評価がむづかしいゲーム(2021.5.15金沢戦レビュウ序章)

天気晴朗なれど、またまた強風下、のゲームとなりました。

0 – 0 のスコアレスドロー。

うーん……。

ゲーム後の挨拶にまわるプレイヤーの表情をみても、出来が芳しくはなかったゲームであることは歴然でした。

暑さの中、奮闘した労に対しては拍手するけれど、って感じか。

―勝てる試合で、勝っておかないと……。(家人評)

前半のボール保持率が、山雅にしては、異常に!高かった。

ここに幻惑されてしまったためかも知れませんが、
本質的には、金沢の狙いのほうが、当方のそれを、かなり上回ったゲームだったように思えます。

コイントスに勝って、敢えて風下のピッチを選んだところなどにそれが顕著。

厳しく言うと、今季ワーストに近いゲームの、より詳細な点は次章で検討してみます。

では。

石川に秘密? あり。

5月14日(昨日のこと)、と聞いてピンと来たら、その方は相当な日本史通だ。

高校時代、日本史の教科書を一度も開いたことがなく、で、見事に赤点をいただいた萬年など、どんな日なのか、まったく無知で今日まで生きてきた。

今回、この日の出来事について知ることで、実は、ご幼少からの疑問が解決した、というお話をひとつ。

1878(明治11)年5月14日 午前8時30分。

馬車で皇居に向かっていた、内務卿(実質的な首相) 大久保 利通は、紀尾井町清水谷において、士族6名によって暗殺された。

大久保は1830年生れだから、享年47。

世に〈紀尾井坂の変〉と呼ばれる、テロリズム。

事件直後、現場に駆け付けた者のひとりが、前島 密(1835~1919年)。

大久保の遺体について記しているけれど、その惨状には息を呑む。

ところで、実行犯の内、5名は、石川県の出身。

携えていた斬奸状(ざんかんじょう)には、政治家としての大久保に五大罪あり、との告発がしたためてあった。

さて、事件発生当時の石川県は、現在の石川県(旧 能登と加賀)に加え、富山県(旧 越中)全域と福井県(旧 越前)の大半を含んだ、それは大きな県だった。

けれど、事件がきっかけとなって、不平士族が多く、しかも大県なので統治するに厄介なエリアだ、と明治政府に認識されることになる。

結局は、数年後、現在のとおりの、福井、石川、富山、の北陸3県に分割された。

だから、紀尾井坂の変なくば、石川県は今頃、全国屈指の大きな県だったはず。

例えば、静岡県(駿河+伊豆+遠江)や、岐阜県(飛騨+美濃)をしのぐくらいの。

小さい頃、日本分県地図を眺める度に……、
口を開けた、鼻の長い横顔そっくりな、この石川という県。

なぜ、喉元を富山県によってひどく狭めれられ、また、腰から下は、福井県に乗っ取られたような格好なんだろう?、とよく気になった。

昔の能登と加賀をそっくり引き継いだ県境線、といってしまえばそれまでなんですが、ツエ―ゲン金沢のお膝元が持つ、深く、密やかな歴史ではあります。

では。

継続を力に (金沢戦プレビュウ)

【果敢なサッカーが持ち味の、ツエ―ゲン】
前節の山口戦(0 – 2の敗戦)では、3 – 5 – 2 と相対し、まるで今節の予習をしたような格好で、アルウィンに乗り込んでくるツエ―ゲンなんであります。

柳下監督の5年目、フィットしていたプレイヤーを毎年引き抜かれながらも、やりくりして闘っているのが、外から観てよくわかるチーム。

オーソドックスな、4 – 4 – 2 を採用。
前から果敢にボールに寄せて来て、特に、中盤のダブルボランチ(藤本や大橋)のところでボール奪取力が高いのが目立つ。

今季出場機会を減らしているが、GK白井 裕人でくるのかどうか?
あるいは、庄司 朋乃也はセンターバックで出場なのか?、その辺が気になります。

3連敗中のツエ―ゲン。
となると、相当の危機意識だろうから、気持ちで負けていては、まづは論外。

【前節の総括を表現せよ、山雅】
対新潟戦、好調な首位とやって引分けで良くやった、とするのか?

