1点に泣いたヴァンフォーレ (2020.7.04甲府戦レビュウ)

ゲーム最終の土壇場で、1点を献上して泣いた。
―というよりも、開始2分早々に棚ボタで1点獲っちゃったことが不幸のはじまり、赤鬼の甲府。という解題―。

手堅くリードを守り切ってリーグ初勝利を目指したあまりに、攻撃が委縮、術なく押し込まれ続けたあげくのオウンゴールでは、泣いても泣ききれないだろうなぁ、と他人事ながらの忖度。


今回は、1 – 1のドローで面目を保った青鬼、いや緑鬼、を演じた山雅でした。
(萬年は、2013年アウェイガンバ戦の飯尾オウンゴールを思い出しておった)

〈堅実にクオリティを上げていくための課題〉
❶フィールドプレイヤー5人まで交代可。(今季限り)
これの活用はやっぱり、かなりゲームを左右します。
なにせ顔ぶれの半分が途中で入れ替わる。
フォーメーション運用の準備、戦術と役割の理解、マークへの対処、ここらはかなりの指揮手腕と頭脳が求められるなぁ。

❷3 -4 -2 -1でゲームに入り、その後交代カードを切りながら、3 -1 -5 -1へ、更には3 -1 -4 -2 へと攻撃圧を高める陣形の形勢は、なかなか魅せた。

❸給水ボトル の共有禁止による飲水タイムの設置。
これによって、アディショナルタイムは前後半各5分がミニマムとなる様相。
フル出場の者は、すくなくとも100分走るわけで、その負担を戦術に織り込む要あり。

今節、❶~❸は破綻せずに巧くこなしたと思います。

失点?
あんなものは競ったヘディングが後方へ流れた不運と割り切り、シュート数13まで持っていけるようになった力量を注目すべきでありましょう。

次節以降は、これに加え、週2回のゲーム到来がほぼ常態化する。

観ている側は、個性豊かなプレイヤーの登場と出し入れを楽しめば良いが、怪我人発生を抑えつつの夏場乗り切りが、いちばんの課題と考えます。

では。

 

その日、ふたりに舌を巻く。

この曲を聴いて、舌を巻いてしまった。
前半の抑制と、ここぞというところで高潮する歌唱は、自在かつストイックなんだよなぁ。

それを想いだしていたら、隣の助手席から、
―吉 幾三、なんだけどさ、と来た。

―あぁ、青森県では、立志伝中の偉人だね。

―五所川原出身の彼、たいした歌い手だわ。『と・も・こ』って歌……。

どうやら、米国のタレント発掘番組の中、吉 幾三がギターを抱えて歌う動画をご覧になって、かなりヤラレたようだ。

―昨夏、萬年が青森県人論をブッた際、ルノワール氏が激賞してたのを読んでないのね?

―とにかく、この人、すごい……。

という訳で最近、ふたりして、ふたりの歌い手に参ってしまった次第。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (2020/7/04 16:49)
東京でベコ買うどころか…。
ルノ氏に、何気に吉幾三の話をしたら、即座に「ともこ」はいいよと感慨深げ。萬年氏のブログにあったと話したら喜んでおりました
圧倒的な声量と味のある表情で歌う曲はストレートに心に染みますね。
車の中での大人二人、円熟した歌手の話題、いいですね。
うちの奥などジャニーズの曲がかかると手振り身振りで踊り出すほうなので、何とも…。
では、また。
強風の中、勝ち点3を。

自分の力量をどうとらえるか? (甲府戦プレビュウ)


❶ゲーム観が、勝負を決める

このゲーム、自分に課した強みの表出において、より長けた側に勝利は微笑むだろう。

すくなくともヴァンフォーレにとって、戦略の入り口はそこしかない、と思われるし、勝って当然、とアルウィンに乗り込んで来るはずだ。

となれば、山雅の出方も実に明快。
同格の立場と思想で闘えば良い。
(2018シーズン、甲府には2戦2勝だったが、そんな過去はもちろんご破算で)

前節の金沢戦、ツエ―ゲンは連敗記録を止め、あわよくば一矢を報わんと向かって来た。
ペナルティエリア内を、人数をテンコ盛りで揃えて固める。
そして一発必殺のカウンターに賭ける、そんな方策だった。

