遺言の完成 (前編)

(データが消し飛んだ以前の記事を、ほとんどリライトで書き留めます)

今から84年前の8月、大病を患った魯迅 (原音で ルーシュン、1881~1936、シナの作家) は、死についての予感をはっきりと抱く。

そこで、遺言とするつもりで、いくつか箇条を並べてみた。
ただし、それを正式な遺言状には仕立てなかったらしい。

(その事を雑文『死』として発表したのが 9月20日で、翌10月19日には、喘息の発作で急逝する)

100年近く経って読んでみて、魯迅の訓示が自分の気持ちに相当近いのに驚きながら、転写する。(訳は、竹内 好による)

❶葬式のために、誰からも、一文でも受け取ってはならぬ―ただし、親友だけはこの限りにあらず。
❷さっさと棺にいれ、埋め、片づけてしまうこと。
❸何なりと記念めいたことをしてはならぬ。
❹私のことを忘れて、自分の生活にかまってくれ―でないと、それこそ阿呆だ。
❺子どもが成長して、もし才能がなければ、つつましい仕事を求めて世過ぎせよ。絶対に空疎な文学者や美術家になるな。
❻他人が与えると約束したものを、当てにしてはならぬ。
❼他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。

残された遺族が、魯迅の注文どおりに処世したのかは知らないけれど、そのままいただいて萬年の遺言にしたって良い。

ただし、もうひとつ足すのはどうか?、と思っている。すなわち、

❽人に手を貸すことを当たり前と思え、けれど、助けてもらって当然と思うな。

では。

喜ぶべきか、悲しむべきか?(2020.9.9山口戦レビュウ)

結果は、2 – 2 のドローであるが、その評価はどうか?

ゲーム後の、ヒーロー?インタビュウに、塚川 孝輝は笑顔まったくなしで対応した。

観ていて、その気持ちは痛いほどわかったけれど、やはり喜ぶべきゲームでありましょう。

だって、1 – 2 の逆転負けで終えていたら、さぞかしヒドイ日々と暮しだったろう。


たとえ苦笑気味の同点弾だったにせよ、塚川だって浮かばれないでしょうし。

〈喜ぶべき、今後につながる良点〉
❶ほぼゲームプランどおりに進められ、攻撃のアクセルを踏み込んだ直後に、先制点に手が届いた。

❷ゲームを通し、そこそこソリッドな陣形を保つことができた。
これは、最終ラインに落ち着きと、錬成がすこしづつ見えてきたのが大きい。

❸攻撃的なカードを投入すれば、相手陣形を緩め、その間隙を衝くことができるようになった。
72分、セルジ―ニョがダイレクトで阪野に出したパス、あれは秀逸のJ1レベル。

GKから2本のパスでシュートまで行くシンプルさが在ってこそ、波状的なパスで崩すやり方が活きてくる。
でないと、堅く守るJ2特有の守備網は、なかなか破れない。

❹(山口のような)攻撃的なチームとの対戦に有効な中盤の組み合わせにはメドがたったが、これを守備的(=失点の少ない)なチームとやる時、どうやって適合/変容させていくのか? ➡次節の栃木戦でテストだ。

❺トップを担う、ジャエル、服部、阪野、さらに高木 彰人。
それぞれの持ち味(強み)、スタイルが披露されてきて、前線に期待値が高まっている。
これは、チーム内理解度の総体が上がっている、と見るべきでしょう。
※2度ほど決定機を外してヒーローになり損ねた阪野の奮起にこそ期待!

……、なかなか調子の上がらないチーム同士の対戦という事情を差っ引いても、前半戦の終盤近くになって、ようやくわづかではあるけれど、布サッカー方式がつかめてきた萬年。

