悟とポジション取りをしないから、攻撃に意外性が生じない。

その仕事はセルジ―ニョだけの専売特許、と決めているわけでもないでしょう?

足元に、ボールを平板になぞるように回したところで、相手守備に !!、といった動揺は起こせないのでは?

個人技だよりの単発の躍動では、もはやそれまで、というのが昨夜のいちばんの教訓でありましょう。

その個人の技量にしたところで、たとえば、DF浦和 延尚のサイド深奥への駆け上がりを表現できないようでは、チームとしての限界でありましょう。

では。

ムダな力みを捨ててこそ (琉球戦プレビュウ)

この記事を打っている今頃、チームは、もう那覇市にチェック インしたんだろうか?
当地の朝は10℃を切っているのに、あちらは、20℃台の半ば。

となれば、まづは、この温度差(湿度差) に適応しないとならないわけだ。

〈群馬の策と その成功〉
前節の琉球は、ホームでザスパと対戦し、0 – 1 でゲームを落としている。

(26節をかけて群馬は、ようやくと、山雅の上方に順位をあげた)

予習のつもりで、DAZNにて、後半開始から点が入った64分までを観てみる。

そこでわかったこと。
それは、群馬が、ボールをつないで前へ進む琉球スタイルを徹底して無力化した事実。

具体的には、ボールを保持する琉球の最終ラインにプレッシャーをかけ続けて、中盤、さらには前線との距離を間延びさせることを狙った。

パスで組み立てる、ということはプレイヤー間の距離が適切に保たれることが必要だが、その距離を引き延ばすことによって、琉球の攻撃スイッチをオンにさせない策に出た。
あるいは、リズムを作らせないように仕向けた。

これが上手くハマって、前線の阿部 拓馬などはほとんどボールを触れない状況に陥る。

琉球のプレイヤたちは、ザスパの魔術に囚われたかのように、ピッチ上になんの連動感もなく散らばっていた、と言ったらいいのか。

他方、群馬は、蹴らせておいてのボールを回収すると、ペナルティエリアへの侵入を繰り返し、そこの混戦の中から、ついにゴールをゲットする。

このゲーム、ボール支配は、おそらく琉球65 : 群馬35 に近かったと思われるが、要は、ボールではなくゲームをコントロールした側に勝機が傾く、という見本でもあった。



〈陣形の乱し合いを 制せよ〉

たったの3週間あまりが経過しての再戦。

前回ああいう悲惨な結果になったからといって、あまり力んでみても始まらない。
ここへ来て見えてきたと信ずる山雅のサッカーを貫く、これに集中しよう。

となると自然、ボール保持にこだわらず、ファーストディフェンスを、時間帯やゲームの流れを意識して、緩急/強弱について意思統一しながら、中盤と最終ラインまでが連動して立ち向かう、ってことになりましょうか。

相手の陣形を縦に分断するとともに、当方のそれはコンパクトに圧縮する。

すると当然、山雅の最終ラインの後方には、広大なスパースが生まれる。
あえて、そこを狙わせてサイドをタッチラインに押し込んでしまう、そんなイメージでしょうかね。
これを、怖がらずにやり抜く、特に、センターバックとサイドバックが。
最終ラインの成長を、ここでこそ魅せる、くらいの気持ちで良い。

むこうが焦れて蹴り出すのならば、中盤は、踏ん張ってそのボールをひたすら回収だ。

結局は、攻守において我慢を切らさないこと。
切れたら、相手が陣形を整えてしまう。

特に攻撃は硬くならずに、テンポを大切にしてやりたいですよね。
最終のパスやシュートを決めきるためにも。

あぁ、こうなったら、ブラジリアン サッカーをも魅せておくれ、山雅。

もし、アウグストを使うならば、割当てをはっきりさせておいて、相手の陣形が緩慢になったところを衝くと、かなり効く、と思います。

そして聴く曲は、『Take It Easy』(肩肘張らずに生きてゆく)。
70年代バリバリ。しかも、メンバー全員がヴォーカルをとれるのがこのグループの強みですな。

では。

アル パチーノ物語。

つきあいがこれほど長くなると、出演作ひとつひとつを〈点〉で語るよりも、
キャリアの巻物を紐解くような語り口になってしまうのは、あたり前とも言えようか。

アル パチーノ(1940~)は、当年80歳。

年齢的に決して早くもない映画デビュウが、1969年『ナタリーの朝』。
以来ずっと現役で走り続けてきた。

パチーノとのつきあいも、多くのファンにとっては半世紀になる。

だから、喋りはじめるとキリもないだろう。

一度もあったことのない子を求めて旅する元船員、正義にとらわれた熱血の弁護士、ゲイの銀行強盗、自死の場を求める盲目の退役軍人、などなど。

でも、〈線〉で眺めると、ひとつのタイプの人間が浮かび上がってくる。

生きる時間のほとんどを仕事に投入してしまうようなアンバランスと、疲れ切ったプライベート。
居心地のよい趣味性とは、無縁な生活。
クリーニング屋との往復。
擦り減った靴底……。

どうだろう、今日、大方の者は敬遠したくなるような人生ではないか?、これって。

僕がパチーノを好むのは、銀幕の中、しゃにむに動き回っては、いわば人生の破綻者や、安住できない者を強烈に演じてくれるから、のように思われる。

よって、出演作品はそれぞれ、『アル パチーノ物語』中の、若き放浪者篇、腐敗摘発警官篇、といった各章のようなものだ。

こんなことに思い当たったのは、最近のこと。

では。