対し、甲府は前から敢然とプレッシャーをかけ、攻撃に軸足をおいてくるはず。
とにかく先手を取ってリズムを作り出すサッカー。
このチームの売りは、FW登録メンバーが8人という豪華さだが、それを最大限活かそうとカードを切ってこよう。

❷ボランチの出来で、ゲームを決めろ
多分、互いに、4 – 2 – 3 – 1 の布陣を採る。

この布陣の最大ポイントは、2列目の3人がどれだけ自由度を保てるかという点。

2列目の活性化は、実は、その後方のボランチふたりを経由するボールの量と質に大きく左右される。
ボランチの押し上げ(高いディフェンスと位置取り)と自在な配球、ここで相手を上まわろう。

山雅の藤田、塚川のセットは、甲府の山田、野澤のそれに比してまったく見劣りしないばかりか、むしろ熟度が高いので、十分に先手/優位を獲り得る。

そして、ゲーム展開にもよるが、ヴァンフォーレの力まかせの侵攻、これを強く、かつ、巧くいなしてくじくこと。
特に隼磨の右サイドでは、それを仕掛けられる。


これくらいの技量はもちろん、昨季の遺産として山雅には在る、と萬年はみています。

では。

 

 

 

 

 

いい加減に〈信甲ダービー〉で。


4日(18:00~)は、いよいよホーム開幕、第3節 ヴァンフォーレ戦の週末だ。

県境をまたぐ対戦をダービーマッチとするのは無理なこじつけ、と萬年は考えるが、百歩譲って、メディアがどうしてもゲームに冠をかぶせたいのであれば、

してそれが、信州メディアであるならば、〈信甲ダービー〉とすべきだろう。

この件は、既に数年前から提唱しているが、甲信ダービーは一向に死語にならない。


ヴァンフォーレは優良な先達ではあるけれど、同一リーグでやるからには、もはや対等以上の気構えがなくてどうする。

では。

まっとうな言葉、教育。


かつて、知り合った米国人が言った。

―ユダヤ人の子はその賢さで、学校の教師をやり込めて困らせるのが、アメリカ社会に在る、ユダヤ人のイメージなんだ。

非ユダヤ系からの、多分に人種的な決めつけにも思われた。

アルベルト アインシュタイン (1879~1955) がそういう個性であったのかは知らないけれど、その名を聞くと、この話が思いだされて仕方ない。

彼には、まったくそうだよなぁ、と同感させられる言葉がある。曰く、

調べられることを、いちいち憶えておく必要はない。

大切なのは、その情報や知識はどこへ行けば、どのようにすれば獲られるかを習得しておくこと。

けれど、悲しいかな。
萬年の小中高時代、成績の基準は、調べればわかるようなことをどれだけ憶えているかどうか、それに終始していたように思う。

いわゆる知識の多寡と、記憶力に優れることを良しとする教育ですな。

知的な興味が向けば、特定の分野に関する知識は増すのが自然。

けれど、それだけを尺度とする学業評価は個人の持つ可能性を多く見逃す。

なぜ、そういう教育になってしまうのか?

理由は簡単だ。
教師にとって、知識の一方的な伝達がもっとも楽な教授法であり、自己の権威を保てるから。

では。

〈コメント〉
☞つーさんより  (7/1 6:51)
風が吹けば桶屋が儲かる。
遠い記憶の中に「勉強は他人の気持ちが解る人間になるためにする」と言った先生がいた。あの難しい因数分解が、あの英語の文法が、何故人の心を…?と思ったものだ。
大人になって、人間関係や仕事の段取りなど困難に直面した時、柔軟に解決する力を養うため、子供の頃脳を鍛えておけと言うことだったのだろう。
人生をあまり上手く渡れていない私としては、もっと勉強しておくのだったとつくづく思います。
では、また。

☞萬年より (7/1 17:50)
学校は、いつかは去るもの。
大人になって〈勉強します〉と言ったら、商店主の値引きの言葉。
ま、それも、他人の気持ちを窺うことには違いないですね。