正直な現状認識(の発言)、チャンスを与える選手起用、ゲームプランと交代枠発動、これらについてはけっこう納得しています。

いままではなぞったようなデッサンであったのが、描線一本一本がしっかりと魅力的になっていく、そんな予感ですかね。

では。

視ていることに 気づく夏。

八月下旬の或る日、隣家の軒先に宿っていた燕らが、いづこへか旅立った。

どこかに集合して大きな群れに入ると、これから暖かくなる地をめざして渡っていくんだろう。

……彼らがもう居ないことに思いあたったのは、今月になってから。
なんとも迂闊なことで。

毎朝庭に出ると、敷地を横切っている引き込み線に、数羽の燕がすぐにやって来てとまることに、この夏になって気づいた。

隣家の亭主が家から出て来ると、その挙動を眺めようと巣から出てくる、ということを。

T氏のお宅にも毎年燕が飛来するそうで、しかも、このところずっと、シングルの一羽でやって来る、という。

未亡人か、それとも男やもめかは不明なるも、なんとも義理堅い話ではないか。

下界のほうでうろうろしている人間を、どれどれと眺めている鳥のこころ、それを識っただけでも、この夏には価値が有った、僕にとって。

野鳥は案外、人間の行動に好奇心を持っているらしい。

で、彼岸入り前の数日間には、〈玄鳥去る〉(つばめさる)という季語をあてる。

玄、とは黒色のことで、黒い鳥だから、燕。

遠い旅する彼らの無事を、とにかく祈る。

では。

〈コメント〉
➩つーさん より (9/9 12:09)
玄鳥で倒れし武士に気づく夏。
玄鳥と聞いて妙に暗いイメージが浮かぶので、何故かと考えたら、藤沢周平の文庫本の表紙に、玄鳥が飛び交い、その下に血を流した武士が倒れているという絵があったのを思い出した。それが頭の隅に残っていたのだ。
玄鳥と言う短編小説、下級武士である主人公の悲哀を、昔彼に好意を抱いていた女性の目線から描いた、いかにも切ない作品だった。
藤沢周平と言えば「たそがれ清平」「隠し劍鬼の爪」「武士の一分」など山田洋次により映画化され、どれも見応えのある佳品に仕上がっているが、彼の監督作品ではないのだが「山桜」と言う小品、観た後いたって心が落ち着く作品で、つい何度も観てしまうつーさんである。
では、また。

 

正直者 と戦う覚悟 (山口戦プレビュウ)

〈追想に浸れば……〉
2018シーズン第6節、アウェイのレノファ山口戦を、読者はご記憶か?

2 – 0でリードしていた後半アディショナルタイムに、立て続けに2失点したゲーム。
いやでも今後長く語られるだろうけれど、山口の同点弾を叩き込んだのは、前 貴之だった。

その前は、今や山雅の主力メンバー。

他方、前節の対福岡戦、2年前に歯ぎしりさせてくれたイレヴンは、山口にはもはやひとりもいなかった。
監督が霜田氏であることを除いて。

更に、山口のワントップは、4年前に松本市内の牛丼屋で挨拶した小松 蓮(山雅からのレンタル)が務める。

……、サッカーを通じて噛みしめる、たった数年で起こった時代の変転だ。

〈あっけらかんのレノファ〉
小野瀬(➩ガンバ)、オナイウ(➩現マリノス)、佐々木 匠(➩仙台) といった強烈な攻撃的カードが去り、そこからチームを攻撃的に作り直すなんてのは大変な業。

2018年=8位、2019年=15位、2020年ここまで=22位、という下降曲線がそれを物語る。
それでも、安在 和樹、村田 和哉は目を引くし、レンタルをやりくりしながら戦っている様子。

福岡戦(と山形戦)を観る限りでは……、

走力と縦への速さをベースに、迅速にパスを繋ぐ。
長短のボールを織り交ぜ、最終的にはサイドを経由して、(多くはクロスの格好で)中へボールを入れて勝負、というサッカー。

こういうのを、〈外連味(けれんみ)のない〉というのだろう、ハッタリや誤魔化しもなく、正直に立ち向かってくるのだ。

〈要は、胸の合わせ方〉
直近2試合、山口は3バックを採用していると実況が語る。失点の多さを是正するため、としていて、守備陣形を5バックにして、相手ツートップに数的優位を演出したいんだろうか?

今節も3バックで来るのならば、抑えるべきは、攻守に忙しく、かつ、サイド攻撃の起点となる山口の左右サイドバック。
前節は、左=田中パウロ、右=田中 陸だったが、ここに安在が入る可能性が大きい。

❶前節、強烈なサイド攻撃、というテーマにそれなりの活路を見い出せた山雅にとっては、引き続きここの強化を証明する絶好の機会だ。

サイドの駆け引きを、老獪さでねじ伏せられる隼磨の離脱はこういう時、本当に痛いのだが、今ピッチに立てるメンツが〈若年寄〉の工夫でやり切るってもんでしょう。

❷ワンタッチ、ダイレクトで中盤を制したい山口に対し、その連動を絶つ。
それを、2列目のファーストディフェンスとボランチによる狩りによって。
ここが焦点。
守備力の観点からすれば、セルジ―ニョ、杉本、アウグストの同時運用が好ましい。

要は、すばしこい脱兎を、どこで捕まえるのか?
サイドに押し込んでなのか?