あるいはあれを、痛恨の引き分け、と考えるのか?

後者でなければ、順位的にも、チームのクオリティにおいても、より高みをこれから望めないでありましょう。

その意味で、金沢戦は、前節で表現できていたコンパクトな陣形と、守功の切り換えの速度と強度、これをフツーに再現しながら、ゴールを複数回決める、これ以外にテーマはなし。

❶相手の4バックに対して、こちらは3トップ気味にしておいて、前線からボールを追いかけまわすことで、ボールをサイドに押しやっておいて、そこから反転。

❷ダブルボランチに対しては、これをできるだけ回避してサイド攻撃に持ち込む。
逃げる、というよりボールタッチをさせないくらいに先手で動くということで。

❸前線の走力、ボール競合での優位が前提でしょうけれど、今の山雅は、安定的にセカンドボールを回収することで、決定機の起点を創っている。

ならば、適宜ロングボールを使用することでツエ―ゲンの陣形を緩くしてしまう。

いちばんやってはいけないこと、それは、緩くゲームに入ること。
それがもたらす惨憺は、対愛媛戦で経験済みなわけですから。

……、ざっとは、こんなことを期待して、天気は上々なことを喜びつつ。

では、アルウィンで。

現在無敗、上出来の2位。

プリンスリーグ北信越 に参戦2年目の、松本山雅U-18 の現在なんです。

観戦が制限されつつも、なんとか、リーグ戦を消化している。

第5節を終えて、10チーム中、
勝ち点11、3勝2分0敗で、第2位につけている。

1位が、富山第一高で、やはり、勝ち点11。

得失点で▲2の差で、なおかつ、山雅のほうが消化ゲームが1つ少ない。

しかも、無敗は、我等だけ。

残り13節(10/10まで)とはいえ、なかなかの健闘ではないか!

5/9の、山雅公式ニュースをみれば、
トップチームの対アルビレックス戦結果と並んで、
U-15、U-13、U-12、U-18、U-15レディースと、ユース年代チームのゲーム結果が軒並みに掲げられた。

着々と、ユース世代が育っていることが実感され、関係者の方々には心より感謝なんであります。

たとえば、トップチームの前 貴之の場合は、コンサドーレ札幌で、ジュニアからユースへと育った。

U-18の時は、プレミアリーグイースト(最上級リーグ)で、チームの初優勝メンバーとして活躍。

2011年に2種登録されると、翌年に、榊 翔太(現長野)らとトップチームに昇格。

2012年はトップリーグで戦った季だったが、岩波 俊介らとサイドバックのポジションを競いながら、20試合超のゲームに出場した。

こういった先達のクラブに遅れること、約10年。

ユース生え抜きの小松 蓮は、すでにレノファ山口にあって修行中だけれど、山雅にも、ユースから多く競りあがる時代が来つつあることを感じるこの頃です。

では。

終わり方の見本『Golden Slumbers/The End』

ビートルズが、みづからを終わりにして魅せたのが、アルバム『Abbey Road』(@英国 1969年9月26日の発売)。

なによりも、曲ひとつひとつの編曲と、曲のつなげ方のアイデアが素晴らしい。

最後の最後で、― 女王陛下は素敵な女、いつかはモノにしたいもんだ― なんてことを放言する。

そんな皮肉をやってしまえるほどに、時代の寵児だったのかも知れない。

Golden Slumbers から始まって、Carry That Weight (繰り返し)へと移って、そして最後に、The End で締める大団円。

ま、一度は、原曲をゆったりと聴いてみることをお薦めします。

k.d.lang (k.d.ラング 1961年~ )は、その中野サンプラザ公演を観に行ったことがある。

たしか、90年代の半ばの頃だった。

開演早々から聴衆が立ち上がってしまうので、仕方なくその後方で立ちっぱなしのまま聴くハメになった、のを憶えている。

この歌い手のパフォーマンスには、もっとひっそり、くつろいでつき合うもんでしょうに……、と思いながら。

ここでは、Carry That Weight を省いて歌っているけれど、萬年の言わんとすることをお解りいただけるでしょう、きっと。

では。