これは恐らく、布式ゲーム総体における力点の置き処から算出されると思うが、山口というチームには、〈ためる、我慢する〉という発想が希薄。
とにかく当初からフルギャロップであるし、今節はホームという環境であるからその傾向はより顕著のはず。
ゆえに、受けて立つなんていう手間はかけず、当方も冒頭から強烈に行くべきでありましょう。

ペナルティエリアが視界に入った時点でシュート、そこから逆算したピッチとパスの使い方で良い、と思いますがね。

偽悪者とまではいかなくとも、ココロに余裕と醒めた計算を秘め、正直なサッカーと対戦しましょう。

で、みづからも秋の空気の中、こころを冷ましながらゲームを待とう。

しかし、ジャズの名盤は、秀逸なジャケットデザインがセットなのが多い。

では。

とてもできそうにない 覚悟。


大腸がんで逝った、さる高齢の男性に関する、家人から仕入れた話。

病状もかなり末期になり、ご家族の手に負えなくなって、訪問介護を利用するようになった。
この御方、お世話するようになって、一週間くらいで亡くなったそうな。

排便処置が主なサーヴィスになるが、一日6回の訪問、おそらくは全身の臓器が侵されてもいるので、浮腫みも来て壮絶だったんだろう、と萬年は推測する。

実は、すこし前に、思い余った家族が救急車を呼んだことがあった。
けれど、この男性、どうしても自宅で死ぬんだと言い張って、頑として搬送されるのを拒んだという。

で、その言葉とおりに、ご自宅で最期を迎えた。

この話を聞いて、なんとまぁ意志強固なことか、と感嘆してしまった。

萬年ならば、七転八倒の痛みの中では、もうどうにでもしておくれ、となるに決まっている。
歯医者にかかる時でさえ、痛くさえなければなんでもして下さい、なのだから。
先日も、抜歯後数時間止血しなくて、ぐたぐたと言っておった。

疼痛と死が接近したら、ドクターの治療を拒む元気も残っちゃいまいな、きっと。

多くの人に訪れるだろうこの試練。

その際、どれだけ意志力にモノを言わせられるのか?

こと自分については、まったく自信のカケラもない萬年だ。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/7 15:45)
不満足な生と、不満足な死。どちらも辛いね
病気で亡くなる人のほとんどは、死を迎える数時間あるいは数日前から意識が無くなると言うから、本人は自分の死の瞬間を意識する事は出来ないらしい。死に際まで「おれは死にたくない」なんて叫ばれたら、家族は堪らないだろう。
それにしても、訪問介護の人も末期ガン患者を最後まで世話するのは、仕事とは言え大変なことですね。
普通、それだけ悪くなれば病院なり緩和ケアの施設に入り、そこで死を迎えるだろうが、自宅にいたい気持もわかる気はします。
しかし、家族としては病院で、あるいはケア施設で、治らないと解っていても痛みを抑える処置とか兎に角何かをしてほしいと望むものです。
身内が死を迎える時、その家族は本当に辛い。この病院で良かったのか、もっと何かしてやれなかったものか、何度も思い悩むものです。死までの時間を自宅で過ごすのは、家族に心身共に大変な負担をかけると解っているが、身内の苦労を忖度して大人しく病院に入り、静かにその時を迎えるなんて気遣いは死んで行く身としてはとても出来ないだろう。
満足と言える生さへ生きていない自分が、もう死を身近に感じる歳に来ている。せめて残された者に迷惑かけぬよう、持ち物の整理くらいしておこうか。
では、また。

☞萬年より (9/7 16:24)
或る人は、人生とは、死に至る病である、と言っています。
誕生の瞬間から、最期に向かって時間が刻まれ、また、悩みのない生活などどこにもないのだから、そういう表現も成り立ちますね。
となると、その病というのは、一生かけて毎日毎日積み重ねる、死への準備、ということか……。